第48話 並行する生命
美桜が目を覚ますと、視界いっぱいに白い天井が広がっていた。
島根第一研究所に勤めはじめてから、二週間ほど――その無機質な白にも、ようやく見慣れてきた気がする。
ゆっくりと瞬きを繰り返しながら上体を起こすと、寝具に残るわずかな体温と、室内に満ちた乾いた空気が肌に触れた。
まだ抜けきらない眠気を振り払うように、小さく息を吐く。
ここでの生活にも、ようやく慣れてきた。規則正しい起床時間、無機質な室内、そして――あのラボ。
美桜は手早く準備を済ませると、与島基地の作業着に袖を通し、四番ラボへと向かった。
自動ドアが開く。
「おはようございます。藤原博士」
「ああ、美桜ちゃん、おはようさん」
藤原博士はモニターに視線を向けたまま、穏やかに応じた。
美桜はそのまま歩み寄り、モニターを見上げる。モニターには、卵の内部を映し出した映像が静かに流れていた。
研究所に来てからの二週間で、それは目に見えて変化している。
かつては曖昧に滲んでいた像は、いまでは明確な輪郭を持ち、内部構造すら形として認識できるほどにまで成長していた。
その異変に気づいたのは、数日前のことだった。頭部と思しき部位には不規則に配置された五つの器官が確認できた。
等間隔ではないその並びは、人間の感覚からすればどこか不安定で、しかし確かに視るための構造として成立していた。
人間のそれとは明らかに異なる配置。まぶたのような構造を持つ五つの目が、殻の中で静かに閉じている。
殻の内側で、何かが育っていた。その事実に、美桜は無意識に息を潜める。
それ以外にも、研究所には目に見える変化があった。
「藤原博士、予備の方の各計測値のトレンドデータ、まとまりました」
背後から声がかかる。
振り返ると、真理子が端末を手に立っていた。
「ああ、ありがとう、真理子ちゃん」
藤原博士が応じ、端末を受け取る。
予備――
その言葉に引かれるように、美桜の視線が自然と横へ流れた。
卵の培養層のすぐ隣。そこにはもう一つ、別の培養層が設けられている。
藤原博士が、卵から抽出した細胞から生み出したクローン。殻に覆われた本体とは異なり、こちらはむき出しの状態で培養液に沈んでいる。
そこにいるのは――卵の中身と同じく、赤子のような姿をしたサーヴィターだった。
目を閉じ、微動だにせず、ただ静かに、だが、確かに存在している。
「……」
美桜は、わずかに眉を寄せる。何度見ても慣れない――というより、慣れてはいけないものを見ている感覚があった。
藤原博士が、データを確認しながら呟く。
「ふむ。予備の方の成長速度は非常に順調のようやな」
その声には、純粋な研究者としての関心が滲んでいる。
「予備の方は、こちらで細胞を添加して成長を促す措置を行っとるからな」
淡々とした説明だった。
だが、その内容の重さは軽くない。
「本体との比較も、これでより明確になるやろう」
美桜は、再びモニターへと視線を戻した。
殻に守られた本体。そして隣で育つ、人為的な操作により成長を加速された予備。
同じ起源を持ちながら、異なる条件で成長する二つの存在。その差が、やがて何を生むのか――まだ、誰にも分からない。
ラボの中は静かだった。機器の駆動音だけが、一定のリズムで響いている。
その静寂を破るように――
「ところで、美桜ちゃん」
藤原博士が、ふと口を開いた。
美桜が視線を向ける。
「今日はな、与島基地の小田桐はんに話があってな」
手元の端末を軽く閉じながら続ける。
「電車に乗って与島基地まで行かなあかんのやけど……美桜ちゃんも来るかい?」
少しだけ、間を置く。
「帰りがけに岡山に寄って、お姉ちゃんのお見舞いに寄り道してもええで」
その言葉に、美桜の目がわずかに見開かれる。
「……良いんですか?」
思わず、声が弾んだ。
藤原博士は、柔らかく笑う。
「ああ、構わんで。そんなに急いて帰る必要はあらへん」
肩の力を抜いた調子で言う。
「小田桐はんとの話の終わる時間次第やが……まぁ、問題ないやろう」
その言葉を聞いた瞬間、美桜の表情がぱっと明るくなる。
「藤原博士、ありがとうございます。それでは、同行させてください」
深く頭を下げる。
「よし、了解や」
藤原博士が軽く頷いた。
「ほな、昼前には出るで。それまでに準備しとき」
「はい」
美桜ははっきりと答える。
胸の奥に、ほんの少しだけ温かいものが灯る。
島根第一研究所の近くには、スサノヲを製造・整備する工場が併設されている。そこから与島を経由し、四国の番の州へと至る軍用鉄道が敷設されていた。
この区間の鉄道は、もともと地域間輸送を担う幹線の一部として整備され、旅客と貨物の双方に利用されていた。
だがカルナ出現以降、状況は一変する。
各地への迅速な戦力展開と物資輸送を優先するため、路線は軍の管理下に置かれ、大規模な再編と再整備が行われた。既存のダイヤは見直され、貨物輸送を軸とした軍用運用へと転換されている。
現在では、通常の旅客運用は大幅に制限されており、この路線を利用できるのは許可を受けた関係者に限られていた。それでも最低限の移動手段として、わずかながら旅客用車両が連結されている。
本数は少なく、不定期に近い。それでも――確かに人を運ぶ路線としての機能は、かろうじて残されていた。美桜と藤原博士は、簡単な手続きを済ませて乗車許可を受ける。
駅構内に足を踏み入れた瞬間、空気がわずかに質を変えた。
鉄と油の匂いが混じり合い、乾いた空気の中に重く沈んでいる。遠くでは重機の低い駆動音が途切れず響き、この場所が単なる交通施設ではなく、軍用の延長であることを無言で示している。
美桜は、乗車予定の車両を探して視線を巡らせた。
そのとき――
「……あれ」
思わず足が止まる。視界の端に、見覚えのある影が滑り込んできた。
軍用の貨物車両の上に――スサノヲが一機、固定されたまま動かず座している。
美桜は反射的に駆け寄り、装甲のラインから全体のシルエット、そして胸部へと視線を走らせる。
刻まれた意匠――無骨な単眼を確認する。
「……サイクロプス……」
思わず、つぶやく。
「おお、美桜ちゃん」
後ろから藤原博士の声がした。
「せや、サイクロプスや」
ゆっくりと歩み寄りながら続ける。
「なんでも、一週間ほど前に右腕を失って片腕になって戻ってきたらしいで」
美桜は、サイクロプスの腕部を見上げる。
右腕――そこには損傷の痕跡が何一つ残っておらず、装甲の継ぎ目すら滑らかで、補修されたとは思えないほど自然に仕上がっていた。
「……すごい……」
思わず息が漏れる。破壊されたはずの機体が、ここまで完全な形に修理されているという事実に、技術への驚きと現実味の薄さが同時に胸へ広がった。
藤原博士が、軽く手を振る。
「ほな、美桜ちゃん、こっちやこっちや」
促され、美桜は最後にもう一度だけサイクロプスを見上げる。無言の巨体は何も語らないが、その存在だけで戦いの気配を濃く残していた。
美桜は小さく息を整え、藤原博士の後を追う。
車両に乗り込む。内部は簡素で、必要最低限の設備しかない。
そして他に乗客の姿はなく、貸し切りのような静けさが満ちていた。
「……」
美桜は窓際の席に腰を下ろす。藤原博士も向かいに座り、特に言葉を発することはない。
やがて――低い振動が、足元から伝わってきた。
発車の合図もなく車両は静かに動き出し、ゆっくりと、しかし確実に、研究所の建物や工場の煙突、整然と並ぶレールが滑るように後ろへ流れていく。
美桜は、その光景をじっと見つめていた。
胸の奥にはわずかな期待と拭いきれない不安が同時に沈み、その両方を抱えたまま列車は与島へと進み始めた。




