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第50話 美咲

美桜が電車から降りると、陽ざしの眩しさに思わず手で目元を覆った。


三月上旬。

朝晩にはまだ冷えが残るが、日中の光はやわらかく、確かな暖かさを帯びている。

空気は澄み、どこか現実感を欠くほど穏やかな陽気だった。


――ほんの少し前に交わされていた会話とは、あまりにも対照的だった。


美桜は振り返る。


車両の降り口で、藤原博士が腰に手を当てて軽く顔をしかめていた。


「……いてて」


年相応の仕草に、思わず足が向く。


ここは岡山県。


与島が最前線基地であるならば、この南部一帯もまた、そのすぐ後方に位置する準前線区域にあたる。

さらに北側には、それを支える医療施設や整備工場、補給拠点が段階的に配置されていた。


住民がいないわけではない。

だが、街の機能はすでに“生活のため”ではなく、“戦線維持のため”に再編されている。


点在するのは、最低限の商店と、軍関係者を支えるための施設ばかりだった。


美桜が降りたのは、その中でも基地にほど近い――

主に兵士を対象とした病院の最寄り駅だった。


「藤原博士、大丈夫ですか」


駆け寄り、手を貸そうとする。


藤原博士は苦笑しながら手を振った。


「いやいや、美桜ちゃん、すまんすまん。まぁ、これくらいは大丈夫じゃ」


そう言って、腰を押さえたまま一度大きく伸びをする。


骨が鳴るような、小さな音。


だが、その顔にはいつもの調子が戻っていた。


「それじゃあ――」


軽く息を吐く。


「お姉ちゃんのお見舞いに行くとしようかの」


その言葉に、美桜は一瞬だけ表情を引き締めた。


「……はい。ありがとうございます」


深く頭を下げる。


そして、顔を上げると――


先ほどまで胸の奥に残っていた重苦しさを、意識して押し込めた。


今は、考えるべきことが違う。


二人は並んで歩き出す。


藤原博士の歩幅は決して速くはない。

だが、その一歩一歩には迷いがなかった。


駅前の通りに出る。


人影はまばらで、行き交うのはほとんどが軍関係者だった。

遠くには、低く唸るような機械音が聞こえる。


穏やかな陽ざしとは裏腹に、ここが“戦場の延長線上”であることを否応なく感じさせる光景だった。


美桜は、ほんの一瞬だけ空を見上げる。


青い。


あまりにも、何事もないかのように。


その青さを、ほんの一瞬だけ見つめて――

美桜は視線を落とした。


「行きましょう」


短く告げる。


藤原博士が小さく頷いた。


二人が向かった先は、この一帯に設けられた医療施設群の中核――

後方統合医療センターと呼ばれる施設だった。


前線基地を支えるために建設された中でも最大規模を誇り、その医療水準は設備・人員ともに国内最高峰に位置している。


外観は無機質なコンクリートの塊に過ぎない。

だが一歩足を踏み入れた瞬間、その印象は一変する。


静かすぎるほどに統制された空気。

人の気配はあるのに、生活音がほとんどしない。


すべてが“機能”として存在している空間だった。


受付を抜け、エレベーターへ。


行き先を示す階層表示は、途中から一般の表記ではなくなっていく。

数字ではなく、識別コード。


地上の病院とは明らかに異なる領域へ入っていくことを示していた。


軽い振動とともに、エレベーターが停止する。

扉が開く。


そこから先は――別世界だった。


最初のゲート。


美桜が立ち止まり、手をかざす。

淡い光が手のひらをなぞり、血管の走行を読み取る。


続いて、視線を固定する。

網膜認証。


短い電子音。

ロックが解除される。


「……ほぉ」


背後で、藤原博士が小さく声を漏らした。


「えらい厳重やな」


「はい」


美桜は振り返らずに応じる。


「この先は、一般病棟とは完全に隔離されています」


二つ目、三つ目とゲートを抜けていく。


進むごとに、空気の質が変わっていくのがわかる。


照明はより白く、影が薄くなる。

壁面には無駄がなくなり、表示も最小限。


人の姿も減っていく。


その代わりに――

“管理されている”という感覚だけが強まっていった。


美桜の足取りは迷いがない。

すでに何度も通った道だ。


だが、その後ろを歩く藤原博士は違った。

一つゲートをくぐるたびに、わずかに肩が強張る。

視線が落ち着かない。


好奇心と警戒が入り混じった、落ち着かない様子だった。


やがて――

美桜が足を止めた。


目の前には、それまでとは明らかに異なる重厚なゲート。

表示は簡素だが、そこに込められた意味は重い。

一段、空気が変わる。


美桜が振り返る。


「ここから先は、防護服の着用が必要なんです」


藤原博士が眉を上げる。


「ほう……というと?」


「姉は――異星由来のウイルスに侵されている可能性があります」


わずかに言葉を区切る。


「それに感染しないようにするためと……

外部からの病原体を持ち込まないためです」


沈黙が一拍落ちる。


藤原博士は小さく息を吐いた。


「……なるほどな」


短く、しかし重みのある声だった。


側に控えていた係員が、防護装備一式を差し出す。


美桜は慣れた手つきでそれを受け取り、迷いなく身につけていく。

動作に無駄はない。

日常の延長のような、自然な所作だった。


一方で藤原博士は、手順を確認しながら慎重に装着していく。

手袋の密閉を確かめ、首元を整え、最後に深く息を吐いた。


「……なんや、宇宙にでも行くみたいやな」


わずかな苦笑。

だが、その目は真剣だった。


準備を終えた二人を、係員が無言で先導する。


ゲートがゆっくりと開く。


その向こうは――

さらに静かだった。


通路を進む。

足音だけが、規則的に響く。


やがて、一室の前で立ち止まる。

係員が操作を行い、扉が開かれる。


その先に――


美咲がいた。


白いベッドの上に、静かに横たわっている。


身体には複数のチューブが接続され、

機器が規則正しく数値を刻んでいる。


だが――


その姿は、あまりにも穏やかだった。

まるで、ただ眠っているだけのように。


美桜は、足を踏み入れる。


一歩。

もう一歩。


「……お姉ちゃん」


小さく、呼ぶ。

返事はない。


ただ、規則的な機械音だけが、ここに時間が流れていることを示していた。


美桜は、その場から動かなかった。

ベッドの傍らに立ち、わずかに身をかがめる。


まるで、眠っている顔を確かめるように――

ずっと、美咲の顔を覗き込んでいる。


その表情には、強い感情は浮かんでいない。

ただ、目を離せないというように。


藤原博士も、一歩近づいた。

視線を落とし、美咲の顔を見る。


「……ほぉ」


小さく、息を漏らす。


「そっくりやな……」


思わず口をついて出た言葉だった。


美咲の顔立ちは、まさに美桜の生き写しだった。


眠っている分だけ、表情の揺らぎがない。

それがかえって、“もう一人の美桜”という印象を強めていた。


藤原博士が、ゆっくりと口を開く。


「美桜ちゃんや、一つ聞いてもええかい?」


「……なんでしょう」


視線は外さないまま、美桜が応じる。


「さっき、異星由来のウイルスって……言っとったやろ」


わずかに間を置く。


「美桜ちゃんのお姉ちゃん――美咲ちゃんは……

何がきっかけで昏睡状態になったんや?」


静かな問いだった。


「カルナがそないなウイルスを持っとるなんて話、ワシは聞いたことないで」


美桜のまつげが、わずかに揺れる。


「そ、それは……」


言葉が続かない。

喉元で止まり、そのまま落ちていく。


藤原博士は、軽く手を振った。


「ええよ、無理に答えんで」


少しだけ柔らかく言う。


「ほな、質問を変えさせてもらうわ」


言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。


「美咲ちゃんは――カルナが落下する前までは、普通に元気に生活しとった」


一拍。


「で、落下して以降、昏睡状態になった」


視線を美咲に向けたまま、確認するように言う。


「これは、合っとるか?」


短い沈黙。


機械音だけが、規則正しく空間を満たす。


「……はい」


美桜が答える。


だが――

わずかに言葉を継ぎ足した。


「お姉ちゃん、咲ちゃん“は”――カルナが落下してくるまでは、普通に生活していました」


藤原博士の眉が、わずかに動く。


「咲ちゃん“は”……なぁ」


小さく、繰り返す。

その言葉の引っかかりを、舌の上で転がすように。


ほんの少しだけ考え込むように、顎に手を当てる。

だが、それ以上は踏み込まない。


藤原博士は、再び視線をベッドへ戻した。


何も言わず、ただそこに立つ。

久々の再会。


言葉はない。


だが――

藤原博士が見守る中、姉妹二人の時間だけが静かに流れていた。

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