第24話 名を持たないものと
館内に、乾いた電子音が鳴り響いた。
『――ピンパンポーン』
そのアナウンスが最後まで流れ切るよりも早く、割り込むように、はっきりとした女性の声が響く。
『もーっ! 藤原博士!
どこで油売ってるんですか!
いつまで待たせるつもりですか!?』
スピーカー越しでも分かる、苛立ちを隠そうともしない声音。
『一刻も早く、四番ラボに来なさーーーい!!』
一拍。
ホールの空気が、ぴしりと引き締まった。
「……あー」
藤原博士は、頭の後ろを掻きながら苦笑する。
「こらあかんわ。
真理子ちゃん、完全に怒っとる」
そう言って、二人の方を振り返った。
「ほな……続きは、また今度やな」
肩をすくめる。
「行こか。
これ以上待たせたら、ほんまに怖い」
美桜とニックは顔を見合わせ、無言のまま頷いた。
四番ラボ。
藤原博士がIDカードをセンサーにかざすと、分厚い隔壁が低い駆動音を立てて開いた。
三人が足を踏み入れた瞬間、空気の質そのものが変わったのを、美桜ははっきりと感じた。
隔壁が完全に閉じるよりも早く、中央制御卓の向こうから、ヒールの低い靴音が近づいてきた。
白衣姿の女性だ。
年齢は二十代後半か、三十前後。
黒髪をきっちりと後ろで束ね、無駄な装飾は一切ない。
彼女は一瞬だけ美桜とニックを観察するように視線を走らせ、そのまま藤原博士へ向けて、ため息混じりに口を開いた。
「……やっと来ましたか、博士」
「いやぁ、ちょっと立て込んでてなぁ」
「“ちょっと”で済む時間じゃありません」
ぴしり、と言い切る声。
その女性は、今度は美桜の方へ向き直り、必要最低限の動作だけで、軽く会釈した。
「初めまして。
藤原博士の助手をしています、遠藤真理子です」
淡々とした口調。
だが、その視線には、はっきりとした知性と警戒が宿っている。
「本来なら、もっと落ち着いた場でご挨拶すべきなんでしょうけど」
そう前置きしてから、ちらりと、部屋の中央――定置台の方向を見る。
「状況が状況なので。失礼します」
美桜は、少し遅れて頭を下げた。
「……篠宮美桜です」
その名を聞いた瞬間、真理子の眉が、ほんのわずかに動いた。
「――はい、お伺いしております。」
それ以上は何も言わず、彼女はすぐに制御卓へと戻っていく。
その背中を見送りながら、美桜は直感的に理解していた。
この人は――
感情よりも、結果を優先するタイプだ。
そして、この研究室で起きることすべてを、一歩引いた場所から、正確に見続ける役割の人間なのだと。
そう理解した途端、美桜の意識は、真理子から離れ、研究室そのものへと向けられていった。
天井は高い。
異様なほどに高い。
壁面は、塗装すら施されていない打ちっぱなしのコンクリート。
剥き出しの配管や、腕ほどもある太い電力ケーブルが、血管のように壁と天井を這い回り、そのすべてが、部屋の中央へと収束している。
――研究室、というより。
(……ドック……)
あるいは、工場だ。
部屋の中央。
床に埋め込まれた厚い鋼鉄のプレートの上に、頑強な定置台が据え付けられている。
そこから突き出す複数のクランプアーム。
その中心に――
運び込まれた「卵」が、固定されていた。
周囲に並ぶのは、使い込まれたスチール製のラックと、淡々と波形を刻む計測ユニット。
装飾性は皆無。
必要最低限の機能だけが、無骨に配置されている。
天井には自走式クレーン。
床の隅には、スサノヲの整備用と思しき大型工具箱や、霜をまとった液体窒素のボンベが無造作に転がっていた。
窓は、一つもない。
外光を完全に断ち切ったコンクリートの箱の中で、響いているのは、低く唸る空調音と、どこか遠くで響くスサノヲの駆動音だけ。
その無機質な反響が――
中央に据えられた「卵」の存在感を、いやが上にも際立たせていた。
美桜は、知らず息を呑む。
ここは、観察の場ではない。
解析、測定し、そして――必要とあらば、踏み込むための場所だ。
藤原博士が、卵へと視線を向けたまま、静かに言った。
「さて……」
その声から、先ほどまでの軽さは消えていた。
「ここからが、本番や」
藤原博士は、定置台の脇に設えられた操作卓へ歩み寄った。
指先でいくつかのスイッチを叩くと、低い駆動音が床下から這い上がってくる。
「《透視の揺り籠》や」
短く、それだけを告げる。
卵を囲む四隅で、コンクリート柱が静かに起動した。
柱の表面を走る警告灯が、橙から白へと切り替わる。
次の瞬間――
足元の配管から、白い霧が吐き出された。
「……冷却、入ったな」
霧は床を這い、ゆっくりと卵の下部を包み込む。
空気が一段、冷えるのを美桜は肌で感じた。
「高加速ミューオンを、全周囲から照射する」
藤原博士の声は、淡々としている。
「卵には一切、手ぇ触れへん。
壊しもせん。削りもせん」
操作卓の表示が切り替わる。
「――中身を開けずに、
“そのままの状態”を映すだけや」
透明なパネルが、卵の周囲に滑るように展開した。
ガラスに似ているが、反射はなく、向こう側が不自然なほど歪まずに見える。
「来るで」
軽いキー音。
その直後、
透明パネルの内側に、像が結ばれた。
それは――
誰もが想像していた「サーヴィター」とは、まるで違っていた。
節も、甲殻も、脚もない。
虫の面影は、どこにも見当たらない。
丸みを帯びた胴体。
内側に折り畳まれるような、未形成の四肢。
頭部に相当する部分は大きく、柔らかな曲線を描いている。
まるで――
「……赤ちゃん……みたい」
美桜の口から、思わず言葉が零れた。
その瞬間だった。
「――っ」
藤堂が、顔色を変えた。
一歩、よろめくように後退し、
口元を押さえたまま、勢いよく踵を返す。
「す、すまん……!」
そのまま研究室を飛び出し、
廊下の先――トイレの方向へと駆けていった。
静まり返ったラボに、
藤原博士の、間の抜けた声が落ちる。
「何や、つわりかいな」
「博士」
即座に、鋭い声が飛んだ。
操作卓の向こうで腕を組んでいた真理子が、
冷ややかな視線を向ける。
「ボケが下品で不適切です」
「……はい」
藤原博士は、素直に肩をすくめた。
気を取り直すように、
再び映像へと視線を戻す。
「ほら……ここ、見てみ」
博士が指し示したのは、
像の胸部――核のような部分だった。
淡い光が、
規則的とも、不規則ともつかない間隔で、明滅している。
そのたびに。
ほんの、ほんのわずか――
内部の輪郭が、ぴくりと動いた。
「発光を繰り返すとき、な。
わずかやが……動くんや」
美桜は、息を詰めたまま、その変化を追う。
「……生きている……」
掠れた声。
藤原博士が、静かに頷いた。
「せや。
間違いのう、生きとる」
その言葉を受けて、
真理子がモニターから目を離さずに言った。
「でも……この発光反応が確認されたのは、
ほんのつい先ほどからです」
操作ログを指で弾きながら続ける。
「それまでは、完全な沈黙状態でした。
生体電位も、活動兆候も、一切なし」
一拍。
美桜が、はっとしたように顔を上げる。
「あ……」
そして、慎重に言葉を選びながら告げた。
「今朝、与島基地で……基地司令に言われたんですけど」
視線を、映像から離さずに。
「どうやら、この卵……
私が近くにいるときに、発光するみたいなんです」
その瞬間。
藤原博士の眉が、ぴくりと動いた。
冗談めいた軽さは、そこにはない。
博士はゆっくりと美桜へ視線を向け、
そして再び――
モニターに映る、“まだ生まれていない存在”を見つめた。
藤原博士は、しばらく黙ったままモニターを見つめていたが、やがて静かに口を開いた。
「……篠宮美桜ちゃん、やったかな」
名を呼ばれ、美桜の肩がわずかに強張る。
「実はな、今朝その小田桐はんと、ちょっと話をしとってん」
操作卓から離れ、博士はゆっくりと振り返る。
「聞いたで。
美桜ちゃんのスサノヲ――
壊れて使えんようになったらしいやないか」
美桜は、否定も肯定もせず、ただ小さく頷いた。
「新しいスサノヲが配備されるんも、まあ……時間かかるやろな」
博士は肩をすくめる。
「せやったら、や」
その視線が、再び卵へと向けられる。
「美桜ちゃん。
この研究所で、一緒にこの卵のこと、研究してみんか」
一瞬、空気が止まった。
「小田桐はんにも聞いてみたんや。
返事はな――」
博士は、少しだけ口角を上げる。
「『本人の判断に任せる』。
それだけや」
美桜は、言葉を失ったまま立ち尽くす。
モニターの中で、淡い光がまた一度、脈打った。
自分の存在に応えるように。
「……私が……」
美桜は、視線を卵に向けたまま、ゆっくりと呟く。
「私が、研究所で……
この卵と……」
言葉になりきらない思考が、胸の奥で絡まり合う。
その沈黙を、破ったのは――
場違いなほど軽い声だった。
「ええやん、ええやん!」
ニックが、ぱん、と手を叩く。
「あんだけカルナ・フロラで頑張ったんやろ?
命懸けも、ほどほどにせなあかんで」
にっと笑って、続ける。
「たまには気分転換も重要やと思うわ。
研究者ルート、意外と向いとるかもしれんしな」
その言葉に、美桜ははっとしてニックを見る。
そして――
もう一度、卵を見る。
光るたび、微かに動く、まだ名もない存在。
戦場とは違う。
だが、ここもまた――
踏み込めば、引き返せない場所だ。
藤原博士は、何も言わず、答えを急かさなかった。
ただ、卵と、美桜と、その距離を見つめている。
選ぶのは――
彼女自身だった。




