第65話 海へ逃がせ
ノアは、わずかに目を伏せたまま、ゆっくりと口を開いた。
「……あの研究所のドームは、破られます」
静かな言葉だった。だが、その一言で、室内の空気がはっきりと冷え込む。
ノアは、唇をかみしめるようにして、続きを絞り出す。
「最初に……出てくるのは、空を飛ぶモンスターです」
一瞬だけ、言葉を選ぶように間を置く。
「ドームの中から……です」
はっきりと、そう言い切る。
「内側から、一気に噴き出すみたいに……無数に。ドームの壁に明いた穴から、そのまま空に広がっていきます」
誰も、口を挟まない。
「その数が多すぎて……影が地面に落ちるんです。昼間なのに、暗くなるくらいに」
ノアは、一度だけ強く息を吐く。
「それから……地面が割れるような音がして……」
言葉が途切れる。喉の奥で何かを押し戻すように、一度だけ息を飲む。
「……蟻です」
絞り出された声は、かすかに震えていた。
「数十……いや、もっといるかもしれません。コンドミニアムの屋根よりも大きな蟻の群れが……赤黒い液体を吐きながら、ドームの中から……這い出してきます」
誰も動かない。誰も息を立てない。ただ、ノアの声だけが、淡々と空間を満たしていく。
「その口から吐き出される液体が……壁や床を、溶かしていくんです」
ジョディの指先が、わずかに震えた。
「それだけじゃありません」
ノアは、さらに言葉を重ねる。
「……何匹か、出てきます。もっと……大きなやつが」
目を閉じる。そのまま、ゆっくりと首を振る。
「まるで……重戦車みたいな、百足のモンスターです。装甲みたいな殻で……建物を、踏み潰して進んでいきます」
沈黙が、重く沈む。藤原博士が、ゆっくりと顔を伏せた。
その仕草は、否定でも拒絶でもない。ただ、受け止めるための動きだった。
ノアは、かすかに息を整え、さらに続ける。
「僕が見えるのは……断片的な映像だけです」
声は、少しだけ落ち着きを取り戻していた。
「その後どうなるのか……それが、いつ起きるのか……そこまでは、わかりません」
一瞬だけ、言葉を探すように間が空く。
「でも……見えます」
その声には、逃げ場のない確信があった。
「モンスターから逃げ惑う人たちが……」
ゆっくりと続ける。その右目が薄く光を称えている。
「酸を……口から吐きかけられて……施設が、溶けていくんです。建物が……崩れて……街も……」
言葉が、最後まで続かなかった。だが、そこで止まることで、かえってその先の光景を鮮明に想像させる。
室内に、完全な沈黙が落ちた。
やがて――
「……充分や」
低く、短い声が響いた。藤原博士だった。
顔を上げる。その表情には、先ほどまでの柔らかさは残っていない。ただ、現実を受け入れた者の静かな硬さがあった。
「ありがとう」
それだけを、はっきりと告げる。その言葉で、区切りがついた。
想定しうる最悪の状況が、今、ノアの口から語られたのだ。藤原博士は、わずかに視線を落としながら、ゆっくりと息を吐く。
(飛行型サーヴィターの群れが……最初に来る)
思考が、即座に戦術へと切り替わる。
(通信は、完全に遮断されるやろうな……)
上空を覆われれば、電波は遮断され、視界も奪われる。
(下手をすると……ヴァンガード隊の輸送機が、接近することさえ困難になる)
静かな分析だった。だが、その内容はあまりにも重い。だが――それでもなお。藤原博士の目は、わずかに鋭さを取り戻していた。
ただ絶望するためではない。対抗するために、考えている目だった。
藤原博士は、ゆっくりと顔を上げた。思考の流れを一度区切るように、小さく息を吐く。
「ジョディちゃんや」
呼びかけは穏やかだったが、その奥には明確な現実があった。
「仮にや。輸送機がオアフ島に着陸できん場合……どうしたらええと思う?」
ジョディは、ほんの一瞬だけ目を伏せる。すぐに顔を上げ、淡々と答えた。
「オアフ島が無理なら……ハワイ島に着陸するしかないわね」
迷いはない。既に選択肢として整理されている口調だった。
「そこから、最新鋭のスピアヘッド級遠征高速輸送艦をチャーターするしかないわ。状況にもよるけれど……到着までは、おそらく五時間か六時間といったところかしら」
その数字が、重く落ちる。
藤原博士は、わずかに顔をしかめた。
「……六時間か」
低く呟く。
決して短い時間ではない。だが、無理に突入して輸送機が墜落すれば、それこそ全てが終わる。
しばしの沈黙のあと、ぽつりと続ける。
「小田桐はんには……そっちのルートも伝えといた方がええかもしれへんな」
視線をわずかに落とし、思考を整理するように頷く。そして、ふと顔を上げた。
「あとは……ハワイの戦力で、いつ到着するかわからん援軍が来るまで、時間稼ぎをせなあかん訳やが――」
そのまま、カレオへと視線を向ける。
「カレオ、ちょっと聞きたいことがあるんや」
呼ばれたカレオは、腕を組んだまま視線だけを動かし、藤原博士を捉えた。
「何だ」
短い返答。
藤原博士は、わずかに間を置いてから口を開く。
「例えばや」
言葉を選ぶように、ゆっくりと。
「消防車の給水を、海からやって……海水をそのまま放水することは、できるんか?」
室内の空気が、わずかに動く。
カレオは、すぐには答えなかった。ほんの一瞬だけ考え、現実的な条件を頭の中で組み立てる。
そして、口を開いた。
「ドクター・フジワラ」
低く、落ち着いた声。
「物理的には……できないことはないと思う」
だが、と一拍置く。
「もともと海水で使用するようには作られていない。ポンプも配管も、塩分に対する耐性は想定外だ」
淡々とした説明が続く。
「使用後は……内部に残った塩分を完全に除去するために、真水で徹底的にフラッシングしなければならない」
わずかに眉をひそめる。
「現場の連中は……やりたがらないだろうな」
その言葉は、現場の意見そのものだった。それを受けて、藤原博士がゆっくりと口を開く。
「ノアの言っとるモンスターなんやが……海水が苦手なんや」
低く落ち着いた声だったが、その言葉ははっきりとした重みを伴っていた。
「ダメージを与えることはできん。せやが――動きを封じることはできる」
室内の空気が、わずかに変わる。
藤原博士は、そのまま言葉を継いだ。
「消防車の放水やったらな……百足型は無理かもしれんが、蟻型なら効果は期待できるやろう」
淡々とした口調だった。だが、その内容は現実的な戦術として、はっきりと形を持っている。
それまで腕を組んでいたカレオの表情が、そこでわずかに変わった。思考の軸が、傍観者から当事者のものに移る。
藤原博士は、その変化を逃さず、さらに踏み込んだ。
「住人たちが海の上まで避難できれば……人的被害は防げるやろう」
一拍置く。言葉を選ぶというより、現実の重さをそのまま差し出すように。
「消防車の放水で時間稼ぎができれば、その時間が確保できるかもしれへん」
そして、視線をまっすぐカレオへ向ける。
「カレオ……何とか協力を頼めんやろうか」
静かな、だが逃げ場を与えない問いかけだった。カレオはすぐには答えなかった。
視線をわずかに落とし、短く息を吐く。頭の中で、現実の手順と責任の所在を組み立てているのが分かる。
やがて、顔を上げた。
「俺にできることは……署長に事情を話し、判断を仰ぐところまでだ」
短く、はっきりとした言葉だった。その後に、沈黙が落ちる。
カレオは、わずかに視線を横へ流し、窓の向こう――スラムの方向へと目を向けた。そこにある生活の気配を、確かめるように。
「……だがな」
低く続ける。
「ここワイアナエは、ネイティブハワイアンの血筋も濃い地域だ」
ゆっくりと、言葉を選ぶ。
「俺たちは……先祖から預かっているこの土地で、生きている」
その声には、さきほどまでとは違う重みがあった。個人ではなく、土地に根ざした人間の響き。
「家族の命を助けるためだったら――」
一瞬だけ間を置く。その間に、決意が固まる。
「ノーという答えにはならないだろうよ」
言い切った。カレオの視線が、まっすぐに藤原博士を射抜く。強く、揺るがない眼差しだった。
藤原博士は、その視線を正面から受け止める。胸の奥に、小さく確かな手応えが灯る。
「解った。それで十分や」
一度だけ、深く頷く。その表情には、迷いはなかった。
「ええか。空飛ぶ怪物が出現したら――通信手段は遮断される」
視線が、三人を順に捉える。
「スマートフォンが使えんようになるんや。そうなったら……もう赤信号や」
言葉は淡々としている。だが、その意味するところは明確だった。
「協力が願えるなら……消防車は緊急出動を頼みたい」
そのまま、次の指示へと移る。
「カレオは、消防署への協力要請を」
短く、だが重く。藤原博士の言葉は続く。
「ジョディちゃんは……万が一の時の海上ルートの確保や」
ジョディの視線が、わずかに鋭くなる。
「そして――ノア」
その名を呼ぶ声だけが、ほんの少し柔らいだ。
「今までどおり、住民たちに呼びかけてくれ」
だが、すぐに現実へ引き戻す。
「それと……急に皆のスマートフォンが一斉に使えんようになったらや」
ゆっくりと、言葉を区切る。
「地域住民には……浮き輪でも何でも構わん」
一瞬、間を置く。
「とにかく、無理なく海上に浮かんどけるような物を持って――海に出て、浮かんどくように呼びかけてほしいんや」
その言葉は、極めて具体的だった。それは、生き残るための、最低限の手段だ。
藤原博士は、三人を見渡した。
「みんな……よろしく頼む」
そして――
「この通りや」
そう言って、藤原博士は、三人に深く頭を下げた。
室内に、わずかな静寂が落ちる。
ノアが、静かに頷く。
カレオも、強く一度。
ジョディもまた、短く顎を引いた。
三人の頷きは、それぞれ違う重さを持ちながら――同じ方向を向いていた。




