第21話 動かない夜
与島基地への帰投は、淡々と進められた。外気は乾ききっている。開放区画を抜けるたび、白い息がかすかに広がり、すぐに消えていった。
本隊およびサポート隊、全機に対する指示は簡潔だった。部隊ごとにまとまって所定位置へ格納。その後、直ちに身体を休めること。
命令に、感情は含まれていない。
ハンガー内に、機体誘導灯が順に点る。まず、サポート隊が呼ばれた。指定された番号とコールサインが、機械的に読み上げられていく。
続いて、イージス隊。そして最後に、ヴァンガード隊。
――キルシュの名は、なかった。
誰も口にはしない。ただ、空気だけが、わずかに重くなる。全機が格納を終え、ハンガーのシャッターが閉じられる。
外界の音が遮断され、広い空間に残るのは、冷却音の名残と、微かな反響音だけだった。それでも、扉が閉まる直前に入り込んだ冷気が、足元にわずかに残っている。
アメノウズメの操縦席で、美桜は動けずにいた。
ハーネスを外すこともできず、ただ前を向いたまま、肩を震わせている。泣き声は抑えられていたが、嗚咽は止まらない。
ヴァンガード隊の面々は、誰一人として席を立たなかった。
ニックは何度か口を開きかけて、結局何も言えずに閉じる。藤堂も、しばらくは沈黙を保っていた。
慰めの言葉を探しているのは分かる。
だが、どれもここでは軽すぎる。あるいは、重すぎる。
やがて、藤堂が小さく息を吐いた。
「……五年前まで、俺は会社員だった」
唐突な切り出しだった。美桜の反応はない。
それでも、藤堂は続ける。
「造船所で設計をやってた。仕事は嫌いじゃなかったが……まあ、毎日帰りは遅くてな。身を削る、って言葉がそのまま当てはまる生活だった」
誰に向けているのか、分からない語りだった。
「妻と出会って、子どもができて……こう見えて信じられないかもしれないが、親バカでな。息子が可愛くて仕方がなかった」
藤堂の声は淡々としている。だが、その調子はわずかに慎重だった。
「なかなか会える時間は作れなかった。だからこそ、会える時間は……何にも代えがたい宝物だった」
短く息を継ぐ音だけが、操縦区画に残る。
「家のことは、全部妻に任せきりだった。今思えば……よく、こんな俺についてきてくれたと思う」
その言葉に、かすかな後悔が滲む。
「俺には勿体ないくらい、出来すぎた家族だった……そんな時だったんだ」
藤堂は、ほんのわずかに視線を落とした。
「カルナが、落下したのは」
空気が、わずかに張りつめる。
「その日も、俺は早く帰れなかった。やっと仕事に一区切りつけて、車を走らせてた」
淡々とした語り口だった。
「そしたらな……突然、頭上に大きな光が現れた。それが、進行方向をなぞるみたいに落ちていって……」
藤堂の声が、わずかに掠れる。
「家のほうが――」
一度、言葉が止まる。
「……光に包まれるのが見えた」
誰も、口を挟まない。
「そのあと、俺が見たのは――」
藤堂がかぶりを振った。
「いや、ちがうな。家があった場所には、もう何もなかった」
短く、息を吸う。
「家も、妻も、息子も。まるで……最初から、何もなかったみたいにな」
その声には、怒りも嘆きもなかった。ただ、事実を述べているだけだった。
「俺は、その時から……全部、どうでもよくなった」
少しだけ、苦笑する。
「仕事を辞めた。カルナは憎かったが……どうすればいいか、分からなかった」
沈黙。
「そんな折だ。俺は、親友に助けられた」
藤堂は、視線を横に流す。
「当時から、あいつは医者なんかやってる……俺とは違ってな。今じゃ、どこぞの基地司令をやってる……まあ、出来すぎたやつだ」
藤堂は、唇の端をわずかに歪め、それをすぐに消した。
「そいつが、俺に力をくれた。カルナと戦う力を」
言葉を選ぶように、続ける。
「そこまで……一年半くらい、かかったかな。済まない。話の整理ができてなくてな」
そう前置きしてから、藤堂は真っ直ぐ前を見た。
「ただ……さっきの戦いで、俺は迷った」
美桜のほうを見ることはしない。
「百足型から逃げる時だ。イージス隊に対する甘えがあった。サイクロプスが引き受けるべきかどうか……判断が遅れた」
低く、吐き出すように言う。
「美桜。お前の判断のほうが、早かった」
少しだけ、声に力がこもる。
「結果として、ヴァンガード隊は……誰一人、死なずに済んだ」
それは事実だった。重いが、揺るがない事実。
「だからな」
藤堂は、はっきりと言った。
「俺たちは、恩がある。そして――お前は、甘えていい」
初めて、美桜のほうを向く。
「俺たちに。必要なら、何でも言ってくれ」
藤堂はそこで言葉を切り、わずかに視線を落とした。何かを選び直すように、短く息を吐く。
「それは……ここにいるヴァンガード隊全員の、総意だと思ってる」
誰も否定しない。誰も、うなずきもしない。だが、その沈黙は、確かに肯定だった。しばらく、誰も動かなかった。
ハンガー内に、機体の冷却が完全に終わる音が、遅れて響く。それは、任務が終わったことを示す合図のはずだった。
だが、美桜は、まだそこに留まっている。
肩を震わせる動きは小さくなったが、嗚咽は止まらない。涙は拭われることなく、ヘッドギアの内側に落ちていく。
「……」
美桜は、何か言おうとして、結局、声を出せなかった。
言葉にしようとした瞬間、喉の奥で、それが壊れてしまい、それ以上紡ぐことができなかったからだ。
加納が、ゆっくりとハーネスを外す。
立ち上がらない。ただ、わずかに体勢を崩して、美桜の方に体を向ける。
「……急がなくていい」
短くそう言った。それ以上、続けるつもりはない声だった。
慰めにならないことを、分かっている声音だった。
藤堂も、何も続けなかった。
言うべきことは、もう言った。それ以上は、踏み込めない。
沈黙が、再び広がる。だが、それは、先ほどまでの沈黙とは違っていた。
責めるためでも、逃げるためでもない。ただ、そこに一緒にいるための時間だった。
やがて、美桜の呼吸が、ほんのわずかに変わる。
泣き止んだわけではない。嗚咽も、まだ残っている。
それでも――胸の上下が、ほんの少しだけ、整い始めていた。
美桜は、俯いたまま、かすれた声を絞り出す。
「……すみません」
それは、謝罪ではなかった。癖のように、零れ落ちただけの言葉だった。
「何も……謝ることやあらへんで」
ニックが、即座に返す。
強くも、優しくもない。当たり前のことを、そのまま言う口調だった。
「……それでいい」
佐伯が、静かに言った。
「泣くなとも、立てとも言わん。今は、ここまででいい」
言い終えて、わずかに間を置く。美桜の呼吸だけが、小さく揺れていた。
「時間は、こちらで引き受ける。お前は……今は、ここにいろ」
美桜は、それ以上、何も言えなかった。だが、その言葉に、否定もできなかった。
ハンガーの奥、灯りの落ちた格納スペースが、静かに残っている。
そこに、機体はない。ここに、それを駆っていた者がいる。
誰も、その方向を見ない。だが、誰も忘れてもいない。
ヴァンガード隊は、まだ動かない。
命令があるまで。
あるいは――美桜が、動けるようになるまで。
与島基地の夜は、静かに更けていく。
海から吹き上げる風は冷え切っており、灯りの外に出れば指先の感覚はすぐに奪われるだろう。
戦いは終わった。だが、失われたものは、まだ胸の内にある。それを抱えたまま、彼らは、次の時間へ進む準備をしていた。




