第62話 塩辛い現実
潮の匂いが、わずかに強まる。
スラムを抜けた先――港の入口。
視界が開けたその場所に並んでいたのは、店と呼ぶにはあまりにも簡素な、半ば露店のような飲食の場だった。
ベニヤ板で組まれた窓口だけのスナック・ショップ。錆びついたトレーラーを改造した移動販売車。色褪せた手書きのメニューが風に揺れ、文字はところどころ滲んでいる。
整えられた観光地の気配はない。導線も、装飾も、客を引き寄せる意図すら感じられない。
あるのはただ――生活に根付いた匂いだった。
潮の湿り気に、油の焼ける香り。さらに、どこかで焦げた何かの匂いが混ざり合い、重く空気に沈んでいる。
「……」
藤原博士は、その場で足を止めた。
視線の先。保温棚に並べられたラップの塊。その一つに貼られた、簡素な紙片。
――おむすび
わずかに目が細まる。
「……ほう」
短く息を漏らし、顎で示す。
「ジョディちゃん、あれを一つもらえるかい」
「はいはい」
ジョディは慣れた足取りで窓口へ向かい、簡潔に注文を済ませると、そのまま自分の分も頼んだ。
「ミックス・プレート」
戻ってきた彼女の手には、大きな発泡スチロールの容器。蓋の隙間から、濃い茶色のソースが覗いている。
中には、たっぷりとソースをまとったハンバーグ。そして、その隣に添えられた、不自然なほど白いマカロニサラダ。
一方で藤原博士の手に渡されたのは、ラップに包まれた小さな塊だった。
まだ、わずかに温もりが残っている。
「……ジョディちゃん、これ、この肉はなんや?」
軽く持ち上げながら問う。
「スパムよ」
即答だった。
「ドクター、ハワイに来て一週間も経つのに、まだ食べてなかったの?」
「……いや、時間がなくてな」
そう言いながら、ラップを外す。
白い米。
その上に載せられた照りのある肉片。
海苔が、それらを簡素にまとめている。
(……なるほど)
構造は単純だ。説明するまでもない。
だが――その単純さが、どこか異質にも感じられた。
一口、かじる。
舌に広がるのは、強い塩気。醤油の輪郭に、わずかな甘みが絡む。
米の柔らかさと肉の油が混ざり合い、口内に重く残る。
洗練とは程遠い。むしろ――粗い。
だが。
「……」
藤原博士は、無言でもう一口かじった。
(……悪くないな)
冷房の効きすぎた研究所。張り詰めた空気。削られ続ける神経。
そのすべての隙間に、この味は遠慮なく入り込んでくる。
隣ではジョディが、何事もない様子で食事を進めている。その手元のプレートにもまた、同じような重さがあった。
そのとき――
ぶん、と低い羽音が耳元をかすめる。
「……ん?」
視線を落とす。
スパムむすびの縁に、ハエがとまろうとしていた。
軽く払う。だが、すぐに戻ってくる。
もう一度払う。それでも離れない。
「……しつこいな」
小さく呟き、食べる間合いをわずかにずらす。
気を抜けば、すぐに寄ってくる。
清潔とは言い難い環境。だが――それを異常と感じる感覚の方が、この場では浮いている。
足元で、かさり、と音がした。
視線を落とす。
いつの間にかニワトリが寄ってきていた。
一羽ではない。二羽、三羽と、いつの間にか数を増やしている。
首を傾げながら、こちらを見上げる視線。
警戒はない。あるのは、露骨な期待だけだ。
食べこぼしを待っている。
「……」
藤原博士は、わずかに口元を緩めた。
「なんや、えらい積極的やな」
足元では、コツコツと地面をつつく音が続く。人の動きに合わせて、わずかに距離を詰めてくる。
ジョディは一切気にしない。慣れきった手つきで、淡々と食事を続けている。
その姿が、この場所の日常だった。
潮風が吹く。
スラムの方角から、煮炊きの匂いが流れてくる。
油の匂い。焦げた何かの匂い。
それらが湿った空気に溶け込み、重く漂う。
藤原博士は、手の中のスパムむすびを見た。
白い米と、茶色い肉。単純な構成。
だが――
もう一口、噛みしめる。
「……」
贅沢とは無縁の味。華やかさも、洗練もない。
それでも。
(生きとる味やな)
心の中で、静かに言葉が落ちる。
重い。
粗い。
ただ塩辛い。
――だが確かに、ここにある現実そのものだった。
しばらく無言で咀嚼する。
だが、その思考はすでに食事の上にはなかった。
(……このままやと、間に合わん)
意識は、静かに別の場所へと移っていた。
その向こう。何も知らずに日常を続けている人間たち。
ここに住む者たちの、ささやかで、しかし確かに積み重ねられてきた生活。潮風の中で営まれる、取るに足らない日常。
だが――
それが今、カルナの脅威によって、静かに崩されようとしている。
恐らく、猶予はない。そう断じるだけの材料は、すでに揃っていた。
(……あの少年の言うとることは、事実や)
ほとんど確信に近い。
根拠はある。推測ではない。積み上げた結果としての結論だ。
だからこそ――
(どうする)
思考が、静かに巡る。
(どうすればええ)
トニーを動かす。アメリカという国そのものを動かす。
与島からスサノヲを呼び寄せる。
そのどれか一つでも欠ければ、間に合わない。
(……終わる)
結論だけが、先にある。だが、それに至るための手段が決定的に足りていない。
思考は空転し、同じ場所を回り続ける。打開策は浮かばない。
――そのときだった。
「ドクター」
不意に、声が落ちてきた。藤原博士は、ゆっくりと顔を上げる。
ジョディが、ドリンクを片手にこちらを見ていた。その表情は柔らかいが、視線だけが外れていない。
「デート中なんですからね」
わずかに口元を緩め、片目を閉じる。
「食事中にレディを無視して、怖い顔で考え込むのは失礼ですよ」
「……ああ」
藤原博士は、小さく息を吐いた。
「済まない、ジョディちゃん。ちょっと……考え事をしていてね」
「でしょうね」
あっさりと返される。
ジョディはフォークを動かしながら、何気ない調子で続けた。
「ドクター」
呼びかけは、間を置かずに続いた。
「ここ一週間、あなたの傍にいさせてもらって――少しずつ分かってきたつもりです」
藤原博士は、何も言わずに耳を傾ける。
潮風が、少し強く吹いた。テーブルの上の紙ナプキンが揺れ、端がわずかにめくれ上がる。
「あなたは、日本という国にとって直接の利益があるわけでもないのに、こうしてハワイまで来て――懸命に動いている」
視線は逸らさない。
「そして、さっきの少年の言葉」
静かに、言葉を置く。
「あれは――実際に起こる未来を、そのまま伝えているんですよね」
「……」
藤原博士は答えない。否定も、肯定もない。
だが、その沈黙は――限りなく答えに近かった。
ジョディは、まるで最初から分かっていたかのように、小さく頷く。
ハンバーグを一口、口に運ぶ。ゆっくりと咀嚼しながら、言葉を続ける。
「そして……」
フォークを置く音が、小さく鳴る。
「あなたの進言を、トニーは――アメリカという国は、受け入れようとしない」
ジョディの声音は静かだった。だがその奥に、わずかに引っかかるような棘が混じっている。事実を述べているだけのはずなのに、どこか感情が滲む――そんな温度だった。
「……そうですね」
確認するように、しかし逃げ道を残さない言い方で返す。藤原博士は、その言葉を受けてから、ほんの一拍遅れて息を吐いた。
「ああ……そうだ」
短い。だが、それ以上は不要だった。肯定は、それだけで十分すぎるほどの重さを持っている。
潮風が、二人の間をすり抜けていく。
塩気を含んだ空気が、言葉の余白を埋めるように流れ、どこか遠くでニワトリの鳴き声が重なった。
人の気配はある。笑い声も、食器の触れ合う音も、確かにそこにある。
それでも――この場だけが、わずかに切り離されたように静かだった。
藤原博士は、手の中のスパムむすびへと視線を落とす。先ほどまで感じていた温もりは、もうほとんど残っていない。潮風に撫でられ、その表面はゆっくりと冷えていく。思考と同じように。
「……いい案があります、ドクター」
不意に落ちてきた言葉に、藤原博士は顔を上げた。ジョディの表情は、変わらない。軽さも、柔らかさもそのままだ。だが――その奥に、一本、芯が通っている。
遊びではない目だった。
「スサノヲを、米軍に無償提供してください」
「……は?」
思考が、一瞬だけ途切れる。理解が追いつくより先に、言葉だけが遅れて口をついた。
だが、ジョディは気にした様子もなく、淡々と続ける。
「プライドが高いんですよ。アメリカ人は。少なくとも、軍の上層部は」
ドリンクを口に運ぶ。氷が軽く触れ合い、乾いた音を立てた。
「自分たちが最強だという自負がある。だから――他国の助けを受ける、という形そのものが許容しづらい」
視線は逸らさない。
感情ではなく、構造を説明する口調だった。
「それに、輸送機の手配にもコストがかかる。上の判断では“日本の支援は不要”とされている以上、そのために予算を割く理由がない」
わずかに肩をすくめる。
「軍は、感情だけでは動きません。手続きと、予算と、建前で動く組織です」
言葉が途切れたあとも、その視線だけは揺るがない。
潮風が、紙皿の端をかすかに揺らした。
「そう判断するのが――自然です」
藤原博士は、何も言わない。 否定する言葉は浮かばず、かといって肯定するにも重すぎる。
ただ、聞いている。
ジョディは紙ナプキンで口元を拭い、軽く丸めた。その仕草はいつも通りだが、言葉の重さだけが場に残る。
「だからですね」
ほんの少しだけ、声が落ちる。
「最悪――後で反故にしても構いません」
「……」
「理由なんて、いくらでも作れますから」
視線が、わずかに鋭くなる。
「ワイアナエ基地には、カルナ・サーヴィター発生のリスクがある。だから万が一に備え、日本がスサノヲを無償提供する」
言葉を積み上げるように、淡々と。
「さらに、パイロット育成を目的に、指導員を派遣する」
そして――
ほんのわずかに、口元を緩めた。
「そういう建前にするんです」
藤原博士の手が、止まる。スパムむすびを持ったまま、動かない。
思考が、ようやく追いついてくる。
「そうすれば……」
ジョディは続ける。
「他国の助けを借りるんじゃない。自分たちの戦力を強化するための訓練を受けるという形になる」
潮風が、二人の間を抜ける。
「日本の技術提供を受けるのは癪に障る――っていう意見も、当然出るでしょうね。でも……」
ジョディは、そこでわずかに言葉を切った。ほんの一瞬の間。その隙間に、潮風がすべり込む。
そして――口元が、ほんの少しだけ緩む。
「でも、日本が運用して、実際に成果を上げている機体が、タダで手に入るとなれば――話は別です」
断定ではない。だが、ほとんど確信に近い言い方だった。
風が、二人の間を抜けていく。遠くで、波が砕ける低い音が、一定のリズムで重なっていた。
「そのメリットがあるなら、輸送機の手配なんて――安い代償です」
言い切る。
その瞬間、言葉が場に沈んだ。音が消えたわけではない。人の気配も、生活のざわめきも変わらずそこにある。
だが――二人の間だけが、切り取られたように静まる。
藤原博士は、何も言わない。言葉を選んでいるわけでも、拒んでいるわけでもない。
ただ――思考が、明確に動いていた。
(……通る)
その一言が、内側で静かに落ちる。
確実ではない。だが、十分に現実的な線だ。感情ではなく、構造として成立している。
(通してしまえば……動く)
トニー個人ではない。
その背後にあるアメリカという国が――動く。
正面からでは、動かない。
だが。
(……横から、理屈を差し替えればいい)
藤原博士の視線が、わずかに揺れる。
「……ジョディちゃん」
ぽつりと、声が落ちた。
「それは――」
言葉は、途中で止まる。思考が言語に変換される直前で、引っかかった。視線が落ちる。
手の中のスパムむすび。先ほどよりも、明らかに形が崩れている。熱も抜け、米の輪郭がわずかに緩んでいた。
潮風が、その表面を撫でていく。
(……この味と、同じやな)
整ってはいない。洗練もされていない。
だが――
現実は、こういう形で動く。
「……えげつないな」
小さく呟く。その声に、拒絶はない。ただ、苦笑に近い温度が混じっていた。
ジョディは、軽く肩をすくめる。
「現実的、って言ってください」
あくまで軽い調子で返す。だが、その視線は外れていない。
「ドクターが守ろうとしてるのは――ああいう人たちでしょう?」
顎で示すように、視線が港の向こうへ向く。スラムの方角。細く立ち上る煙が、風に流されながら空へ溶けていく。
生活の匂い。ここで生きている人間たちの、確かな証。
「綺麗事だけじゃ、間に合わないですよ」
その言葉は、静かだった。だが、逃げ道はどこにもなかった。
「……」
藤原博士は、目を閉じる。ほんの一瞬だけ。
思考を切り離すように。
そして――開く。
そこに、迷いは残っていなかった。
「……分かった」
短く告げる。それ以上の言葉は不要だった。
決断は、すでに終わっている。
ジョディは何も言わない。ただ、ストローをゆっくりと回す。
氷が、カラン、と乾いた音を立てた。
藤原博士は、手に残っていたスパムむすびを口に運ぶ。
冷えている。さきほどとは違う、輪郭のはっきりした味。
だが――
その塩気は、今の思考と妙に噛み合っていた。




