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第59話 楽園の裏側

「博士、こちらです」


 すぐ近くでジョディの声が響き、意識を現実へと引き戻す。


 車両の姿を視界に捉えた瞬間、藤原博士はわずかに眉を上げた。

 南国の強い日差しを受けてなお、その存在は周囲の景色から浮き上がるように異質で、まるでこの場所だけが別の規則で切り取られているかのような違和感を伴っている。


 重厚な車体は無骨な直線で組み上げられ、余計な曲線を一切排した外装は、光を吸い込むような鈍い質感の装甲で覆われていた。

 窓はすべて黒く沈み込み、外の青空や椰子の影をわずかに映し返している。


 だが近づいた瞬間、その違和感の正体が分かる。

 光の奥に、わずかな()()がある。視線が通らない理由が、そこで初めて腑に落ちた。


 ――防弾ガラスか。


 近づくにつれて、肌に伝わる空気の温度がわずかに変わる。

 潮の匂いを含んだ柔らかな風と、この車両の周囲にだけ漂う無機質な静けさが、はっきりと切り分けられているのが分かる。


 ――これは単なる移動手段ではない。


 外界から切り離し、守り、隔離するための、ひとつの『閉じた箱』だった。


「……こりゃあ、また……」


 思わず漏れた言葉に、苦笑が混じる。


「ジョディよ、いったいワシをどこに連れていくつもりなんや」


 軽口のように聞こえる声音。

 だがその奥には、ごくわずかな探りが含まれている。ジョディは歩みを止めず、淡々と答えた。


「VIPの護衛に万全を期しているだけです」


 一拍。


 そのまま振り返りもせず、短く続ける。


「さぁ、乗ってください」


 強制ではない。だが、拒否という選択肢が存在しないことは、言葉にせずとも明白だった。

 藤原博士は小さく肩をすくめる。


「……はいはい、従いますよ」


 半ば呆れたようにぼやきながらも、素直に車両へ乗り込んだ。

 ドアが閉まる。鈍く、重い音が響き――それだけで外界が遠のいたことがはっきりと分かる。風も、音も、人の気配も、すべてが一枚隔てられた向こう側へ押しやられた。密閉された空間の中で、わずかに空調の音だけが耳に残る。


 やがて、車は静かに動き出した。振動はほとんど感じられない。

 装甲の厚みが、そのまま外界との距離を物理的に切り離しているようだった。


 車が走り出してしばらくのあいだは、観光客の笑い声と色彩に満ちた通りが続いた。陽光を受けて揺れるシャツやワンピース、開け放たれた店先から流れる音楽、潮の匂いと甘い香りが混ざり合う空気――それらはどれも軽やかで、同じ島の上にあるとは思えないほどに開放的だった。


 だが、その光景はゆるやかに途切れていく。

 車が進路を変えたあたりから、人の流れは次第に薄れ、建物の間隔が詰まりはじめる。舗装はところどころひび割れ、湿った土と鉄の匂いが混ざった重い空気が、わずかに車内へと伝わってくるようだった。


 やがて現れたのは、古びた住宅が肩を寄せ合うように並ぶ一角だった。

 後付けの壁や屋根が無秩序に重なり、生活の痕跡だけが積み上がっている。そこには確かに人の営みがある。

 だが、それは余裕のある暮らしではなく、「生き抜くこと」だけにかろうじて支えられた時間の積層だった。


 ワイアナエ――その名が持つ意味を、言葉にせずとも理解できる。


 同じ湿度、同じ風のはずなのに、ここに流れている空気はどこか沈んでいる。笑い声は少なく、視線は短く、音はすぐに途切れる。島の明るさの裏側に押し込められた現実が、静かに息を潜めていた。


 その景色が、不意に途切れる。

 視界が開けた先に現れたのは、あまりにも整いすぎた構造物だった。


 均一に配置された建造物群、無駄のない導線、管理された外壁――それは「建っている」というよりも、この場所に意図的に「置かれた」と言う方がふさわしい。つい先ほどまでの雑多な生活の痕跡が、まるごと削り取られ、その上に別の論理で組み上げられたような、不自然な断絶。


「この一帯は――もともと、非公式の居住区が広がっていた場所です」


 ジョディの声が、静かに差し込まれる。


「立ち退きに応じなかった住民には、強制執行が行われました」


 感情のない説明だった。

 だが、その無機質さこそが、ここで何が行われたのかを、何より雄弁に物語っている。


 藤原博士は窓の外を見つめたまま、かつてそこにあったであろう生活の輪郭を思い描く。


 声、匂い、時間――それらすべてが押し流され、均され、その上にこの光景が築かれている。


「……なるほどな」


 小さく息を吐き、呟く。


「楽園の裏側に押し込められた場所の上に、さらに何かを積み上げた……っちゅうわけやな」


 その言葉は、空調の音に紛れ、車内に静かに沈んでいった。


 だが車は止まらない。迷いもなく、その中心へと進んでいく。

 車両は、重々しいゲートをいくつもくぐり抜けながら進み、やがて減速し、低く抑えた駆動音を残したまま施設の正面で静かに停止した。


 ドアが開いた瞬間、外気が流れ込む。四月のハワイ特有の、やわらかな湿り気を帯びた空気だった。強すぎない陽光と、どこか塩の匂いを含んだ風が、わずかに肌を撫でる。


 藤原博士は車外に出て、足を止めた。


「……これは……」


 思わず漏れた声は、感嘆というより、わずかな警戒を含んでいた。


 目の前に広がっていたのは、コンクリート打ちっぱなしの巨大な建造物だった。窓は一つもなく、外界との接点を意図的に断ち切ったような構造をしている。無機質で、重く、そしてどこか()()()()()


 だが、その印象は、すぐに崩れる。建物の脇――そこに、あまりにも異質なものが並んでいた。白いドーム。

 滑らかな曲面を持つ外殻は、陽光を柔らかく弾き、周囲の灰色とはまったく異なる質感を帯びている。どこか東京ドームを思わせる形状ではあるが、その均整の取れ方は過剰なほどで、人工的な美しさが際立っていた。


 無骨な建造物と、過度に整いすぎた白い構造物。その対比は、単なる設計思想の違いでは片付けられない。まるで――同じ場所に置かれていながら、別の目的のために存在しているかのようだった。


 藤原博士は、しばし視線を止めたまま、その違和感を噛みしめる。

 やがて、ゆっくりと視線を移し、開かれた搬入口の奥へと目を向けた。

 内部は白い光に満ちていた。外の柔らかな自然光とは異なる、均質で影の少ない照明。その中を、人の流れが絶え間なく続いている。


 白衣の研究員。

 軍服の人員。互いに言葉を交わすことも少なく、一定の速度を保ったまま、決められた動線を行き来している。

 足を止める者はいない。

 誰かが急いでいるわけでもないのに、全体としては妙に速い。一人ひとりではなく、()()()()()()が先を急いでいるような感覚。


 藤原博士は、わずかに目を細めた。人が動いている――というより、機構が稼働している。そんな印象が、ゆっくりと胸の奥に沈んでいく。

 小さく息を吐くと、わずかに湿った空気が喉に残った。

 規模も。速度も。

 これまで見てきた研究施設の延長線には、収まらない。


「……ジョディ」


 視線を戻し、静かに声をかける。


「トニーはどこにおるんかの」


 ジョディは一瞬だけ間を置き、そのまま歩き出した。


「トニー施設長は――こちらです」


 その動きには迷いがなく、すでに最短の経路が頭に入っているようだった。藤原博士は、無言でその背を追う。

 内部に足を踏み入れると、外とは温度がわずかに違っていた。一定に管理された空気は乾いているはずなのに、どこか逃げ場のない密度を感じる。


 通路は広く、動線は明確に区切られている。合理的で、整然としている。

 それでも――息苦しさが、ゆっくりと胸の奥に溜まっていく。開放されているはずの空間が、逆に閉じているように感じられる。進むほどに、外の気配が遠ざかっていく。

 しばらく進んだ先で、ジョディが足を止めた。扉の上には、簡潔なプレートが掲げられている。


 FACILITY DIRECTOR


 ジョディは軽くノックをした。乾いた音が、抑えられた空間に短く響く。


「ドクター藤原をお連れしました」


 すぐに内側から声が返る。


「ああ、ご苦労。入ってもらってくれ」


 ジョディはドアを開き、わずかに身体を引いた。


「どうぞ、ドクター。私はここでお待ちしています」


 藤原博士は小さく頷き、扉の向こうへ足を踏み入れる。背後でドアが閉まると同時に、外の気配がすっと遮断された。

 室内は広くはない。だが、隙のない空間だった。

 中央のデスク。整えられた資料。その向こうに、一人の男が立っている。


 振り返った男に向けて、藤原博士は軽く手を上げた。


「やあ、トニー。実際に会うのは初めてだな」


 トニーは、穏やかな笑みを浮かべて歩み寄る。


「ああ、そうだな、藤原博士。送ってもらった資料――大変参考にさせてもらったよ」


 その言葉には、形式的な軽さはなかった。視線は真っ直ぐで、相手の価値を測るような鋭さを帯びている。藤原博士はそれを受け止め、わずかに口元を緩めた。


「それは何よりや」


 軽く肩の力を抜きながら、続ける。


「ほな……実物、見せてもらおか」


 その一言で、室内の空気がわずかに引き締まる。トニーは薄く笑い、短く答えた。


「……ああ、いいだろう」


 そのあとに訪れた一瞬の沈黙だけが、これから踏み込む領域の深さを、静かに示していた。

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