第44話 歪みゆく生体
ニックが衛星電話を手に取り、素早く番号を打ち込む。
そして通話ボタンを押した。
小さな電子音のあと、呼び出し音が鳴り始める。
どうやら衛星電話なら問題なく繋がるようだ。
ニックはスピーカーモードに切り替え、電話を机の中央に置いた。
数回の呼び出し音のあと――
『……もしもし?どちらさんかの?』
怪訝そうな老人の声が食堂に響いた。
ニックがすぐに応える。
「藤原博士、ワイや。ニックや」
一瞬の沈黙。
『ああ、おお……ニコラスか』
声が一気に柔らぐ。
『どうしたんじゃ、急に』
ニックは肩をすくめながら言った。
「今、屋島におってな。そこから衛星電話で電話しよるんやけどな」
電話の向こうで声が跳ね上がる。
『はぁ?屋島?四国のか?』
少し間。
『ニコラス、お前……何アホなこと言っとるんや』
藤堂が口を挟んだ。
「ニック。前置きはいい。本題を伝えよう」
ニックが苦笑する。
「せやな」
そして電話に向かって言う。
「なぁ、藤原博士。実はちょっとカルナについて気になることがあってな」
声を少し落とす。
「博士の意見を聞きたいんや」
そう言うと、ニックは今日カルナ・フロラで起きた出来事を、電話越しに藤原博士へ語り始めた。
ニックが一通り説明を終えると、電話の向こうでしばし沈黙が続いた。
食堂の中も、誰一人言葉を発しない。
やがて、低く唸るような声が聞こえた。
『……なるほどのう……』
藤原博士だった。
『確かに、カルナが遺伝子情報を共有化しておる可能性は……』
少し言葉を選ぶように間を置く。
『全くない。……とは、言い切れんかもしれんな』
その言葉に、食堂の空気がさらに重くなる。
藤堂がゆっくりと口を開いた。
「藤原博士」
落ち着いた声だった。
「アメリカは今、どんな状況なんですか」
電話の向こうで、椅子がわずかに軋む音がした。
『アメリカか……』
藤原博士が続ける。
『今はな、回収したカルナ種子を海水に漬けたまま、厳重に監視しとる』
一拍。
『そしてな、ホノルルと同じオアフ島、そう遠くない位置にある研究施設の一角に完全に無菌、無生物のシェルターを建築しておるそうじゃ』
食堂の誰もが黙って聞いている。
『完成したら、その中でカルナ・フロラを根付かせてな……』
少し呆れたように言った。
『ゼロ型サーヴィターを管理し、研究材料にするつもりらしい』
その言葉を聞いた瞬間、ニックが思わず口を挟んだ。
「おいおい……」
腕を組み、顔をしかめる。
「そこにもし蟻型や蟷螂型……」
言葉を切る。
「最悪、百足型サーヴィターでも出現しでもしたら……」
電話の向こうで、藤原博士が小さく息を吐いた。
『最低限の攻撃手段は講じておるかもしれんが……』
短い沈黙。
『まず、なす術もなく潰されてしまう……やろな』
食堂が静まり返った。
湯飲みから立つ湯気だけが、ゆっくりと空気に溶けていく。
その沈黙を破ったのは、大樹だった。
「……ちょっと待ってください」
皆の視線が集まる。
大樹は少し戸惑いながら言葉を続けた。
「仮に、その通りだとして……」
ゆっくりと周囲を見回す。
「じゃあ、アメリカにどんな対策を提案できるんでしょうか」
一瞬、誰も答えない。
電話の向こうで、藤原博士が低く唸った。
『……そうじゃな』
そして静かに言う。
『スサノヲのような、カルナに対抗できる手段もないのに……
カルナを管理し、研究するのは危険や。
リスクが高すぎる』
わずかな沈黙。
『諦めろ……と伝えるくらいしか――』
藤原博士が電話越しに頭を抱えているような余韻が伝わってくる。
そして、ぽつりと言った。
『それしか……無いやろな』
重い沈黙が、食堂を満たしていた。
誰も言葉を発さない。
湯飲みから立ち上る湯気だけが、ゆっくりと空気に溶けていく。
その沈黙を破ったのは、藤原博士だった。
『なぁに、まだ、それほど思い詰める時期じゃあない』
穏やかな声だった。
『あのゼロ号標本が発見されたのは、カルナ落下から三か月ほど後のことや』
一拍。
『カルナの芽が出るまで一か月。それからサーヴィターができるまで成長が到達するまでが二か月……
まだ時間の猶予はある』
食堂の誰もが、黙ってその声を聞いていた。
『アメリカさんのほうには、ワシから専門家の意見として連絡は入れとく』
少し間が空く。
『それでも、アメリカさんが研究をやめないという判断を下すんなら……それは他でもない、アメリカさんの責任や』
声は静かだった。
は無理に止めるつもりはない』
そして、少しだけ声音が柔らぐ。
『すまんが、助けを求められるようなら助けてやってくれ。
頼んだで』
さらに一拍。
『何かあったら、ニコラスに連絡するわ』
そして、いつもの調子で言う。
『ほな、またな』
通話が切れた。
小さな電子音が鳴り、衛星電話のスピーカーが沈黙する。
食堂には、再び重い静寂だけが支配していた。
加納が腕を組んだまま、ぽつりと口を開いた。
「島根第一研究所の藤原博士か……」
少し顎を引く。
「信頼できる人物のようだな」
その横で、佐伯も小さく頷いた。
「言っていることには筋が通っている」
湯飲みを手に取りながら続ける。
「望まれるなら協力を惜しむつもりはねぇ」
一拍。
「ただ、それを決めるのはアメリカのすることだ」
その言葉に、大樹と藤堂、そしてニックの三人が静かに頷きを返した。
「よし」
佐伯が椅子を引き、ゆっくりと立ち上がる。
「この話はもう終わりだ」
ヴァンガード隊の面々へ視線を向けた。
「ヴァンガード隊。今のうちなら、まだ明るいうちに与島基地へ戻れるだろう」
その言葉に、彩人が思わず身を乗り出した。
「いや、佐伯さん」
少し慌てた声だった。
「もう少しゆっくりされて、せめて夕食を食べて……今日はしっかり休まれて、明日出発されてはいかがでしょうか」
だが、佐伯は首を横に振った。
「我々の任務は、支援物資を屋島に届けることだった」
淡々と言う。
「せっかく支援物資で食料を持ってきたのに、それを自分たちで食べたんじゃあ意味がないだろう?」
佐伯は、少し肩をすくめる。
しかし――
なおも何か言おうとした彩人に、里美が静かに口を開いた。
「彩人」
穏やかな声だった。
「私は、佐伯さんのおっしゃっていることが正しいと思うわ」
その言葉に、彩人がはっとしたように姉を見た。
「姉さん……」
里美は小さく頷くだけだった。
彩人はしばらくの間、どこか恨めしそうな視線を里美へ向けていたが――
やがて小さく息を吐く。
そして静かに言った。
「……そうですね」
ゆっくりと姿勢を正す。
「道中、くれぐれもお気をつけてお帰りください」
その声に、佐伯が応えた。
「ああ、分かっている」
少し口元を緩める。
「なぁに、近いうち、また来るさ」
そして、ヴァンガード隊の面々へ視線を向ける。
「よし。ヴァンガード隊はアメノウズメに集合だ」
すぐに声が返った。
「了解や」
「了解だ」
「了解した」
「了解しました」
四つの了解が、ほぼ同時に重なった。
ヴァンガード隊の足音が廊下の奥へと遠ざかり、やがてアメノウズメのエンジン音が屋外へ響いた。その音も次第に薄れ、食堂に静寂が戻る。
そのとき――
彩人のジャケットのポケットが、小さく振動した。
彩人が素早く画面を確認する。
一瞬、表情が揺れた。
それから静かに通話ボタンを押し、端末を耳に当てる。
「……まるでこちらを見ていたようなタイミングですね」
穏やかな声で言った。
「今ちょうど、ヴァンガード隊の皆さんが帰られたところですよ」
彩人が目線だけで、隣の里美へと合図を送った。
里美はわずかに頷く。
それだけで充分だった。
音もなく立ち上がり、里美は静かに食堂をあとにした。
扉が閉まる。
食堂には、彩人独りだけが残された。
「それで……」
彩人が続ける。
「今日はどういったご要件で?」
電話の向こうで、何かが語られている。
その声は、ここまでは届かない。
「え、ああ……」
彩人がわずかに苦笑したような気配があった。
「いいえ。私の考えは変わりません」
落ち着いた、しかし揺るぎない声だった。
「ここに残られた方たちと一緒に、約束のときが来るまで……ここにいるつもりです」
また、電話の向こうで何かが語られる。
「え?ああ……そうですね」
彩人は少し間を置き、何かを心の中で数えるようにして言った。
「あとの残された時間は……だいたい、あと一月……くらいでしょうか」
誰もいない食堂に、彩人の声だけが静かに響く。
「ああ……そういえば」
彩人の声が、わずかに柔らいだ。
「残念ながら、妹さんにはお会いできませんでした」
一拍。
「例の卵と一緒に、研究所の方に残られているんでしょう」
短い沈黙のあと、彩人はまた口を開いた。
「はい。代わりに……眼鏡の少年がいらっしゃいましたよ」
どこか愉快そうな色が、声の端に滲んだ。
「彼の力で、見事にカルナ・フロラを破壊することができたようです」
電話の向こうが、また何かを言う。
「はい?」
彩人が少し間を置いた。そして、穏やかに、しかしはっきりと言った。
「そうおっしゃるなら、そちらこそ……
そんな暗い穴の底みたいなところに身を潜めるのではなく、妹さんと一緒に研究所の方に行かれてはどうですか?」
今度は、少し長い沈黙。
「はい、はい」
彩人が静かに続ける。
「私の考えが変わることは……ありません」
そして最後に、穏やかに微笑んでいるような声で言った。
「それまででよろしければ、いくらでも話し相手はさせていただきますよ」
また、一拍。
「それでは、お気をつけて」
少しだけ、間が空いた。
「……美咲さん」
通話が切れた。
小さな電子音が鳴り、食堂に静寂が戻る。
彩人はしばらく、端末を手にしたまま動かなかった。
窓の外では、夕暮れが近づき始めた空が、ゆっくりと色を変えていた。




