第61話 スラムの預言者
藤原博士が基地を訪れて、一週間が経過していた。
その間、藤原博士は毎日のように制御区画へ足を運び、ガラス越しにカルナ・フロラの状態を確認し続けていた。記録、観察、比較。繰り返しの中で、わずかな変化すら見逃さないように。
カルナ・フロラの成長は、異常とも言える速度だった。わずか数日で、根の広がりは倍以上。地表に現れている構造も、明らかに密度を増している。
(そろそろ……来るな)
藤原博士は、内心でそう判断していた。経験から導き出される、確信に近い予測だった。
この段階であれば――すでにカルナ・サーヴィターの卵が形成されていても、何ら不思議ではない。そして、その見立てをもとに、藤原博士は何度も提言を繰り返していた。
万が一に備えた、戦力の増強。与島基地に展開しているスサノヲを、小隊単位で本基地へ転進させること。
カルナ・サーヴィター出現時に、初動で対処可能な戦力を――あらかじめ手元に置いておく。
発生後の対応では、間に合わない。それが、藤原博士の結論だった。
だが――
「必要ない」
トニーの答えは、毎回変わらなかった。
間を置くこともない。考える素振りすら見せないまま、同じ言葉が、同じ温度で返ってくる。
「現時点で、その必要性は認められない」
理由は明確――というより、最初から結論だけが置かれている。
議論にはならない。意見の応酬ですらない。一方的に切り捨てられるだけのやり取りが、ただ繰り返されていた。
それでも、藤原博士は引かなかった。翌日も。そのまた翌日も。
施設の耐性は不十分であること。初期想定に依存しすぎていることの危険性。
同じ指摘を、角度を変え、言葉を選び直し、それでもなお繰り返す。だが――状況は、微動だにしない。
積み重なるのは、結論のない対話と、わずかな疲労だけだった。
(……さすがに、堪えるな)
制御区画を出る。扉が背後で閉まり、遮断された空気が、ようやく肺に流れ込んでくる。
廊下は静かだった。だがその静けさが、かえって頭の奥に残響を引き延ばす。
無駄だとは思っていない。言わなければならないことだと、分かっている。
――それでも。
通じないと分かっている相手に、同じ言葉を投げ続ける行為は、思っている以上に神経を削る。
「……ジョディちゃんよ」
振り返らずに声をかける。
すぐ後ろを歩いていたジョディが、足を緩め、わずかに顔を上げた気配がした。
「なんですか? ドクター・フジワラ」
いつも通りの声音。余計な探りも、同情もない。
藤原博士は、ほんのわずかに息を抜く。
「すこし……気分転換に外を歩きたいのだが、付きあってくれるかい?」
言いながら、自分でも気づく。声から、わずかに張りが抜けていることに。
ジョディは一瞬だけ目を細め――その変化を見逃さずに受け取りながらも、
「デートのお誘いなら、責任をとっていただけるのであれば、私でよければお答えしますよ」
と、さらりと言った。
冗談とも、本気ともつかない調子。だが、その軽さが、意図的であることは明らかだった。藤原博士は、思わず小さく笑う。
「ランチぐらいでよかったら、ご馳走させてもらうわ」
肩をすくめる。
先ほどまで張りついていた思考の重さが、ほんのわずかにほどける。
「それで手を打ちましょうか」
ジョディは、間を置かずに応じた。
そのまま二人は歩き出す。足音が、自然と揃う。先ほどまでとはわずかに違う、力の抜けたリズム。
張り詰めていたものが、完全ではないにせよ、確かに一段だけ緩んでいた。
ジョディもまた、ほんのわずかに口元を緩める。言葉にはしないが、その変化だけで十分だった。
やがて二人は、基地の敷地境界を越える。わずか数百メートル。それだけの距離で、風景ははっきりと様相を変えていた。
ブルーシートと古びたテント。即席で組み上げられた骨組み。それらが寄せ集められるようにして、仮設の住居群を形作っている。
整然と整備された基地施設とは、あまりにも対照的な光景だった。
足元の舗装はところどころ剥がれ、道路脇には車両の残骸が放置されている。部品を剥ぎ取られ、骨組みだけを晒したトラック。明らかに自走不能な錆にまみれた鉄の塊が、無造作に転がっていた。
だが――その荒れた風景の中に、不思議なほど確かな生活の気配が混じっている。
張り渡されたロープに揺れる洗濯物。簡易に組まれた調理設備から立ち上る、かすかな煙。低く交わされる人の声。
活気があるとは言い難い。
それでも、ここは確かに――人が生きている場所だった。
「……」
藤原博士は、足を止めこそしないものの、その光景に視線を留める。
数秒。それから、独り言のように呟いた。
「カルナ・サーヴィターが出現して、ドームが破られたら――」
視線を外さないまま、淡々と続ける。
「ここが、まず最初に喰われる、っちゅうことやな」
誰に向けた言葉でもない。確認に近い、低い声音。
その視界を、子供たちが横切る。笑い声を上げながら、埃を蹴り上げて駆け抜けていく。
藤原博士は、わずかに目を細めた。
「……ジョディちゃんや」
「はい?」
隣を歩くジョディが、視線だけを向ける。
「この辺り、一帯で……どれくらいの人間が暮らしとるんや?」
問いは簡素だったが、その重さは隠されていなかった。
ジョディは、少しだけ考える間を置く。
「正確な数字は出てないけど……」
視線を周囲に巡らせる。
「五百人前後、ってところかしらね」
淡々とした答えだった。
「……五百人、か」
藤原博士は、その数字を口の中で転がす。
五百。
国家単位で見れば、誤差のような数だ。しかもここにいるのは、社会の中心から外れ、外縁に押しやられた人間たち。
――だが。
(……せやからゆうて、切り捨ててええ理由にはならんやろ)
胸の内で、言葉が低く沈む。
数の問題ではない。線引きの問題だ。そして一度でも線を引けば、その外側は、どこまでも広がっていく。
まして――
被害が、ここだけで止まる保証など、どこにもない。ドームが破られれば、サーヴィターが外へ溢れれば、被害は連鎖する。歯止めなく、拡がっていく。
「……」
藤原博士は、わずかに唇を噛んだ。
アメリカという国。その中での、自分の立場。
専門家として招かれてはいる。だが結局のところ――外から来た人間に過ぎない。
(どこまで、通じる……)
胸の奥に残る鈍い重さは、消えないままだった。そのまま歩を進める。やり場のない思考を抱えたまま、視線だけが前へ流れていく。
――と。
少し先に、人の流れが滞っているのが見えた。人だかり。それが、明確な形を持って視界に浮かび上がる。
「……?」
藤原博士は、わずかに視線を上げる。前方。人の流れが、そこで不自然に滞っていた。
住民たちが輪を作り、その中心を囲んでいる。押し合うでもなく、ただ一点に意識を集めるような、奇妙な密度。
その輪の中――
一台の車両の残骸。自走不能となり、放置されたままの鉄の塊。
その上に、ひとりの少年が立っていた。年の頃は十歳前後。まだ幼さの抜けきらない顔立ち。だが、その目だけが――妙に強い。
「みんな、このままでは大変なことになります!」
張り上げられた声が、空気を震わせる。
「いま、ワイアナエの研究所では恐ろしい実験がされようとしています!」
ざわめきが広がる。
疑念と、不安と、わずかな興味が入り混じったざらついた反応。
「このままでは、研究所から恐ろしいモンスターがあふれ出してきて、大変なことになるんです!」
言葉は荒い。
だが、ただの思いつきや噂話にしては、妙に芯が通っていた。
藤原博士は、足を止める。耳を澄ます。
無意識に、言葉の端々を拾い上げる。
「みんなで声を挙げるんです!」
少年は、必死に訴え続ける。
「いますぐ、その実験を止めるように! それができないんであれば――」
一瞬、言葉が詰まる。息を吸い込み、絞り出すように叫ぶ。
「せめて、日本から救世主を迎え入れるように!」
その一言で、藤原博士の眉がわずかに動いた。
「……ジョディちゃんや」
視線は外さないまま、低く問う。
「研究所の内部での情報が、スラムに漏れることはあるのかい?」
ジョディは即座に首を振った。
「あり得ないわね」
迷いのない口調。
「スタッフ全員に厳しい情報統制がかかってるし、スラムの人間を雇うこともない」
わずかな間も置かずに、言葉を重ねる。
「外に漏れる可能性は、まずないわ」
断言だった。
「……せやろな」
短く応じる。
だが、その視線は、なおも少年から離れない。
(ほな、なんでや)
思考が、静かに回り始める。偶然か。根拠のない噂か。
それとも――
「信じてください!」
少年の声が、再び場を貫く。
「本当なんです! 僕には――」
一瞬。言葉が揺れる。
だが次の瞬間、何かに押し出されるように続いた。
「神のご加護で、未来が見えるんです!」
周囲に波紋のようなざわめきが広がる。
失笑。戸惑い。そして、拭いきれない不安。
だが――
藤原博士の意識は、すでに別の一点に固定されていた。
少年の顔。
その中でも――
右目。
(……光っとる、やと……?)
ごく微弱な光。
見間違いではない。
違和感は、確信へと変わる。
「……」
言葉にはしない。
だが、思考の中で何かが結びつく。
断片だったものが、一本の線になる。
仮説。可能性。そして――最悪の想定。
すべてが、同じ方向を指し始めていた。
「ドクター?」
ジョディの声が、横から差し込む。
藤原博士は、すぐには応じない。ただ、少年を見続ける。
測るように。見極めるように。
「信じてください!」
少年の声が、さらに重なる。
「本当なんです! 僕には――」
その先は、聞かなかった。
藤原博士は、ゆっくりと視線を外す。
「……行こか」
それだけを、ぽつりと落とす。
ジョディが、わずかに戸惑う。
「いいの?」
「ああ」
短い返答。
それ以上は続けない。再び歩き出す。
背後では、少年の声がなおも響いている。その声が一人でも多くの人に届くことを信じて、繰り返し、繰り返し。
だが――
藤原博士の内側では、別の音が鳴り始めていた。
静かに。
確実に。
警鐘のように。
(……間に合うかどうか、やな)
誰にも届かない声で、呟く。
風が吹く。
砂埃が、わずかに舞い上がる。
振り返ることはない。
ただ一度だけ、ほんの短く目を閉じ――何事もなかったかのように、歩みを続けた。
喧騒は、ゆっくりと遠ざかっていく。残るのは、いつもの生活音。
そして――言葉にさえならなかった何かだけが、静かに沈んでいった。




