第49話 動き出す刻
やがて列車は速度を緩め、低く軋むような音を残しながら停止した。
与島――
扉が開いた瞬間、外の空気が一気に流れ込んでくる。
海上特有の湿り気を帯びた風は、わずかに金属質な匂いを含み、閉じ切った車内の空気とはまるで異なる質感を伴っていた。
それは単なる温度差ではない。
この場所そのものが、外界とは別の性質を帯びていることを、肌に触れる感覚としてはっきりと伝えてくる。
降車した藤原博士が、軽く腰に手を当てる。
「まったく……軍用に再編成したとは聞いてはいたが、もう少し乗り心地は何とかならんもんかのう……」
そう言いながら、腰を軽くひねり、尻をさする。長時間の移動による疲労は隠しきれない。
美桜はその様子に小さく笑みを浮かべた。
「長時間だと、やっぱり堪えますね」
「揺れを抑える気があらへん。人を運ぶことはついで、っちゅうことやな」
ぼやきながらも、藤原博士はすでに歩き出している。
文句とは裏腹に、その足取りに迷いはない。
与島基地の降車場は、島の直上に設けられた巨大構造物――アンカレイジ内部に位置している。外から見れば橋を支える基部に過ぎないが、その内部には複数階層にわたる施設が構築されていた。
外殻はあくまで橋梁を支える土木構造物の姿を保っている。だが一歩内部に踏み込めば、その印象は即座に裏切られる。
分厚い隔壁、むき出しの補強材、規則的に走る配線。
それらは無機質に並んでいるのではなく、すべてが機能のためだけに最適化され、人の快適性という概念そのものが最初から切り捨てられているかのようだった。
床の下から、ごく微かな振動が伝わってくる。この巨大な構造物が、今もどこかで稼働し続けている証だった。
通路の先に、人員用のエレベーターが見える。
「こっちやな」
藤原博士が迷いなく進む。
エレベーターの扉が開き、二人は中へ入った。エレベーターは低い駆動音とともに下降を開始する。
わずかな振動が足元から伝わり続ける。
耳に残るのは、機械的な駆動音のみで、人の気配は、ここにはない。
数秒――いや、十数秒ほどの静かな降下が続く。時間の感覚が曖昧になるほど変化のない移動ののち、エレベーターはゆっくりと減速し、そのまま滑るように停止した。
到達したのは地下層だった。
地上とは完全に切り離された閉鎖空間が広がり、その奥へと、コンクリートで固められた通路がまっすぐに延びているのが見える。
照明は一定の間隔で設置され、影すらも規則的に並んでいた。足音だけが乾いた音を響かせ、その反響が、空間の静けさをむしろ強く意識させる。
そこは、基地建屋へと繋がる通路だった。
藤原博士は迷いなく歩みを進め、扉に手をかけた。開けようとした、その刹那――
「藤原博士、そろそろお越しになる時間かと思っておりました」
横合いから、落ち着いた声が差し込む。
美桜は反射的にそちらへ視線を向けた。通路の陰影の中に立つ人物を認識した瞬間――藤原博士の表情がふっと緩む。
「おお、小田桐はんやないか」
「わざわざご足労いただき、ありがとうございます」
小田桐が丁寧に一礼する。その所作には、軍人らしい無駄のなさがあった。
藤原博士は軽く手を振る。
「いやいや、今回用があったのはワシのほうや。要件がある方が出向くのは、当然の話やろう」
そう言ってから、ふと思い出したように続ける。
「ああ、そういえば、今日はスペシャルゲストをお連れしたで」
その言葉に、美桜が一歩前に出ると、少し遠慮がちに口を開いた。
「小田桐基地司令、ご無沙汰しております。篠宮です」
小田桐の表情が、わずかに揺れる。それは感情の揺れというより、瞬間的に何かを測ったような、ごく短い変化だった。
柔らかく崩れかけたものは、次の瞬間には完全に消えている。
眼鏡の位置を指で直す。
「元気そうで何よりだ。篠宮」
淡々とした声音だが、その奥にわずかな温度が確かに存在していた。藤原博士も美桜も、それに気づくことはない。
小田桐は二人に背を向けると、そのまま歩き出す。
「それでは、こちらです」
短く告げる。
地下通路はさらに奥へと伸び、途中からはより整備された区画へと変わっていく。 壁面には配線が整理され、警備用のカメラや識別装置が一定間隔で設置されていた。
すれ違う人影は少ない。
だが、出会う者は皆、無言のまま敬礼や会釈を交わす。
声を発する者はいない必要な動作だけが交わされる空間。それが、この場所の規律を示していた。
やがて、小田桐が足を止めた。
重厚な扉の上部には、「基地司令室」と記されたプレート。 迷いなく扉を開ける。
室内は広すぎず、しかし機能的に整えられている。
壁面には大型モニターと各種データパネル、中央には簡易的なブリーフィングスペースがある。無駄は一切ない。
「では、そちらのブリーフィングスペースに」
小田桐が静かに促す。
藤原博士は小さく頷き、そのまま席へと向かうと、椅子を引き腰を下ろした。美桜もそれに倣い、博士の隣に腰掛ける。
向かい側に、小田桐が座る。
三人が席についたあと、室内には一瞬、静寂が満ちた。空調の微かな駆動音だけが残り、他のすべての気配が引いていく。
まるで空間そのものが、これから交わされる言葉の重さを測るかのように、静かに息を潜めていた。
「それで、本日はどのようなご用件で?」
穏やかな口調で、小田桐が切り出す。その声音は柔らかい。
だが、探るような鋭さがわずかに含まれていた。
藤原博士が、ゆっくりと口を開く。
「今日お邪魔させてもらったんはな、小田桐はんにもアメリカの動きを知っといてもらいたいと思うたからなんや」
その言葉に、小田桐の眉がわずかに動く。
「アメリカの動き……ですか……」
小田桐の低く、確認するような声に、藤原博士は頷いた。
「せや。小田桐はん、ハワイ沖に落下したカルナの話。どこまで知っとる?」
小田桐は一瞬だけ視線を落とし、すぐに顔を上げる。
「私が知っているのは、大したことではありませんよ」
前置きのようにそう言いながら、言葉を続ける。
「数週間前にカルナが太平洋沖に落下し、地中へ到達することがなかった。それをアメリカが回収した――」
淡々とした口調。
「アメリカは、遺伝子情報を持たない初期型のカルナ・サーヴィターであれば、スサノヲなしで管理し、研究材料とすることができると考えている」
指先がわずかに机を叩く。
「よりによって、オアフ島のホノルルとはそう離れていない位置に、徹底した無生物状態とした研究所を建築中……そして――」
そこで、小田桐の言葉が一瞬、途切れる。眼鏡の奥――鋭い視線が、ゆっくりと持ち上がる。
その視線が、美桜と藤原博士の双方を射抜いた。
空気が、わずかに張り詰める。
「我々は、カルナ・サーヴィターは遺伝子情報を“通信”で共有していると考えている」
低く、断定するような声。
「アメリカが想定しているような“ゼロ型サーヴィター”が出現することはない――そう見ている」
言葉が落ち、静寂が訪れる。機器の微かな駆動音だけが、室内に残った。美桜は、無意識に息を呑む。
通信で共有される遺伝子情報――それは――美桜にとっても、初めて耳にする内容だった。
カルナ・サーヴィターが遺伝子情報を通信で共有している――そんな発想は、これまでの研究の延長線上にはなかった。
どうして、この人物はそこまで知っているのか。目の前に座る小田桐という男。
その眼鏡の奥に潜む、底の見えない何かに触れたような感覚に、背筋の奥が、じわりと冷えていく。
その沈黙を破るように、藤原博士が口を開いた。
「そこまで知っとんなら話が速い。それに追加情報や」
わずかに身を乗り出す。
「ハワイ、オアフ島の研究所がいよいよ完成してな。ワシが“スサノヲ無しでカルナ・サーヴィターを管理するんは危険すぎる”言うて、何度も警告したんやが……」
藤原博士はわずかに言葉を切り、その間に視線だけを小田桐へ向けた。
「アメリカの大統領の鶴の一声で、とうとうカルナの種子を施設の真ん中に植えたそうや」
その一言が落ちた瞬間、室内の空気がわずかに変質する。
目に見える変化はない。だが、確かに何かが一段深い緊張へと移行したのが分かった。
その言葉が落ちた瞬間――空気が、変わる。
「カルナの止まっていた時間が……少しずつ、動き始めた……ゆうことやな」
重く、低い声に、室内の温度が、わずかに下がったように感じられた。
美桜は思わず息を呑む。対して、小田桐は微動だにしない。視線をわずかに伏せ、思考を巡らせるように沈黙する。
そして――
「そうなると……」
静かに顔を上げた。
「最初のカルナ・サーヴィターが出現するのは、今から二か月……いや、三か月……といったところですか」
淡々とした分析。感情の揺れは見えない。
藤原博士が、小さく頷く。
「せや」
短く応じる。
「ほんで……このもう待ったなしの状況や。もう四の五の言っとれる段階やない」
その声には、はっきりとした決意が宿っていた。
「ワシは自ら志願して、スペシャルアドバイザーとしてオアフ島の研究所に行くつもりや」
美桜が、はっと顔を上げる。
藤原博士は続ける。
「最悪の状況だけは防げるよう、できるだけの手は尽くす」
そして――わずかに目を細めた。
「ほんで……ほぼ確実に、日本に助けを要請することになるやろう」
その言葉の重みが、静かに沈む。
小田桐は、何も言わずに聞いている。藤原博士は、視線をまっすぐに向けた。
「せやから、与島基地には、その心づもりだけでもしといてもらいたい」
言葉を区切るように、わずかに息を置く。
「今日は、そのお願いのために来させてもろたんや」
言い終えると、室内に再び静寂が訪れた。機器の微かな駆動音だけが、規則的に響いている。
美桜は、言葉を発することができなかった。
ハワイのオアフ島にある研究施設に植えられたカルナの種子。そして、迫りつつあるカルナ・サーヴィターの出現。
すべてが現実味を帯びて、重くのしかかってくる。
重く沈んだ空気の中で、小田桐はゆっくりと背もたれに身を預けた。わずかに視線を落とし、思考を整理するように静かに息を吐く。
その動作は小さい。だが、この場における判断が、すでに次の段階へ移りつつあることだけは、はっきりと示していた。




