第27話 再び動く
美桜が目を覚ますと、見慣れない天井が目に映った。一瞬、ここがどこなのか分からず、瞬きをする。
――そうだ。
ここは、島根第一研究所のゲストハウスの一室だった。ベッドから下り、備え付けの鏡の前に立つ。少し乱れた髪と、疲れの残る顔が映っていた。
「……ひどい顔」
思わず、そう呟く。だが、鏡の中の自分をもう一度見て、肩をすくめた。
「でも、まぁ……昨日よりはマシかな」
ふっと小さく笑い、両腕を伸ばす。どうやら、思っていた以上にぐっすり眠っていたらしい。
夜の冷えを残した部屋に、朝の柔らかな日差しが窓からこぼれ込んでいた。顔を洗い、身支度を整える。袖を通したのは、与島基地で支給された制服だった。
そのまま四番ラボへ向かう。
中に入ると、すでにニックと藤堂の姿があった。二人は藤原博士と向かい合い、何やら真剣な様子で話をしている。
藤堂が、低い声で口を開いた。
「……本当なんですか、藤原博士」
藤原博士は、軽く顎を引く。
「ああ。情報統制が敷かれていてな。まだごく一部の人間にしか伝わっとらんらしいが……事実や」
ニックが、思わず声を荒げる。
「マジかよ。カルナが……」
「せやで」
藤原博士は、短く応じた。
「一週間ほど前らしい」
美桜は、その言葉に息を呑み、慌てて二人のそばへ駆け寄る。
「カルナが……どうかしたんですか?」
藤原博士は、美桜の姿を認めると、少しだけ表情を緩めた。
「ああ、美桜ちゃんかい。実は今朝、ハワイの研究所からワシのところに電話があってな」
そう前置きしてから、続ける。
「そいつが、この研究所のゼロ号標本についての資料を連絡してほしい、っちゅうんや。そのくせ、理由を聞いたら国家機密事項やから、開示できへん言いよんねん」
一瞬、苦笑する。
「せやから、理由を言わんのんなら送ったらん、言うたったんや。そしたらな。向こうも渋々、事情を教えてくれよった」
藤原博士は、そこで一度言葉を切り、三人を見回した。
「一週間ほど前――地球に、五年ぶりにカルナが襲来した」
静かな声が、ラボに落ちる。藤原博士は、静かに口を開いた。
「太平洋のど真ん中に、カルナが落下したらしいんや」
その言葉に、藤堂が即座に反応する。
「……それじゃ、落下による人的被害は」
問いかける声には、抑えきれない緊張が滲んでいた。
藤原博士は、小さく鼻を鳴らすようにして首を振る。
「藤堂はん、安心し」
少しだけ間を置いてから、はっきりと言い切った。
「死人はおろか、けが人一人おらん」
その一言で、ラボの空気がわずかに緩む。
藤原博士は、そのまま続けた。
「カルナが落下したのは、ほんまに太平洋のど真ん中や。せやけど、最初はな、アメリカの東海岸に落ちる可能性が高い、っちゅう予測やったらしい」
美桜は思わず息を呑む。
「そんで、NASAとアメリカの空軍が協力してな。迎撃して、物理的にカルナの軌道をそらしたそうや」
藤堂の眉が、わずかに動く。
「……迎撃、ですか」
「せや」
藤原博士は、淡々と頷いた。
「結果として、カルナは海底にさえ届かんかった。海面に浮かんどるところを、そのまま米軍が確保してな」
少しだけ声を落とす。
「回収した上で、ハワイの研究施設に運搬した、っちゅう話や」
藤堂が、慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「じゃあ……カルナは、沈黙したままの状態ってことですか」
藤原博士は、迷いなく答える。
「せや」
その声は、はっきりとしていた。
「アメリカはな、ハワイの研究施設でカルナを管理して、研究を進めるつもりや」
ニックは腕を組み、眉をひそめたまま口を開いた。
「そんなん言うてもやなぁ……相手は、あのカルナやろ? いくらアメリカ言うても、スサノヲもおらんのに、さすがに……無理があるんとちゃうやろか」
吐き捨てるような口調に、ラボの空気が再び張り詰める。
藤原博士は、ゆっくりとニックを見てから、ため息まじりに応えた。
「せやからこそやで、ニック」
低い声で、言葉を継ぐ。
「せやからこそ、ワシのとこに連絡をよこしてきたんやろな」
三人の視線が、自然と藤原博士に集まる。
「ワシはこれまで、カルナの脅威を全世界に知ってもらうために、いろいろ論文を出してきたからなぁ……」
そう言って、軽く肩をすくめた。
「ワシが論文で示した手順に則って、カルナをゼロ世代から徹底管理してやればや。スサノヲが無うても、管理することそのものは可能や――向こうは、そう判断したんやろ」
美桜は、その言葉を噛みしめるように黙って聞いていた。
藤堂が口を開く。
「……でも、万が一ということもあり得ます。それに備えて、日本からスサノヲを提供するという選択肢はないんですか」
静かな口調だったが、その言葉には現実的な重みがあった。
「機体だけじゃない。運用できる兵士の教育も含めてです。時間はかかるでしょうが、それが一番確実なはずです」
ニックがわずかに目を見開き、美桜も藤堂の横顔を見る。
藤原博士は、すぐには答えず、しばらく考えるように視線を落とした。
「……藤堂はん、それが正論や、ワシもそれがええ思うとる。それでもや」
そう前置きしてから、続ける。
そして、ゆっくりと首を振る。
「せやけどな、それは――時間がかかりすぎるんや」
淡々と、しかしはっきりと言った。
「スサノヲは機体だけ渡してどうにかなる代物やない。操縦、判断、現場での応用……全部ひっくるめて人が要る」
藤堂は口を閉ざしたまま、黙って聞いている。
「兵士を育てるには、必要になるんは年単位や。カルナを相手にしながら、そんな余裕を待てる国は少ない」
藤原博士は、そこで一度言葉を切り、三人を見回した。
「つまりや――」
低く、結論を落とす。
「アメリカは、そこまで待てへんほど追い詰められとる、っちゅうことや」
藤原博士は、少しだけ視線を落とし、続ける。
「カルナはな、日本から四国という地を奪った、憎き相手や」
一瞬、沈黙が落ちる。
「せやけど……」
藤原博士は、ゆっくりと顔を上げた。
「半面、カルナによってもたらされた技術革新があったことも……まぁ、事実や」
その声音には、割り切れない感情が滲んでいた。
「アメリカもな――」
そう前置きして、ぽつりと言う。
「焦っとるんかもしれんな」
誰もすぐには言葉を返せなかった。
カルナという存在が、再び世界の均衡を揺らし始めている――その重みだけが、静かなラボの中に確かに残っていた。
口を開いたのは、美桜だった。
「……藤原博士は、どうされるおつもりなんですか?」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。だが、その奥には拭いきれない不安が滲んでいる。
藤原博士は一瞬、美桜を見つめ返した。その視線は、研究者としてではなく、一人の大人としてのものだった。
「……ホンマはな」
低く、ため息交じりに言う。
「危険やから、辞めとき言いたいところなんや」
ニックが何か言いかけて口を閉ざす。
藤堂も、ただ黙って耳を傾けていた。
「せやけど……」
藤原博士は、ゆっくりと首を横に振る。
「それは、もう無理やろうな」
現実を受け入れるような声音だった。
「せやからこそや」
視線を上げ、はっきりと言う。
「何重にも、しっかりと安全策を講じた上でな。できる限りの、いや――考えうる限りすべてのリスクを想定した」
わずかに口角を引き上げるが、笑みにはならない。
「その上でのアドバイスを、しっかりとさせてもらおう思うとるわ」
美桜は、その言葉を胸の奥で受け止めた。
それは協力でも、容認でもない。危険を知り尽くした者が、それでもなお差し出す責任だった。
藤原博士は、ぱん、と一度だけ手を叩いた。
その音が合図のように、重く沈んでいた空気を断ち切る。
「はい、この話はもうしまいや」
少しだけ声色を変え、いつもの調子に戻そうとする。
「まだな、ワシのとこに情報提供の依頼が来とるだけやさかい」
三人の顔を順に見渡しながら、続けた。
「もしかしたらやけど……」
ほんの一瞬、言葉を選ぶように間を置く。
「いざとなったら、あんたらに協力をお願いせんとあかん時が来るかもしれへん」
ニックが小さく舌打ちし、藤堂は視線を伏せたまま無言で受け止める。美桜だけが、まっすぐ藤原博士を見ていた。
「そうなったらや」
藤原博士は、軽く肩をすくめる。
「改めて、正式にお願いするわ」
それ以上は何も言わなかった。だが、その言葉の裏にある重みは、全員が理解していた。
――協力要請が来るということは、研究が成立する状況を逸脱する事態が発生したという意味だ。
藤原博士は踵を返し、ラボの奥へ向かいながら、ぽつりと付け加える。
「せやから今日は、この話はここまでや。余計な心配しても、今はしゃあない」
その背中は、どこか以前よりも小さく見えた。
残された三人は、しばらく言葉を交わさずに立ち尽くしていた。朝の光は相変わらずラボを照らしているのに、その中にいる彼らだけが、少し先の未来を見据えてしまったかのようだった。
――また、カルナが世界を動かし始めている。その事実だけが、確かに胸の奥に残っていた。




