第68話 濁りゆく空
やがて――コックピット正面のフロントガラスの向こうに、夜の名残を引きずった海の彼方から、ひとつの島影がゆっくりと浮かび上がってきた。
オアフ島。
夜明けの光はまだ弱く、島の全貌を照らし出すには至らない。ただ、輪郭だけが淡く縁取られ、暗い海面の上に静かに切り抜かれている。その姿は穏やかで、どこか現実感を欠いたまま、まるで遠景の絵画のようにそこにあった。
だが――その一角だけが、明らかに異質だった。
ワイアナエ上空。
本来なら朝靄か低い雲が漂うはずの高度に、薄く濁った層が広がっていた。一見すれば雲に見える。だがその表面は均一ではなく、光を受けて微細に揺れている。
流れているのでも、留まっているのでもない。
その場に密度を持ったまま――蠢いていた。
距離が詰まるにつれ、その曖昧だった輪郭が、徐々に意味を持ちはじめる。
靄ではない。雲でもない。無数の飛行体。
それぞれが独立した形を持ちながら、空の一部を覆い尽くすほどに密集し、結果として一つの濁りとして空を侵食している。朝焼けの光はそれらの隙間にわずかに差し込み、しかし完全には貫けず、鈍く拡散していた。
空そのものが、腐りかけているかのようだった。
「……見えたな」
パイロットの低い声が、ヘッドセット越しに落ちる。視線は微動だにせず、ただ前方の異様な空域を射抜いていた。
「あの向こうが、着陸ポイントだ」
短く言い切ると、わずかに呼吸を整え、続ける。
「最速・最短で迂回する」
「了解した」
佐伯が応える。視線は正面のまま動かさず、わずかに顎を引く。パイロットは、その声を確認すると同時に、操縦桿が押し込まんだ。
機体が静かに沈み込み、次の瞬間にはエンジンの唸りが一段深くなる。四発の推力がわずかに増し、巨体は空気を掴むように前方へと滑り出した。
機首がわずかに傾き、ワイアナエ上空の縁をなぞるように進路が引かれる。
フロントガラスの向こうで、先ほどまで一枚の濁りにしか見えなかったものが、次第に粒を持ち始める。一つ一つの影が分離し、輪郭を帯び、明確な異物として目視でも認識できる距離へと入っていく。
無数の影が、空中で絡み合うように動いている。
だが、その濁りはある一点で途切れているわけではなかった。ワイアナエ上空を中心に最も濃く、そこから外縁へ向かうにつれて、密度がわずかずつ緩んでいく。
影は急に消えるのではない。層のように重なりながら、距離に応じて少しずつ薄まり、やがて輪郭を失っていく――空そのものが、濁りを引きずるように広がっている。
急に晴れることはない。ただ、重なり合っていた輪郭がほどけるように薄れ、やがて空の色に溶け込んでいく――その境界は、線ではなく、今まさに消えかかっている端だった。
機体は、その消失しかけた境界へと進路を取り、正面から踏み込んでいく。
――通過できる。その判断が、意識の中で形を取った瞬間。
ズドンッ――!
鈍く、しかし質量を伴った衝撃が、機体の左側面を打ち抜いた。
「今のはいったい何なんや?」
ニックが上ずった声を上げる。
コックピット全体が大きく揺さぶられ、視界が一瞬だけ跳ね上がる。遅れて、左翼の外側から、骨の奥まで響くような重い振動が伝わってきた。
次の瞬間、コンソールの一角が赤く染まる。
警告表示。
それに遅れることなく、けたたましい電子音が空間を切り裂いた。
無機質で、容赦のない警報が、コックピットの空気を一変させる。
「……っ、左外側、ナンバーワン・エンジン!」
コパイロットの叫びと同時に、背後に座るFEの腕がコンソールへと伸びた。
表示の一つが、完全に沈黙していた。推力、ゼロ。
「エンジンが飛行型サーヴィターを吸い込んで故障したんだろうな」
加納の冷静な声が落ち、それを受けて、大樹が思わず声を上げた。
「こ、これ……大丈夫なんですか!?」
一瞬、空気が張り詰める。
「FE! ナンバーワン・エンジン・シャットダウンのチェックリストに入れ!」
パイロットの鋭い指示が飛ぶ。
「了解、ナンバーワンの燃料カットオフ! ……油圧、B系統へバイパスします!」
FEの指先が迷いなくスイッチを弾き、死にかけた回路を瞬時に切り離していく。
そして――
パイロットは、まったく慌てていなかった。
「なぁに――」
計器から目を離さず、口の端だけで笑う。
「四発のうち一基落ちただけだ。問題ない。計算通りだ」
操縦桿を、わずかに引く。
左外側エンジンは沈黙したまま。だが、残る三基――左内側、右内側、右外側が即座に推力を引き受ける。
スロットルが押し込まれ、出力が再配分される。
機体がわずかに傾く。それを踏みつけるようにラダーが当てられ、強引に姿勢が押し戻された。
「推力再配分完了! 三発で維持可能です!」
コパイロットの声が、警報音の中を切り裂くように響いた。
機体は崩れない。わずかに傾いた姿勢のまま、それでも失速することなく空気を掴み続けている。
減速の兆しはない。むしろ、残された三基のエンジンが唸りを上げ、その不足分を埋めるかのように推力を押し上げ、巨体を強引に前方へと押し出していた。
振動は収まりきらず、機体の奥で鈍く響き続けている。それでも進路は保たれている。崩壊寸前の均衡を、無理やり踏みとどまらせたまま。
やがて――
機首の先、雲の層が裂けるように途切れ、その向こう側から地表の輪郭がゆっくりと浮かび上がってくる。
海岸線が現れ、埋め立てられた滑走路が朝焼けの光を鈍く反射する。さらに奥へと視線を伸ばせば、格納庫の列、管制塔の影、そのすべてが赤みを帯びた光の中に沈み込みながらも、異様なまでの規模をもって広がっていた。
パールハーバー・ヒッカム統合基地。
静まり返ったその広大な施設が、まるで何事もなかったかのように眼下に横たわっている。
「……見えたな」
パイロットが低く呟く。
すぐに、通信スイッチを押し込んだ。
「パールハーバー・ヒッカム、こちらC-5輸送機・コールサイン『リーチ103』。これより最終着陸態勢に入る。応答せよ。繰り返す。これから『リーチ103』は着陸態勢に入る。ヒッカム基地、応答せよ」
応答を待つわずかな時間が、異様に長く引き延ばされたように感じられた。
数秒――本来であれば一瞬に過ぎないはずの間に、しかし通信機からは何も返ってこない。ノイズすら混じらない、あまりにも整いすぎた無音だけが、ヘッドセットの奥に広がっていた。
やがて、コックピットの空気がわずかに重さを帯びる。誰もがそれを言葉にしないまま理解した、そのタイミングで――
加納が口を開いた。
「飛行型サーヴィターの電波妨害の影響だな。無線通信が死んでいるんだろう」
「なるほどなぁ……」
パイロットが短く息を吐く。
「じゃあ、自動着陸システムも使えそうにねぇな」
計器を一瞥し、パイロットの意識が自動制御から完全に切り離される。
その移行が、完全に終わるよりも早く――
ズドンッ!
鈍く、しかし内部まで突き抜けるような衝撃が、再び機体を打ち据えた。




