第2話 桜と単眼
美桜は静かにハンガーへと足を踏み入れた。
天井の高い空間に、白い光が規則正しく落ちている。
空調は最低限しか回っておらず、吐く息がわずかに白くなるほど、ハンガーの空気は冷え切っていた。その下に並ぶのは、同じ姿をした無言の巨人たちだった。
スサノヲ。
全長八メートル。二足で直立するその機械は、人型でありながらどこか生物的な温度を感じさせない。
スサノヲの装甲は、単一の素材ではなかった。骨格を成す鋼鉄のフレームの上に、要所要所へ白く分厚い装甲板が貼り付けられている。
肩、胸部、腰、膝――
敵の攻撃に晒されやすいそれらの部位を覆う装甲は、分厚く、角張り、まるで後付けされた外殻のように、機体表面から僅かに浮いて見えた。
照明を落としたハンガーの暗がりの中で、白い装甲板は周囲の光を受け、淡く、冷たい輝きを返している。冬の冷気をそのまま閉じ込めたような光だった。
鋼鉄の鈍色に沈むフレームと、静かに浮かび上がる白の装甲。その対比が、無言の巨人に異様な存在感を与えていた。
操縦席は、どの機体にも存在しない。それは意図的な設計だった。スサノヲは人を乗せて動かすための兵器ではない。
内部を駆動するのは、カルナ由来の筋繊維――カルナ筋束。
生体組織を基礎としながらも、人類の技術で再構成されたその人工筋肉は、人間の反射神経や耐久限界をはるかに超えた速度と出力を実現している。
もし、これを直接搭乗型にすればどうなるか。答えは単純だった。人の身体は、耐えられない。一歩踏み出すだけで内臓が揺さぶられ、旋回の瞬間には意識が置き去りにされる。
スサノヲはあまりにも俊敏で、あまりにも過激だった。
そのため、運用はすべて遠隔操作に限定されている。制圧地域に設置された短距離通信アンテナを介した無線操縦。あるいは、装甲車に乗り込み、有線または短距離無線接続で直接リンクする方式。
人は前に出ない。機体だけが前に出る。
それが、この戦争で人類が選んだ兵器の形だった。
美桜は、最前列に並ぶ一機の前で足を止めた。
無意識に肩をすくめる。作業服の上からでも、足元のコンクリートの冷えが伝わってきた。
遠隔操縦が前提となるスサノヲ……
パイロットにとって、機体は単なる道具ではない、相棒のようなものだった。
操縦席に乗り込むことはなくとも、戦場では一瞬の遅れが死に直結する。だからこそ、与島基地のパイロットたちは、それぞれのスサノヲに名前を与え、機体の胸部や肩部にパーソナルマークを書き込むようになった。
識別のため。そして何より――自分の分身であると、心に刻み込むために。
美桜の前に立つスサノヲの肩と胸部には、小さな桜の意匠が描かれている。
白い装甲に淡く浮かぶその花弁は、戦場にはあまりにも不釣り合いで、それゆえに強い存在感を放っていた。
「……キルシュ」
美桜は小さく、機体の名を呼んだ。
キルシュ――桜のドイツ語――正確にはキルシュブリューテ。
美桜は装甲に手を伸ばし、指先でそっと触れる。
指先がじんと痺れるほど冷たいはずの表面に、不思議と拒絶感はなかった。
「今回は……ボロボロになるかもしれないね」
白く滲んだ吐息が、装甲の前で静かに消える。誰に聞かせるでもなく、独り言のように呟く。
「でも、頑張ろう。キルシュ」
返事はない。それでも、美桜にはそれで充分だった。
カルナの筋束で動く異形の兵器でありながら、その核には、人類の願いと、彼女自身の覚悟が刻み込まれている。
「おい、篠宮」
美桜の背中から、不意に低い声が投げかけられた。冷えた空気を震わせるような、低く乾いた声だった。
「お前、なんでこんなところで油売ってるんだ」
心臓が、わずかに跳ねる。だが驚きは一瞬で、美桜はゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、彼女と同じく本隊第一隊に指名された男――藤堂景だった。
無造作に着崩した作業服。軍人らしい立ち居振る舞いとは言い難いが、その身体の軸は不思議なほど安定している。前線を知る者特有の、余計な動きのなさがあった。
「……藤堂さん」
美桜が名を呼ぶと、藤堂は鼻で小さく笑った。
「さん付けはやめろ。戦場じゃ階級も年齢も関係ねぇだろ」
そう言いながらも、視線は自然と美桜の背後――キルシュへと向けられていた。
肩と胸に描かれた桜のマークを見て、ほんの一瞬だけ目を細める。
「相変わらず、可愛らしい趣味だな」
「……笑わないでください」
美桜は小さく抗議するが、藤堂は肩をすくめるだけだった。
藤堂景。
与島基地でも、異色中の異色と言っていい存在だ。
美桜が与島基地最年少、そして初の女性スサノヲパイロットであることは、周知の事実だった。それ自体が異例であり、注目と偏見を同時に集める立場でもある。
だが、藤堂の経歴は、それ以上に常識から外れていた。
多くのスサノヲパイロット候補生は、元軍属だ。陸自、空自、あるいは特殊部隊。戦闘経験を積んだ人材が、スサノヲという新兵器に適応するため転属してくる。
ところが藤堂は違った。彼は、戦争が始まる前まで――一介のサラリーマンだった。
一般企業に勤め、家族を持ち、戦場とは無縁の生活を送っていた男が、ある日突然スサノヲパイロットを志願した。当然、周囲の評価は冷ややかだった。
「前線じゃ通用しない」
「机仕事しか知らない民間人だ」
「どうせ訓練で脱落する」
そんな声の中で、藤堂は黙って訓練を受け続けた。案の定、シミュレーターの成績は、平凡以下。電子上の仮想カルナ相手では、彼の成績は常にギリギリだった。
だが――実戦に出て、評価は一変する。近接戦。乱戦。実際にカルナに対峙した環境で、藤堂は異様な強さを見せた。
理由は分からない。ただ結果として、敵が倒れ、味方が生き残る。気がつけば藤堂は、最前線で確固たる地位を築いていた。
「……何見てるんですか」
美桜が言うと、藤堂はようやく視線を戻した。
「いや」
短く答え、少しだけ声の調子を落とす。
「今回の作戦、本隊だろ。お前」
「はい」
藤堂は、そこで言葉を切らなかった。
「俺はお前のことは認めない」
低く、はっきりとした声だった。冗談めかした調子でも、怒気を含んだものでもない。ただ事実を告げるような、乾いた断言。
「お前みたいなのが、最前線に出る必要はねぇ」
藤堂は一歩、美桜から距離を取るようにして続ける。
「前は俺が行く。サイクロプスで十分だ」
そして、親指で背後にそびえるスサノヲ――サイクロプスの方を、短く示した。
「お前は与島に残れ。基地から遠隔で繋いで、四国内陸の瀬戸大橋でも見張ってりゃいい」
言い方はぞんざいだったが、そこに軽視の色はなかった。
「作戦が始まればな、橋の警備はどうしても手薄になる」
藤堂は、整備区画の方へ歩きながら、背中越しに続けた。
「背後を守るのも、立派な仕事だ」
——十八歳。
実戦配備から、まだ一年。その数字を、直接口にすることはなかったが、藤堂の言葉はそれをはっきりと示していた。
言い終えると、それ以上、言葉を交わす気はないようだった。藤堂はそのまま、自身のスサノヲの元へと歩いていく。
サイクロプス――
胸部装甲に描かれた、歪んだ単眼のマーク。美桜のキルシュとは対照的な、威圧感のある意匠だった。
藤堂は整備員の一人に声をかけ、機体の脚部を指差しながら何かを確認し始める。身振りは簡潔で、必要なことしか口にしない。そのやり取りには、長年連れ添ったかのような無駄のなさがあった。
美桜は、その背中を少し離れた場所から見つめていた。
――やっぱり、苦手だ。心の中で、そう思う。
藤堂は、何かあるたびにこうだ。作戦前でも、訓練中でも、事あるごとに『引っ込んでいろ』と言う。
危険な場所に出ようとすれば、必ず止める。
それが命令口調であっても、不思議と侮蔑は感じられなかった。見下している、というより――線を引いている。
「……なんなんですか、本当に」
美桜は小さく呟き、キルシュに視線を戻す。
自分は本隊第一隊の一員だ。司令部がそう判断し、名を呼んだ。それは事実で、覆らない。
それでも藤堂は、認めないと言った。なのに、声は冷たくなかった。目も、敵意を宿してはいなかった。
むしろ――どこか、過剰なほど慎重だった。
美桜は装甲に触れたまま、ふと考える。藤堂は、サラリーマンだったと言う。戦争が始まる前には、家族がいたとも聞いた。
詳細は、誰も知らない。藤堂自身も、決して話そうとしない。
小さく、息を吐く。守られるつもりはない。けれど、拒む理由も見つからない。
(――咲ちゃんを目覚めさせるために、カルナを知らなきゃいけない)
美桜は背筋を伸ばし、静かにキルシュから手を離した。冷えた指先を握りしめ、ポケットの中で小さく温める。
それでも、美桜には分かっていた。
この機体は、彼女の意志にきっと応えてくれる――そう感じていた。




