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第58話 楽園の入口

 輸送ヘリのローターが唸りを残したまま回転を落とし、巻き上げられた風がようやく静まりはじめた頃、藤原博士は機体のステップを踏み外さないよう慎重に地面へと降り立った。


 足裏に伝わるのは、わずかに熱を含んだコンクリートの硬さだった。踏みしめた瞬間、遅れてその熱が足裏からじんわりと上がってくる。

 四月の半ばを迎えたハワイの空気は、春というよりも初夏に近く、湿り気を含んだ重たい熱が、呼吸と一緒に肺へ入り込み、肌の上に薄く張りつく。


「……っ、これは……さすがに応えるな……」


 思わず顔をしかめ、腰に手を当てる。

 長時間の移動で蓄積した振動の名残が、遅れて筋肉ではなく、もっと深いところ――骨に近い部分がじわりと軋んでいた。


 軽く腰を叩きながら背を反らすと、関節がかすかに鳴る。

 骨の軋むようなその感覚に、思わず苦笑が漏れた。

 ひとつ息を整え、ゆっくりと視線を上げる。

 そこに広がっていたのは、ハワイ――オアフ島の空だった。


 抜けるような青。


 高く、どこまでも澄み渡った空の下で、容赦のない陽光が、直線的に降り注ぐ。

遠くには白く砕けた光を弾く海面が揺れ、そのきらめきが視界の奥でわずかに滲んだ。

 潮の匂いが、風に混じってかすかに届く。乾ききらない塩気が、喉の奥に薄く残る感覚があった。


 さらに視線を遠くへ送れば、低く連なる街並みが陽に照らされ、観光地として知られる島の穏やかな顔を覗かせている。

 誰もが思い描く、()()の景色だった。


――だが。


 藤原博士の立っている場所は、そのどこにも属していなかった。視界の大半を占めるのは、滑走路と、それに沿って規則正しく配置された施設群。直線で切り分けられた地面、寸分の狂いもない配置、色は抑えられ、意味だけが残された無機質な構造。


 低く唸るエンジン音を響かせながら軍用車両が行き交い、兵士たちが無駄のない動きで持ち場を移動していく。

 そこにあるのは生活の気配ではなく、あくまで()()としての動きだけだった。


 同じ島であるはずのワイキキの喧騒や色彩は、まるで遠い別世界のもののように感じられる。


「……まったく、同じ島とは思えんな」


 小さく呟いたその声は、風に紛れてすぐに消えた。


 そのときだった。


「――ドクター・フジワラですか?」


 背後から、よく通る英語の声がかかる。癖のない発音で、抑揚も過不足がない。

 藤原博士はゆっくりと振り返った。


「イエス、私が藤原だが……あなたは?」


 言葉を返しながら視線を向け――そして、わずかに目を見開く。


 そこに立っていたのは、軍服に身を包んだ一人の女性士官だった。

だが、その印象は()()という言葉だけでは収まりきらない。


 まず、背が高い。

 藤原博士より頭二つ分は上にある。


 無駄のない筋肉で引き締まった体躯は、立っているだけで均衡が取れており、重心のぶれがまったく感じられない。

 風に揺れることのない姿勢そのものが、訓練の質を物語っていた。


 そして――差し出された右手。


「私は、研究所のトニーの指示で、あなたの警備を担当することになりました。ジョディです」


 簡潔な自己紹介とともに差し出されたその手は、明らかに常人のそれとは違っていた。

 太い。だが、ただ大きいだけではない。

 骨格と筋肉が無駄なく噛み合い、握力そのものが()()として完成されているような、そんな手だった。


 藤原博士は、一瞬だけ逡巡する。


(……これは、なかなかやな)


 内心でそう呟きながらも、表情には出さない。


「……あ、ああ……よろしく頼む」


 わずかに引きつった笑みを浮かべ、その手を取る。


 瞬間――指が絡んだだけで分かる。

 力が違う。握り返されたわけでもない。ただ触れただけに近い圧でありながら、骨の位置を正確に把握されているような感覚があった。


(……強い、な)


 思っていた以上ではない。想定そのものが甘かったのだと、即座に理解させられる。

 だが同時に、意外なことにも気づく。その手は、硬いわけではなかった。表面の感触はむしろ柔らかく、均整の取れた筋肉の下にしなやかさを残している。

 ジョディはそのまま手を離すと、乱れ一つないシニヨンにまとめた金髪へ軽く指先をやった。


 強い日差しの中で、その髪は滑らかな光を弾き、まるで磨き上げられた金属のように淡く輝く。海から吹き上げてくる風が撫でても、形は崩れない。

 藤原博士は、小さく息を吐いた。


(……なるほどな)


 トニーに対して、『可愛らしい女性がいい』と冗談半分で伝えた記憶がよぎる。


(……確かに、女性ではあるが)


 視線が、わずかにその腕へ流れる。


(解釈の幅が、だいぶ広いな……)


 だが同時に、その配置の意味も理解していた。これは護衛であり――そして、間違いなく監視でもある。

 ジョディの視線は柔らかく見えて、常に外さない。意識していなくても、こちらを捉え続けている。


(……まあ、そうなるやろな)


 藤原博士は、胸の内で小さく苦笑した。


 ハワイの四月の陽光は柔らかく、それでいて容赦なく肌を撫で、わずかに湿り気を含んだ風が頬をかすめていく。

 空はどこまでも高く澄み、遠くで椰子の葉がかすかに揺れていた。


 その穏やかすぎる空気に溶け込むように、口元だけをほんのわずかに緩め、余計な警戒も不満も、一切外には滲ませない。


「それで、ジョディ少尉……だったかな」


 声の調子を軽く整え、雑談の延長に過ぎないという体裁を崩さぬまま問いかけると、隣を歩く彼女は一拍の間も置かず、小さく頷いた。動きに無駄はなく、その応答はあらかじめ決められていたかのように滑らかだった。


 藤原博士は、わずかに空へ視線をやる。


「せっかくやし……少しビーチに寄っていきたい気もするんやが」


 軽い調子だった。

 だが――ジョディは一拍も置かない。


「本日は、私とご一緒に研究所へ向かっていただきます」


 短い返答だった。

 だがその声音には、説明を省いたというよりも、『説明する必要がない』という前提が静かに含まれている。

 確認も補足もなく、進むべき流れだけが過不足なく置かれ、それ以外の可能性は最初から切り捨てられていた。


 この状況で『自由行動』などというものが許されるはずはない。

ヘリで運ばれ、即座に護衛が付き、そのまま目的地へ直行――選択の余地など、最初から用意されていない。


(……まあ、当然やろうな)


 そう納得しながらも、その思考は表に出さない。

 顔つきはあくまで穏やかに、余計な警戒も不満も滲ませないよう、ほんのわずかに口元を緩める。


「ワシは、このまま研究所に向かえばいいのかな?」


 問いかけは柔らかい。

 だがその実、確認というよりは――この状況にどれほどの()()が残されているのかを測るための、静かな探りだった。


「はい。このまま研究所へ向かっていただきます」


 問いへの返答は、それで十分だった。

 だがジョディは、さらに一歩だけ先を示す。


「車を用意しています」


 隣を歩くジョディは、一拍の間も置かずにわずかに頷く。

 問いの意図には触れず、決められた流れだけを提示する。その滑らかさに、迷いはなかった。


「ご案内します、ドクター」


 ジョディはそう言って、わずかに進行方向へ視線を向けた。その先――施設へと続く導線の向こうに、強い日差しを受けた空が広がっている。


 藤原博士は、ふと足を止めかける。

 張り詰めていた思考が、ほんの一瞬だけ緩む。

 視線が、自然と空へ抜けた。


「……ええ空やな」


 短く、独り言のように漏れる。

 その声を拾うように、ジョディがわずかに視線を寄越した。


「任務には、支障ありませんか」


 問いは簡潔だった。だが、その視線は空ではなく、藤原博士の表情のわずかな緩みに向いている。

 藤原博士は、口元だけで笑う。


「空を見る余裕くらいは、残しといてほしいもんやな」


 軽口のつもりだった。

 だが、その裏にあるものまで、隠したつもりはない。


「……では、その余裕の範囲で――この()()が、いまからドライブにご案内いたします」


 そう言って、ジョディが片目をつぶる。

 ほんの一瞬の軽さ。藤原博士は目を瞬かせ――小さく吹き出した。


「……はは。そらまた、えらい魅力的な話やな」


 視線を空へ戻す。

 ジョディは何も言わない。ただ、歩みを変えない。

 その背に従うように、藤原博士も再び歩き出す。


 楽園の空は、どこまでも高く澄み渡っている。


 ――穏やかすぎるほどに、何事もないかのような空が、どこまでも静かに広がっていた。

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