第63話 預言者の眼
藤原博士は、最後の一口を飲み込んだあと、わずかに喉を鳴らした。指先に残る油の感触を、紙ナプキンで拭いながら――ゆっくりと口を開く。
「……ジョディちゃん、申し訳ないんやが、帰りに寄り道させてもらって良いかね?」
視線を送る。試すようでもあり、確かめるようでもあった。
ジョディはフォークを止め、軽く首を傾げる。
「良いですが、どちらに行かれるおつもりですか?」
声音は変わらない。だが、その奥にある注意深さだけが、わずかに色を変えていた。藤原博士は、ほんの一瞬だけ間を置く。
潮風が、その沈黙を埋めるように吹き抜ける。
「ああ――あの預言者の坊主の話を、ちょっと聞かせてもらおうかと思ってね」
軽く言ったつもりだった。だが、その言葉はわずかに場の空気を変えた。
潮風が吹き抜ける中で、ジョディはフォークを止めたまま、静かに視線を上げる。表情は変わらない。ただ、その瞳だけがわずかに細められた。
数秒。短い沈黙の中で、思考だけが静かに巡っていた。
「……そうですね」
納得とも、確認ともつかない声を落とし――そして、ふっと口元を緩める。
「それじゃ、テイクアウトのドリンクの追加で手を打たせてもらいます」
片目を閉じて、軽くウインクする。
その仕草には、さきほどまでの張り詰めた気配はなく、すでに話はまとまっていることだけが、さりげなく伝わってきた。
藤原博士は、思わず小さく笑った。
「しっかりしとるなぁ、ジョディちゃん」
小さく漏れた笑いは、感心と苦笑が入り混じったものだった。その響きに、わずかな頼もしさが滲む。
ジョディは肩をすくめる。
「レディとのデートを延長するには、追加料金がかかるんですよ」
さらりと言ってのける。
足元では、ニワトリたちが諦めきれずに地面をつつき、吹き抜ける風に紙皿の端がぱたぱたと揺れていた。
「じゃあ、行きましょうか」
ジョディが立ち上がる。容器の蓋を閉じ、手際よくまとめる。
藤原博士も、それに続いた。
視線の先――スラムの奥へと続く細い路地。さきほどまで何気なく見ていた風景が、今はわずかに違って見える。
容器をダストボックスに放り込むと、ジョディはそのままくるりと踵を返し、窓口へと戻った。
「Lサイズ、ひとつ追加で」
慣れた口調で告げる。
受け取ったカップは――明らかに大きかった。
片手で持つには少し躊躇するほどのサイズ感。氷がたっぷりと詰め込まれ、透明な蓋の内側で音を立てている。
「……それ、飲みきる気かね?」
藤原博士は、思わず眉をひそめた。
「移動中にちょうどいいですよ」
藤原博士の懸念を気にもとめず、ストローを差し込む。軽く一口。氷が、カラン、と乾いた音を立てた。
藤原博士は小さく息を吐く。
「……ようそんな量、平気でいけるな……」
「褒め言葉として受け取っておきますね」
軽く流しながら、ジョディは歩き出した。
藤原博士も、その背を追う。
そして――港のざわめきから離れ、再びスラムの中へと戻っていく。
――預言者。
神の加護で未来が見えると語る、あの少年。
軍の干渉を恐れてか、一定の場所には留まらない。食事をとる前に見かけた場所とは少し離れたところに、少年はいた。
少年の周りには、護衛するように立つ大人が数名。
そして、その周囲を行き交う者の中で、足を止めて話を聞いている者が、ぽつぽつといるだけだった。
ただの子供の戯言――そう切り捨てられかけた空気が、場に残っている。
「……おったな」
藤原博士が足を止める。
その視線の先――スラムの雑然とした空間の中、壊れて打ち捨てられたトラックの荷台に、ひとりの少年が立っていた。
錆びついた車体は歪み、長く放置されていたことを物語っている。その上に、細い体でまっすぐ立ち、周囲を見下ろすようにして声を張り上げていた。
「――ワイアナエの基地は危ないんだ!」
かすれた声。それでも、その言葉はざわめきの中に確かに届く。そこには、ただの叫びでは終わらない、奇妙な確信が滲んでいた。
「このままだと、あそこからモンスターが出てくる!」
その叫びに、周囲の人々がざわめいた。信じ切るには荒唐無稽だが、笑い飛ばすには妙に引っかかる――そんな曖昧な空気が場に滞る。
藤原博士は無言のまま、その様子を見つめていた。
(……やっぱり、あの目や)
ただの子供ではない。少年の右目が、微かに――だが確かに、淡い光を帯びている。
隣でジョディが、小さく呟いた。
「相変わらず、目立ってますね」
「探す手間が省けて助かるわ」
短く返し、藤原博士は一歩、前へ出る。人混みに足を踏み入れた瞬間、ざわめきの質がわずかに変わった。それを感じ取ったのか、少年の声がふと揺らぐ。
そして次の瞬間、その視線がまっすぐに藤原博士を捉えた。
「ジャパニーズ! 貴方はジャパニーズですね!」
先ほどまでの叫びとは違う、一直線に向けられた声だった。
藤原博士はわずかに顎を引き、頷く。
「ああ、ワシは日本人じゃ」
そう言って踏み出そうとした、その瞬間――す、と横から影が差し込んだ。
ジョディだった。
ドリンクを持ったまま自然に半歩前へ出て、藤原博士の進路をわずかに塞ぐ。同時に、空いた手がさりげなく腰へ落ちる。
――銃。
視線は動かさないまま、周囲を捉える。少年の背後では、護衛の一人が反射的に上着の内側へ手を差し入れていた。
空気が、わずかに張り詰める。引き金に指がかかる直前の、短く鋭い間合い。
その緊張を――
「彼は大丈夫だよ。ありがとう、カレオ」
少年の声が、静かに断ち切った。
カレオと呼ばれた男は一瞬だけ目を細めたが、すぐに手を離す。それを確認し、ジョディも何事もなかったかのように力を抜いた。
腰から手を離し、そのままストローを口に運ぶ。氷が軽く鳴り、ゆっくりとひと口含む。
まるで今の一瞬など最初から存在しなかったかのような顔だった。
藤原博士は、そのやり取りを横目で受けながら、小さく息を吐く。
「……ちょっと話を聞かせてほしいんや」
視線を、まっすぐ少年へ戻す。
「ここじゃあ話しにくいこともあるやろ。良かったら、どこか静かなところに移動できんか?」
少年は、迷うことなく頷いた。
「解りました」
短く答えると、少年はそのまま荷台の縁に足をかけ、軽く飛び降りた。細い体が、音もなく地面に着地する。
それを見届けて、背後の男――カレオが口を開く。
「この近くに俺の家がある」
低い声だった。
「ボロくて風通しはいいが、少なくとも外よりはマシだ。余計な耳は入りにくい」
実用一点張りの言い方だったが、藤原博士はためらいなく頷いた。
「解った。そこで良い」
短く言い切ると、少年は一度だけ周囲を見回した。
ざわめきはまだ残っているが――関心はすでに別の場所へ流れ始めている。
「行こう」
その一言で、流れが定まった。
カレオが先に立ち、人を軽くいなすように歩き出す。少年がその後ろに続き、藤原博士とジョディが並んで後に続いた。
再び、スラムの中へ。
細く折れ曲がる路地、湿り気を帯びた空気、途切れることのない生活の匂い――それらの中へ、四人は自然と溶け込むように踏み込んでいく。
少年が立っていた場所からいくつか角を曲がった先、周囲の喧騒からわずかに切り離された一角に、その家はあった。
ワイアナエのどこにでもある、古びたプランテーション・スタイルの平屋だ。
潮風と強い日差しに晒され、外壁のペンキは所々剥げ落ち、赤土の埃が薄く積もっている。
屋根の一部はトタンで補修されており、決して裕福とは言えないが、周囲のテント村に比べれば、確かな生活の重みを感じさせる佇まいだった。
家の前には、使い古されたプラスチックの椅子が二つ並び、その脇でマンゴーの木が乾いた音を立てて葉を揺らしている。
窓には古いブラインドが下ろされ、軒下には洗濯用のロープが渡されている。
どこにでもある、見向きもされないような静かな家。
「……ここだ」
カレオが、短く言う。
足を止め、ポーチへと上がる。その動きに迷いはない。ポケットから、使い込まれた鍵を取り出す。
金属が擦れる、小さな音。ドアノブに差し込み、回す。カチ、と乾いた音が鳴った。
「さあ、入ってくれ」
扉が開く。その瞬間、家の奥から、スラムの熱気とは対照的な、ひんやりとした静寂が流れ出してきた。
外の空気とは明らかに違う温度。湿り気を帯びた熱が、すっと押し戻される。
藤原博士は、わずかに目を細めた。
(……空気が、違う)
生活の匂いはある。壁際には、煤けた防火ジャケットが無造作に書けられ、その下に、使い込まれたブーツがきちんと揃えられていた。
焦げ跡の残るヘルメットが、棚の上で静かに色を鈍らせている。
外のざらついたそれとは違い、どこか整然としている。
ジョディが、無言のまま一歩、先に視線を滑らせる。入口、窓、奥の影――一瞬で把握する。
問題なし。小さく顎を引いた。
「失礼するで」
藤原博士が言い、靴先をわずかに止めてから、敷居を跨ぐ。少年が続き、ジョディが最後に入る。
カレオが外を一度だけ確認し、扉を静かに閉めた。
音が、遮断される。ざわめきも、風の音も、遠のく。残るのは――閉じた空間の中に落ちる、静かな気配だけだった。




