第54話 知っていた男
モニターの中で、世界が一度、白に塗り潰される。
輪郭が消える。地形も、雲も、渦も――すべてが一瞬で消し飛び、ただ純粋な光だけが残る。
白。
焼き付くような、圧倒的な白。
「――ッ!」
誰かが息を呑む。
そして、遅れて――音が来た。腹の奥を直接叩くような、重い衝撃。空気そのものが殴りつけられたかのように震え、ハンガーの壁面を低く唸らせる。
爆発音だった。
外からだ。距離があるはずのそれが、質量を持って押し寄せてくる。
床が、わずかに揺れた。金属製の備品が、かすかに震え、乾いた音を立てる。
「な……」
誰かの喉から、意味を成さない声が漏れる。
「そんな……屋島に……落ちたというのか……」
藤堂の声だった。低く押し殺されている。だが、その奥にあるものは隠しきれていない。
視線はモニターに縫い付けられたまま。握り締めた拳が、小さく震えている。
「彩人くん……」
かすれた呼びかけ。その名を口にした瞬間、声の芯が崩れる。
「君は……どうして……」
言葉は最後まで形にならなかった。次の瞬間――拳が、振り下ろされる。
鈍い衝撃音が、ハンガーの空気を裂いた。机上の機器が跳ね、配線が揺れ、表示パネルが一瞬だけ乱れる。
誰も動けない。
止めるという発想すら、遅れていた。
ニックは、そこでようやく我に返る。状況を理解するより先に、視界の端で動きを捉えた。
「……お、おい藤堂――」
言葉が追いつく前に、藤堂は、すでに駆け出していた。
振り返らない。呼びかけにも反応しない。
ただ一直線に、ハンガーの出口へと向かう。その背中には、迷いが一切なかった。
――速い。
ニックの思考が、ようやく追いつく。
だが身体は、すでに動いていた。
「待てや!」
叫ぶ。同時に、床を蹴る。
反射だった。理由など後からでいい。ただ、このまま行かせてはいけないという確信だけがあった。
藤堂の背を追う。開け放たれたハンガーの扉、その向こうへ。
外気が流れ込む。冷たい空気が頬を打つが、意識には入らない。
ニックもまた、駆け出していた。走りながら、理解する。
向かう先は一つしかない。
基地司令室。
「おい、藤堂のおっさん! 少し落ち着け!」
ニックの声が、狭い通路に鋭く弾けた。
だが、その叫びは壁に反響するばかりで、前を行く男の背には届かない。
藤堂は振り返らない。ただ一直線に、迷いなく走り続ける。
軍用施設特有の無機質な廊下。
照明は等間隔に並び、白い光が床へと落ちている。その下を、二つの影が高速で引き延ばされ、歪むように流れていく。
靴底が床材を叩く音が、乾いた破裂音のように連続する。
一歩ごとに、硬質な反響が壁と天井を往復し、空間そのものが震えているかのようだった。
ニックは歯を食いしばる。
肺が焼けるように熱い。喉の奥が擦れる。
それでも速度を緩めるという選択肢はなかった。
追いつかなければならない。
あのまま行かせれば、何が起きるか分からない――いや、分かりきっている。
その時。
背後から、もう一つのリズムが重なった。
振り返る。
「……大樹!」
数歩遅れて、大樹が同じように走ってくる。
顔は強張り、呼吸はすでに限界に近い。それでも足は止まらない。
視線が一瞬だけ交わる。
言葉は必要なかった。状況も、目的も、すべて共有されている。
――止める。
それだけで十分だった。
だが。
距離が、縮まらない。
むしろ、開いている。
藤堂の走りには、無駄がなかった。
上体はぶれず、踏み込みは深く、加速のたびにさらに前へと押し出されていく。
ただ速いだけではない。一直線に貫くような、意志そのものの速度だった。
ニックは舌打ちを飲み込む。
さらに踏み込む。視界の端が揺れる。
それでも――届かない。
やがて、藤堂の背が、廊下の突き当たりへと滑り込む。
司令室前。
重厚な扉の前で、わずかに体勢が沈む。
「――ッ!」
次の瞬間、腕が伸びた。
躊躇の欠片もなく、ドアノブを掴み――そのまま、力任せに引き開ける。
金属の軋む音が、鈍く、重く響いた。
そして――
ためらいなく、室内へ踏み込む。
「――小田桐!!」
怒号が、司令室の空気を引き裂いた。
制御された静寂に満たされていた室内が、その一声で歪む。
低く抑えられていた照明の下、コンソールの表示光だけが淡く瞬いていた空間に、剥き出しの感情が叩きつけられる。
一瞬――
時間が止まったように見えた。
次の瞬間には、すべてが崩れる。
藤堂の身体が前へ出る。
迷いも、躊躇もない一直線の動きだった。
手が伸びる。
小田桐の襟元を、掴み上げる。
布地が軋み、制服のラインが強引に歪んだ。
「小田桐……てめぇ……」
吐き出される声は低く、押し潰したように掠れている。
顔と顔の距離が、一瞬で詰まる。互いの呼吸が触れ合うほどの至近距離。
その眼だけが、異様な熱を帯びていた。
「どこまで知っていた……?」
言葉が、噛み砕かれるように落ちる。
「どこまでその眼で見ていたんだ!!」
怒声と同時に、握る手に力がこもる。
襟元がさらに引き寄せられ、小田桐の身体がわずかに前へ傾いた。
だが――
その動きとは対照的に、小田桐の姿勢は崩れない。
呼吸は乱れず、視線も揺れない。
ただ、静かに藤堂を見返している。
「おい、やめろ!」
ニックが割って入る。横から腕を掴み、引き剥がそうとする。
だが、藤堂の腕はまるで鋼のように固い。
びくともしない。
「彩人くんに会ったとき……」
藤堂の声が、さらに低く沈む。
怒りだけではない。そこにあるのは、確信に近い何かだった。
「右目が……光っていた……」
荒い呼吸が、言葉の合間に混じる。
視線は一瞬たりとも逸れない。小田桐の奥を、射抜くように見据えている。
「それを……お前が知らないはずが無い……」
さらに、力がこもる。指先が白くなるほどに。
「お前は……全部、分かっていたのか……!」
室内が、静まり返る。
誰も口を開かない。機器の駆動音だけが、かすかに耳に残る。
その沈黙の中で――小田桐は、ようやく口を開いた。
「仮に」
淡々とした声音だった。
感情の起伏を一切感じさせない、平坦な響き。
「私が知っていたとして――それがどうした」
空気が、凍りつく。
温度が一段、落ちたかのような錯覚。
「小田桐……貴様……!」
藤堂の腕が動く。
引き寄せた身体が、そのまま振り抜かれようとする――
「やめろ言うとるやろ!!」
ニックが全力で押さえ込む。
足を踏ん張り、体重を預ける。だが、それでも押し切れない。
力が、桁違いだった。
その瞬間――
「藤堂さん!!」
もう一つの影が飛び込んできた。大樹だった。
迷いなく、反対側の腕を掴む。指が食い込むほどに強く。
「落ち着いてください!!」
二人がかりで引く。
力と力がぶつかり、空気が軋む。
数秒――いや、体感ではもっと長い。
均衡が、わずかに揺らぐ。
藤堂の力が、ほんの一瞬だけ緩んだ。
その隙を逃さない。ニックと大樹は一気に引き剥がした。
藤堂の手が、小田桐の襟元から離れる。藤堂の身体が、後方へと引き戻される。
荒い呼吸が、室内に響く。
なお前へ出ようとする力を、二人が全身で押さえ込む。
ようやく――距離が生まれた。
司令室に、重い沈黙が落ちる。
小田桐は、乱れた襟元に手をやった。ゆっくりと、皺を整える。
その動作に、一切の乱れはない。まるで、何事も起きていないかのように。
視線も、呼吸も、先ほどと同じ位置にある。
――最初から、この状況すら織り込み済みであるかのように。
「……いい機会でしょう」
静かな声が、空間に広がる。
低いが、よく通る声だった。
「ヴァンガード隊」
視線が、藤堂たちへ向けられる。
「この後、隊員全員でこちらに集合してください」
誰もすぐには動かない。
言葉の意味を、飲み込む時間が必要だった。
「私の知る限り――今日、何が起きたのかを説明いたします」
空気が、わずかに揺れる。その一言が持つ重さを、全員が理解したからだ。
小田桐は一拍置き、続けた。
「今日はちょうど、篠宮にも来てもらっています」
「……は?」
ニックが顔を上げる。視線が、室内を走る。
そして――止まった。
部屋の奥。壁際。
控えるように立つ、一人の姿。
「……美桜ちゃん……?」
思わず、声が漏れる。篠宮美桜は、そこにいた。
だが、いつものように前に出ることはない。
ただ静かに、空間の縁に立っている。
表情は読み取れない。
驚きか、理解か――あるいは、そのどちらでもないのか。
「なんで……ここに……?」
ニックの問いに、
小田桐は、わずかに口元を緩めた。
「お呼びしていたんですよ」
柔らかな声音。
だが、その奥にあるものは、温度を感じさせない。
「私は――今日、何が起こるのか、予め知っていましたから」
一瞬。思考が、空白になる。
言葉の意味が、すぐには繋がらない。
そして――理解した瞬間。
空気が、完全に凍りついた。
小田桐は、静かに微笑んでいる。
整えられた眼鏡の奥。その視線は、冷たく、澄みきっていた。
まるで――すべてを見通しているかのように。
ニックの背筋に、ぞくりとした悪寒が走る。
理屈ではない。本能が告げていた。
――この男は、何かがおかしい。
そしてその何かは、
今、この場にいる誰一人として、まだ正体を掴めていない領域にある。
ニックは、それをはっきりと感じていた。




