第64話 未来視の根拠
扉が閉まり、外界のざわめきがすべて切り落とされたあと、室内にはわずかに湿った木材の匂いと、冷えた空気だけが静かに満ちていた。
粗末な造りのはずの室内は、外から想像するよりも整っている。壁際には使い込まれた家具が無駄なく並び、床には掃き清められた跡がある。生活の痕跡は確かにあるのに、不思議と雑然とした印象はない。むしろ、必要なものだけを残したような、妙な整理の行き届き方だった。
その空気の中で、少年はゆっくりと口を開いた。
「……まさか、ジャパニーズに直接話ができるとは思いませんでした」
先ほどまで外で張り上げていた声とは違い、今は抑えた調子だった。だが、その奥に潜む熱だけは隠しきれていない。
視線はまっすぐ藤原博士へと向けられている。
「日本の――サムライ・マシンのことは、僕も知っています」
言葉の終わりと同時に、少年の表情がわずかに崩れる。年相応の、抑えきれない興奮がそのまま滲み出た。
藤原博士は、その言葉を受けて眉をひそめる。
「サムライ・マシンやて?」
その横で、ジョディが一歩だけ視線を動かす。
「ドクター・フジワラ」
呼びかけは短く、端的だった。
「アメリカ人の間では、日本のスサノヲの名称を知る者は限られています」
淡々とした口調。だが、その言葉は状況を整理するように正確だった。
「ですが、その存在そのものは広く知られています。断片的な情報と、あくまでもな噂としてですが……そして――そうした人間たちの間で、なぜか共通して使われている呼称が、サムライ・マシンです」
理由は不明。だが、事実として浸透している。ジョディの説明は、それ以上でもそれ以下でもなかった。
その言葉を受けた瞬間だった。少年の表情が、目に見えて変わる。
先ほどまでの興奮が、別の質の熱へと変わる。驚愕と、確信と、そして――目の前の人物を測ろうとする鋭さ。
「……ドクター・フジワラ?」
ゆっくりと、その名をなぞるように口にする。
「本当に……ドクター・フジワラ? サムライ・マシンの、生みの親――?」
問いかけというより、確認だった。だがその声は、わずかに震えている。
藤原博士は、その視線を真正面から受け止めた。
一瞬だけ間を置く。
そして、肩の力を抜くように小さく息を吐いた。
「ああ、いかにも」
気負いのない声音。
「ワシがその、ドクター・フジワラや」
あまりにもあっさりとした肯定だった。だが、その一言で十分だった。
次の瞬間、少年の表情が弾けるように明るくなる。迷いなく一歩踏み出し、そのまま手を差し出す。
「――!」
細い腕。だが、その動きには躊躇がない。
「僕の名前はノア・ウィンフィールドといいます。ドクター・フジワラ――お会いできて、大変光栄です!」
言葉は一気に溢れ出した。抑えきれない高揚が、そのまま声の調子を押し上げている。差し出された手は、わずかに震えていた。藤原博士は一瞬だけ目を瞬かせる。
その熱量に、ほんのわずかに気圧されたような間。それでも、すぐにその手を取った。
「ああ、どうも……」
握り返しながら浮かべた笑みは、どこかぎこちない。賞賛や敬意を向けられることに慣れていないわけではない。だが、それでもこの距離、この温度で向けられると、どうにも落ち着かない。
視線をわずかに逸らし、頬をかく。
その仕草は、サムライ・マシンの生みの親と呼ばれる人物のそれとしては、あまりにも人間臭かった。
その様子を、カレオが壁際から眺めていた。腕を組んだまま、わずかに眉を上げる。
「……あんたが、あのドクター・フジワラか」
低く落とされた声には、隠しきれない意外が滲んでいた。視線は鋭い。値踏みするようでもあり、同時に納得しきれていない色も混じっている。
藤原博士は、その視線を受け止めながら、苦笑を深めた。
「まあ……そういうことになっとるなぁ」
軽く頭を掻く。乾いた笑いが、静かな室内にわずかに広がる。
その余韻を断ち切るように、壁際に寄りかかっていた男が一歩だけ前に出た。
「……俺の名前はカレオ・ケアロハ」
低く、よく通る声だった。腕を組んだまま、視線だけで場を押さえつけるような圧がある。
「ノアとは遠い親戚にあたる。これでも本職は消防士だ。この近くのスラムとの境界にある消防署に勤務している」
言葉は淡々としているが、その奥にあるものは隠されていない。
「正直、スラムのテント村を強制退去させて新しい施設を建てる研究所の連中のやり方には腹を立てている」
空気が、わずかに張り詰める。
「ノアの演説が気に入らないのか、ちょっかいを出してくる連中もな」
一瞬だけ間を置く。
「銃は撃ったことは無いが……覚悟のために持っている」
その言葉は、静かだった。だが、軽さは一切なかった。
カレオの視線が、ゆっくりとジョディへ向く。突き刺すような、真っ直ぐな視線。それを受け、ジョディは、わずかに表情を曇らせた。
白を基調とした機能素材のジャケット。胸元には小さく刻まれた研究所のエンブレム。無駄のないカッティングと、現場仕様に調整された細部――それは一目で、この場の誰とも異なる所属を示していた。
研究所の人間。言葉にせずとも、十分すぎるほどに伝わる。
否定も弁解もせず、そのまま受け止めるしかない――そんな顔だった。だが、ジョディは目を逸らすことなく真正面から彼の視線を受け止め、目を逸らさなかった。
その沈黙を、藤原博士の短い声が破った。
「ふむ」
小さく頷く。何かを確かめるような、納得するような仕草。そして、そのままノアへと視線を向けた。
「ノアよ。一つ聞いていいかい?」
穏やかな口調だった。だが、その奥には明確な意図がある。
「何でも聞いてください、ドクター・フジワラ」
ノアは迷いなく応じる。藤原博士は、ほんのわずかに目を細めた。
「神のご加護で、未来が見えると言っていたと思うが――それは、いつごろからなんや?」
藤原博士は、わずかに視線を細めたまま言葉を切る。
「もしかしたら……最近のことやないんか?」
ノアが、ぱちりと瞬きをする。
予想していなかった問いだったのだろう。だが、その驚きはすぐに別の色へと変わる。
「まさか……ドクター・フジワラは、サムライ・マシン以外にも何でも分かるんですか?」
半ば感嘆に近い声。そして、すぐに頷いた。
「そうなんです。未来が見えるようになったのは……一ヶ月ほど前くらいからなんです」
その言葉が落ちた瞬間、藤原博士の中で何かが繋がる。
やはり――内心で、確信が形を取る。
(やっぱりそうや)
小田桐から聞いた話が、脳裏に蘇る。屋島への核弾頭の落下。その際、巻き込まれたという未来視の五眼の能力者。
時期が、ぴたりと符合する。偶然ではない、そう断じるには十分すぎる一致だった。
藤原博士は、わずかに視線を落とす。思考を巡らせるその一瞬、室内の空気がさらに静まり返った。
(五眼の能力者は依り代や……能力者が失われれば、カルナもその力を使えんようなる。せやから――新たな能力者が発現すると考える方が自然なはずや)
断片だった情報が、一本の線として繋がっていく。
――ゆっくりと顔を上げる。その目には、先ほどまでの柔らかさとは別の光が宿っていた。そして、その線の先にいるのが――目の前の少年。
「ノアよ」
呼びかけは静かだった。だが、その声音には、先ほどまでとは明らかに異なる重みがあった。場の空気そのものをわずかに沈めるような、芯の通った響きだった。
「坊のいう予言についてやが……信じられん言う人間も多くおるやろ」
藤原博士は、事実をそのまま置くように言う。飾らず、断じもせず、ただ現実として差し出す言い方だった。
そのうえで、わずかに間を置く。視線は逸らさないまま、言葉だけが静かに続いた。
「せやけどな。ワシには、坊が言うとることが――口からの出まかせやないと裏付けられる根拠があるんや。ワシは坊の言うことを信じられる」
その一言は、重くはなかった。むしろ静かに落ちた。だが、それゆえに、室内の空気がはっきりと変わる。
時間が、ほんのわずかに引き延ばされたように感じられた。
ノアの目が、大きく見開かれる。
言葉の意味が届くまでに、ほんの一瞬の遅れがあった。その遅れが、次の変化を際立たせる。
理解が追いついた瞬間、少年の表情が崩れた。
それは単純な喜びではない。押し留めてきたものが、堰を切ったように溢れ出す種類の感情だった。
唇がわずかに震え、呼吸が乱れる。胸の奥で何かがほどけていくような、そんな微かな音すら聞こえてきそうだった。
目の奥に、光が滲む。
それはまだ涙と呼ぶには曖昧だった。だが確かに、これまで浴びてきた否定や嘲り、冷たい視線の記憶が、まとめて溶け出した痕跡だった。
「……ドクター・フジワラ……」
呼びかけは、ほとんど息に近い。それでも、確かに届く。
「ありがとうございます」
短い言葉だった。だが、その一言の中に積み重なっていた時間の重さが、そのまま滲んでいた。
藤原博士は、その様子を静かに受け止める。何も言わず、急かさず、ただ一度、ゆっくりと頷いた。
「ノア」
改めて名を呼ぶ。その呼び方には、先ほどまでの距離とは違う、わずかな確信が含まれていた。
「坊が見た未来の詳細を――ワシに詳しく教えてくれるか?」
問いかけは穏やかだった。
試す色も、疑う色もない。ただ、事実を受け取りにいく――そんな声だった。
ノアは、迷うことなく頷いた。その動きには、先ほどまで残っていた揺らぎがなかった。
「はい」
一度だけ、深く息を吸う。胸の奥に残っていた震えを整えるように、ゆっくりと吐き出す。
そのわずかな呼吸の間に、少年の表情は確かに変わっていた。
高揚ではない。衝動でもない。自分が見たものを、逃がさず、歪めず、正しく伝えようとする――そんな静かな覚悟が、声の奥に宿る。
ノアは、言葉を選ぶようにして口を開いた。
語られるのは、ただの予測ではない。彼自身が望まずとも見てしまった未来だった。




