第3話 前に立つ者たち
〇三三〇時。
夜の名残が色濃く残る時刻。
冷気はまだ床に溜まり、ハンガー全体が、息を吸うたび肺の奥を刺すような温度に沈んでいた。
それでも――人の気配だけは、すでに満ちている。美桜が足を踏み入れた瞬間、思わず目を瞬かせる。
――早い。
定刻の三十分前。
それにもかかわらず、集まっている人員はすでに半数を超えていた。
整備員たちは無言で動き、アメノウズメの周囲では最終チェックが進められている。金属に触れるたび、乾いた音が冷えた空気に吸い込まれていく。
誰もが無駄な言葉を発しない。これは訓練ではない。戻れる保証のない本番だ。
小隊編成は、アメノウズメ一台とスサノヲ四機。運用上の最小単位であり、最も命運を共有する単位でもある。美桜は自分の割り当てられたアメノウズメを確認し、無言で乗り込んだ。
車内は思ったよりも狭く、外の冷気を引きずったままの空気が、まだ逃げ場を失って滞留していた。壁面にはインジケーターとモニターが並び、すでに複数の画面が起動している。
そして――
「遅ぇぞ」
運転席の隣。すでにスサノヲの操縦席に座り、モニターを睨んでいた藤堂が、短く言った。
「……まだ三十分前です」
「無駄口叩いてる暇があるなら、さっさと準備しろ」
そう言って、藤堂は視線をモニターに戻した。
モニターには、サイクロプスの内部状態がリアルタイムで表示されている。関節負荷、駆動系応答、各部センサーの作動状況。
その指は、驚くほど迷いなく操作パネルを叩いていた。
――もう、始めてる。
美桜は小さく息を整え、自分の搭乗席へと滑り込む。シートに体を預け、ヘッドレストに後頭部をつけると、自然と視界が切り替わった。
キルシュ。起動待機。
彼女もまた、無言でチェックを開始する。
リンク安定率。通信遅延。筋束応答。数値は、すべて許容範囲内。
「……よし」
小さく呟いた、その時だった。冷えた車内の空気が、張りつめたまま動かない。
「いやぁ〜、今日もええ天気になりそうやなぁ!」
場違いなほど明るい声が、車内に響いた。
美桜は、思わず瞬きをする。
「……?」
「おはよーさん! みんな、ちゃんと寝た?」
軽快な関西弁。緊張感を一切感じさせない調子。
声の主は、アメノウズメに乗り込んできた男だった。
ニック・ミラー。
金髪を短く刈り込み、どこか飄々とした雰囲気を纏った青年。その顔立ちはどう見ても欧米系だが、口から出る言葉は生粋の関西弁だ。
「相変わらずお前はうるせぇな」
藤堂が吐き捨てるように言う。
「ええやんええやん、朝は元気出していこ?」
ニックは気にした様子もなく、自分の席に腰を下ろした。
モニターに表示された彼のスサノヲには、笑うピエロの意匠。口角を吊り上げた、不敵な表情のジョーカー。
彼の機体の愛称も、そのまま――《ジョーカー》。
「篠宮ちゃん、やっけ?」
ニックが、横目で美桜を見る。
「初めて同じチームなるなぁ。よろしく頼むで」
「……はい。よろしくお願いします」
思わず、丁寧に返してしまう。
「お、真面目な子やなぁ。ええことや」
ニックは笑い、指を鳴らした。
「まあ安心し。最前列ではワイが派手に騒いだるし、カルナと見れば鬼神のようになる藤堂のおっさんもおる」
「……誰がおっさんだ」
「ほら、もう鬼モードやん」
そのやり取りに、美桜は思わず小さく笑ってしまった。張り詰めていた胸の奥が、ほんのわずかに緩むのを感じる。
その直後だった。
アメノウズメのハッチが、油圧音を立てて開く。冷気が一瞬、車内へ流れ込む。
その中を――重く、しかし迷いのない足取りで、男が乗り込んできた。その瞬間、車内の空気がわずかに引き締まった。
「全員、早いな」
低く、張りのある声。加納鉄平。
元・航空自衛隊、第2航空団所属。階級は一等空尉。F-15J――制空権の象徴とも言える戦闘機を操っていた、正真正銘のエリートだった。
短く整えられた髪。背筋の伸びた立ち姿。座るだけで伝わる、空で生きてきた人間特有の身体感覚。
加納は自分の席に腰を下ろすと、ヘッドギアを装着し、即座に操作パネルへ手を伸ばす。その動きには一切の無駄がなかった。
モニターが起動し、彼のスサノヲの情報が表示される。
彼の機体の愛称――《ストライク・イーグル》
胸部装甲には、急降下する鷹の意匠。獲物を見定め、一気に距離を詰める捕食者の姿。
それは、彼がかつて憧れていた機体――
F-15Eストライク・イーグルへの、明確な未練と誇りの象徴だった。
空を制し、上から叩き潰す。それが、加納鉄平というパイロットの原点だった。
だが、カルナ戦時下において――そのキャリアは断絶された。空は、もはや人類のものではない。
無数に上空を漂い、エンジンに吸い込まれることで航空戦力を破壊する飛行型サーヴィターの出現により航空戦力は事実上無力化され、彼の空のエリートという称号は、過去のものとなった。
「……戦場が、空じゃなくなっただけだな」
加納は前を見据えたまま、低く言った。
わずかに息を吐き、言葉を継ぐ。
「だが勘違いするな。俺は、降りてきたわけじゃない」
その言葉は、明確に藤堂へ向けられていた。車内の空気が、わずかに張り詰める。誰も口を挟まない。
藤堂は、モニターから目を離さなかった。指先だけが、操作パネルの上で一度、止まる。
――そして。
ほんの一瞬、指を置き直す。それだけだった。返答はない。否定も、肯定もない。
だがその無言は、『聞いた上で、相手にしていない』という意思を、はっきりと示していた。
加納はその背中を一瞥し、何も言わずに前を向く。藤堂は、再び操作パネルを叩き、淡々と告げた。
「サイクロプス、問題なし」
それだけ。加納もまた、小さく息を吐き、インカムを調整する。
「ストライク・イーグル、準備完了」
美桜は、そのやり取りを胸に刻みながら、静かに前を見据えた。
翼を折られた空のエリート。それでも訓練施設では、加納は常にトップだった。一方で、藤堂は平凡以下。
加納はそれを隠そうともしなかった。
「民間人が前線? 冗談だろ」
そう言って、何度も藤堂を見下してきた。だが――前線で、それは崩れた。
理論が通じない混沌。予測不能の乱戦。生き残るか、死ぬか。その場所で、藤堂は異様な強さを見せた。
敵が倒れ、味方が生き残る。結果だけが積み上がっていく。
気づけば藤堂は、最前線で確固たる地位を築いていた。加納は、それを否応なく理解してしまった。
「……今回も、前に出るのか」
静かな問いだった。藤堂は短く答える。
「命令だ」
それだけ。
誇りも、言い訳もない。加納は小さく息を吐いた。
「……そうか」
それ以上は言わない。だが、彼の胸の奥では、確かな火が燻っていた。
――追いつく。
――追い越す。
翼を折られた空のエリートの、静かな執念だった。
最後に装甲車へ乗り込んできたのは、この特装装甲車、《アメノウズメ》の操縦士――佐伯慎一だった。
体格は決して大きくない。だが、無駄のない動きと落ち着いた足運びが、場数の違いを雄弁に物語っていた。年齢は、この中で最年長。そして、彼がこの小隊の司令塔だ。
元・陸上自衛隊。戦車部隊所属のパイロットだった男だ。
航空でも、スサノヲでもない。地を這い、装甲に守られながら前線を押し上げる――地上戦の現実を、最も知っている人間。
佐伯はハッチを閉めると、ゆっくりと車内を見渡した。
一人ひとりの顔を確認するように。その視線には、評価も疑念もなかった。あるのはただ、責任だけだ。
「……おう」
低く、しかしよく通る声。
「みんな揃ったようだな」
その一言で、車内の空気が自然と整う。
藤堂も、ニックも、加納も――無意識のうちに、耳を傾けていた。
「今回は、ちょっと骨のある任務らしい」
佐伯は淡々と言った。
煽らない。誇張しない。事実だけを置く。
「だがな」
佐伯は、ゆっくりと全員を見渡した。誰も、視線を逸らさない。そして、はっきりと続ける。
「俺が、この車と――お前ら全員の命を預かる」
一瞬、静寂が落ちた。
冷えた空気が、誰の呼吸も許さない。重い言葉だった。だが、不思議と反発は生まれない。
「心配するな」
短く、断定的に。
「無茶はさせん。引くときは引く。生きて帰るための判断は、俺がやる」
それは命令ではなかった。約束だった。
長年、部下を無事に帰す側に立ち続けてきた者だけが持つ、揺るぎない確信。
ニックが、わざとらしく肩をすくめる。
「いやぁ〜、頼もしい司令塔やなぁ。こら安心や」
「お前は少し黙れ」
佐伯は即座に返す。だが、その口調にはわずかな笑いが滲んでいた。
藤堂は何も言わない。ただ、操作パネルに置いた手を、ほんのわずかに緩めた。
加納もまた、前を見据えたまま、静かに頷く。
美桜は、胸の奥に溜まっていた息を、そっと吐き出した。
――この人が、いる。
その事実だけで、背中に一本、支柱が通ったような感覚があった。
佐伯は一度、操作パネルから手を離し、インカムを軽く叩いた。
「……そうだ。出る前に、一つ共有しておく」
車内の全員が、自然と耳を傾ける。
「今回の任務から、この小隊のコールサインを正式に登録する」
佐伯は、ほんのわずかに言葉を切った。
「――《ヴァンガード隊》だ」
佐伯は続ける。
「意味は知ってる者もいるだろうが、改めて言う」
淡々と、だがはっきりと。
「俺たちは主力じゃない。殲滅役でもない。だが、誰かが先に行かなきゃ、後ろは進めん」
視線が、車内を一巡する。
「危険は一番最初に引き受ける。だが――捨て駒になるつもりはない」
そこで、言葉を区切った。
「ヴァンガード隊は、戻る前提で前に出る」
その一言が、静かに胸に落ちた。
藤堂は、操作パネルを見つめたまま、短く鼻で息を吐く。
「……妥当だな」
それだけ。だが、その声には否定も皮肉もなかった。
ニックが、少し意外そうに眉を上げる。
「ほぉ〜、ええやん! もっとこう……縁起悪い名前来るかと思ってたわ」
「縁起は担がん。意味だけで決めた」
佐伯は即答する。
「俺は、お前らを使い捨てにする気はない。前に出るが、生きて帰る。そのための判断は、全部俺が引き受ける。お前たちは存分に暴れてくれれば良い」
ニックは一瞬だけ黙り、それから肩をすくめた。
「……ほな、文句なしや! 後でこそこそ隠れているのは性に合わんしな。帰れるんやったら、なおさらや」
加納は、じっと前を見据えたまま、低く呟く。
「前衛、か……」
かつては、誰よりも高い場所にいた。今は、最前線で泥を被る。
それでも――
「……悪くない」
その声は、思ったよりも静かだった。
美桜は、無意識のうちにその言葉を胸の中で反芻していた。
ヴァンガード。前に立つ者。最初に危険に触れる役割。
小さく息を吸い込み、その意味を噛みしめる。だが、不思議と逃げたいとは思わなかった。
「ただ、お前たちがこの作戦で一番死に近い立場にあることは事実だ。これは忘れてはいけない」
一瞬、美桜の喉が鳴る。
佐伯は、視線を逸らさないまま続けた。
「前に出る以上、判断を誤れば死ぬ。それは誰でも同じだ」
淡々とした口調だったが、逃げはなかった。
「だが――その判断を、個々に背負わせるつもりはない」
操作パネルに置いた手を、軽く叩く。
「進むか、止まるか、引くか。その線を引くのは、俺だ」
視線が、車内を一巡する。
「お前たちは目の前の目標に集中しろ。どこまでやるか、いつ終わらせるかは、俺が決める」
そして、最後に美桜を見る。
「それが、全員の命を預かる立場の……俺の仕事だ」
美桜は、ゆっくりと息を吸い込み、頷いた。
「……はい」
その一言は、震えていなかった。
佐伯は小さく頷き、操縦席に向き直る。
「よし。――こちら、ヴァンガード隊」
低い声が、車内に響く。
「これより戦艦、《暁》に搭乗する」
夜明け前のハンガーに、機械音が重なっていく。
最前に立つ者たち――だが、戻るために前へ出る小隊。
ヴァンガード隊は、静かに動き始めていた。




