第17話 深淵の例外
通路の先で、狭苦しい洞窟の圧迫感がふっと抜けた。
その瞬間、通信回線に小田桐の声が流れ込む。
『……ここだ。ひらけるぞ』
先頭のイージス隊が減速し、続いてヴァンガード隊も歩を緩める。肉質の壁が左右に後退するように途切れ、視界が一気に開けた。
そこに広がっていたのは――巨大な植物の内部でありながら、器官という言葉では収まりきらない、異様な空洞が、圧として押し広がってくるような空間だった。
空間を支配しているのは、無数の血管だった。天井から垂れ下がる太い管状構造。壁から壁へと斜めに走るもの。床から隆起し、再び壁へと溶け込むもの。
それらが中空で絡み合い、重なり合い、逃げ場のない立体網を形作っている。
それはもはや根ではない。生命体の内部が、そのまま外へ晒されたような循環器が、脈打っていた。
表面には細かな分岐が無数に浮き上がり、内部を流れる濁った体液の動きに合わせて、一定のリズムで膨張と収縮を繰り返している。床を通して伝わる低い圧の変化が、その拍動を否応なく実感させた。
その血管網の至るところに、異物が一体化している。
卵だ。
乳白色の半透明な膜に包まれた肉塊が、血管の途中に、分岐の根元に、交点という交点すべてに、果実のように吊り下がっている。
あるものは壁に半ば埋没し、あるものは隣り合う卵と癒着し、境界すら曖昧になっている。
数個、数十ではない。
視線を動かすたび、必ず卵が映る。
どこを見ても、卵がある。
内部からは鈍い赤紫色の光が周期的に明滅していた。だが、その周期は揃っていない。ゆっくりと膨らむもの。短く、痙攣するように瞬くもの。
無数のリズムが重なり、空間全体が、不規則な拍動そのものになっている。
照明はない。この空洞を照らしているのは、数え切れない卵が放つ、その光だけだ。
交差する血管の影に、卵自身が落とす影が重なり、奥行きの感覚は完全に歪められている。距離感は意味を失い、近いのか遠いのかさえ判然としない。
卵一つ一つを、細い繊維状の血管が覆っている。
太い管から枝分かれした無数の細線が、表面に絡みつき、包み込み、引き剥がすことを拒むように密着している。
どの血管が、どの卵に繋がっているのか。どこまでが一本で、どこからが分岐なのか。追おうとした瞬間、その密度と量によって、思考そのものが押し流される。
数ではない。単位でもない。
この空間全体が、卵を生み、育て、送り出すためだけの回路として機能し続けているのが、否応なく実感として押しつけられてくる。
巨大な空洞の中央に立つスサノヲの機体は、この生体構造の中ではあまりにも異質で、生きた組織の隙間に紛れ込んだ異物のように浮き上がっていた。
誰も、すぐには言葉を発することができない。通信は開いたままだが、回線に流れるのは機体の駆動音と環境ノイズだけだった。
『……確認した』
ややあって、小田桐の声が静かに響く。
『ここが、カルナ・フロラの孵化区画だ』
説明はそれだけだった。だが、孵化区画、という四文字が、この空間のすべてだった。
卵の明滅が、わずかに速くなったように見える。血管の拍動も、確実に続いている。生産は、今この瞬間も止まっていない。
佐伯は前を見据えたまま、短く指示を出した。
「隊列維持。無闇に撃つな。進行路だけ確保する」
即座に応答が返る。
「了解や」
「了解だ」
「了解した」
「了解しました」
二隊は、巨大な孵化場の縁をなぞるように、慎重に前進を再開した。広大な空洞の縁を離れ、血管網の隙間を縫うように、中央へ向かっていく。
足元の感触が、わずかに変わった。
壁や床と一体化していた血管が減り、代わりに、比較的平坦な肉質の地面が広がっている。
その中央――異様な光景が、視界に引っかかった。
「……卵?」
美桜の声がこぼれた。
確かに、それは卵だった。大きさも形状も、周囲に無数に存在するものと大差はない。
だが、決定的に違う点があった。
その卵は、地面に落ちていた。血管に吊られてもいない。壁に埋没してもいない。
そして――繋がっていなかった。
他の卵を覆っているはずの細い繊維状の血管が、一切存在しない。根も、管も、枝分かれもない。完全に単体で、そこに在る。
異様さは、それだけでは終わらない。
周囲の卵は、親体から送られる拍動に合わせ、赤紫色の鈍い光を断続的に明滅させている。
だが、この卵だけは違った。
黄金色。薄く、だが確かな光。表面は、かすかに――ほんの薄く光を帯びているだけだった。
拍動はない。明滅もない。
主張するような輝きはなく、まるで機能を停止した器のように、静かにそこに横たわっている。
単体で。何とも繋がらずに。
「この子だけ……どうして……?」
美桜の呟きは、わずかに揺れていた。
そのとき――通信回線に小田桐の声が入る。
『……確認した』
間を置かず、続く。
『ヴァンガード隊、イージス隊。この空間を可能な限り記録しろ。映像、環境データ、全センサーだ』
短い沈黙。
『中央の卵を回収する。直ちに有線ケーブルをたどり、回収しつつ《暁》まで帰還せよ』
佐伯は、すぐには応じなかった。
血管網の奥で、拍動は変わらず続いている。無数の卵も、赤紫の光を瞬かせたままだ。
だが――
中央の黄金色の卵だけは、何事もなかったかのように、周囲の拍動から切り離されたまま、静かに脈打っていた。
その光は、呼びかけるでも拒むでもなく、ただそこに在るだけのものとして、視界の奥に静かに居座り続けていた。
佐伯は、わずかに息を整えてから口を開いた。
「基地司令よ。申し訳ないが――現場の立場で、ひとつ言わせてもらってもいいですかね」
通信回線の向こうで、小田桐が即座に応じる。
『なんだ。どうした、ヴァンガード隊。遠慮することはない』
佐伯は視線を中央の卵から外さないまま、淡々と言葉を継いだ。
「それじゃ、遠慮なく言わしてもらいますが……持って帰れと言われても、これだけの質量で、しかも卵型。転がりやすく、破損の可能性も高い。現状、専用の固定具も衝撃吸収材もない状態です」
佐伯はわずかに言葉を切り、続けた。
「何の準備もないまま回収を試みるのは――現場判断としては、承服し兼ねる。対応が難しいタスクだと考えます」
回線に、短い沈黙が落ちた。
それは、抗命ではない。だが、ぎりぎりの進言だった。
佐伯は理解していた。
このタスクが、極めて困難であることを。そして、失敗する可能性が決して低くないことを。
もし万が一、回収に失敗すれば――その責任の追及は、自分一人に留まらない。判断を共有した部隊全体に及ぶ可能性がある。
それを、十分に承知したうえでの発言だった。
それでも佐伯は、口を開いた。
この進言によって責を問われるなら、その矢面に立つのは自分でいい。部隊に及ぶはずのすべてを、自分一人で引き受ける。
その覚悟を、最初から引き換えにしての言葉だった。
数秒後。
通信に、小田桐の声が戻る。
『……イージス隊』
静かだが、迷いのない声だった。
『特殊兵装。パターンFを展開せよ』
即座に応答が返る。
「了解です」
イージス隊のスサノヲが、足を止める。
装甲側面のハッチが展開し、内部からFの符号が振られたコンテナが引き出された。
スサノヲ三機が分担し、無駄のない動きで展開していく。折り畳まれていた構造体が広がり、柔軟性のある繊維状の素材が露出する。
小田桐が続けた。
『不定形拾得物回収・運搬用ネットだ。耐衝撃、荷重分散、形状追従を想定している』
小田桐はわずかに間を置き、要点を継いだ。
『インターフェイスは、アメノウズメ後部接続口に合わせて計画させている。ヴァンガード隊、これで対応できるか』
佐伯は即答せず、藤堂に短く合図を送る。
サイクロプスが一歩前に出て、展開された装備を視認、その形状、柔軟性が問題ないことを確認し、接続部も問題ないことを確認する。
問題なし、対応可能。
サイクロプスは、アメノウズメに向けてハンドサインを送った。
それを確認してから、佐伯は通信を開く。
「小田桐基地司令。先ほどは、申し訳ございませんでした」
声は、明確に引き締まっている。
「一介の兵卒の立場で、出過ぎた口を開きました。ヴァンガード隊、アメノウズメパイロット、佐伯です。先ほどの発言は撤回いたします。責任は、すべて私、佐伯個人の一存にあります」
即座に、返答があった。
『ヴァンガード隊、佐伯。何を言う』
小田桐の声には、叱責はなかった。
『慎重な判断だ。むしろ指揮する立場として、現場の人間の意見、確認は非常にありがたい』
間を置かず、続く。
『この装備を使用しての卵の持ち帰り――ヴァンガード隊のアメノウズメのパイロット、是非ともお前にお願いしたい。頼めるか』
佐伯は、一瞬も間を置かなかった。
「小田桐基地司令。ご配慮に感謝申し上げます」
そして、はっきりと告げる。
「ヴァンガード隊、アメノウズメパイロット、佐伯。本任務、喜んで全責任、いや、命を懸けて拝命致します」
通信が切れる。
血管網の奥で、拍動は変わらず続いている。無数の卵も、赤紫の光を瞬かせたままだ。そのすべてから切り離されるように――中央の黄金色の卵だけが――変わらぬ間隔で、静かに脈打っていた。
回収作業は、始まろうとしていた。




