第16話 深淵の例外
通路の先で、狭苦しい洞窟の圧迫感がふっと抜けた。
その瞬間、通信回線に小田桐の声が流れ込む。
『……ここだ。ひらけるぞ』
先頭のイージス隊が減速し、続いてヴァンガード隊も歩を緩める。
肉質の壁が左右に後退するように途切れ、視界が一気に開けた。
そこに広がっていたのは――
巨大な植物の内部でありながら、もはや器官という言葉では捉えきれない、異様な空洞だった。
空間を支配しているのは、無数の「血管」だった。
天井から垂れ下がる太い管状構造。
壁から壁へと斜めに走るもの。
床から隆起し、再び壁へと溶け込むもの。
それらが中空で絡み合い、重なり合い、逃げ場のない立体網を形作っている。
それはもはや根ではない。
生命体の内部から剥き出しになった循環器そのものだった。
表面には細かな分岐が無数に浮き上がり、内部を流れる濁った体液の動きに合わせて、一定のリズムで膨張と収縮を繰り返している。
床を通して伝わる低い圧の変化が、その拍動を否応なく実感させた。
その血管網の至るところに、異物が一体化している。
卵だ。
乳白色の半透明な膜に包まれた肉塊が、血管の途中に、分岐の根元に、交点という交点すべてに、果実のように吊り下がっている。
あるものは壁に半ば埋没し、あるものは隣り合う卵と癒着し、境界すら曖昧になっている。
数個、数十ではない。
視線を動かすたび、必ず卵が映る。
どこを見ても、卵がある。
内部からは鈍い赤紫色の光が周期的に明滅していた。
だが、その周期は揃っていない。
ゆっくりと膨らむもの。
短く、痙攣するように瞬くもの。
無数のリズムが重なり、空間全体が、不規則な拍動そのものになっている。
照明はない。
この空洞を照らしているのは、数え切れない卵が放つ、その光だけだ。
交差する血管の影に、卵自身が落とす影が重なり、
奥行きの感覚は完全に歪められている。
距離感は意味を失い、近いのか遠いのかさえ判然としない。
卵一つ一つを、細い繊維状の血管が覆っている。
太い管から枝分かれした無数の細線が、表面に絡みつき、包み込み、引き剥がすことを拒むように密着している。
どの血管が、どの卵に繋がっているのか。
どこまでが一本で、どこからが分岐なのか。
追おうとした瞬間、その密度と量によって、思考そのものが押し流される。
数ではない。
単位でもない。
この空間全体が、卵を生み、育て、送り出すためだけに存在する
一つの巨大な回路だった。
巨大な空洞の中央に立つスサノヲの機体が、この生体構造の中では、あまりにも異質だった。
まるで、生きた組織の隙間に紛れ込んだ異物。
誰も、すぐには言葉を発しなかった。
通信は開いたままだ。
だが、回線に流れるのは機体の駆動音と、環境ノイズだけ。
『……確認した』
ややあって、小田桐の声が静かに響く。
『ここが、カルナ・フロラの孵化区画だ』
説明はそれだけだった。
だが、十分だった。
卵の明滅が、わずかに速くなったように見える。
血管の拍動も、確実に続いている。
生産は、今この瞬間も止まっていない。
佐伯は前を見据えたまま、短く指示を出した。
「隊列維持。無闇に撃つな。進行路だけ確保する」
即座に応答が返る。
「了解や」
「了解だ」
「了解した」
「了解しました」
二隊は、巨大な孵化場の縁をなぞるように、慎重に前進を再開した。
二隊は、そのまま進行を続けた。
広大な空洞の縁を離れ、血管網の隙間を縫うように、中央へ向かっていく。
足元の感触が、わずかに変わった。
壁や床と一体化していた血管が減り、代わりに、比較的平坦な肉質の地面が広がっている。
その中央――
異様な光景が、視界に引っかかった。
「……卵?」
誰かが低く言った。
確かに、それは卵だった。
大きさも形状も、周囲に無数に存在するものと大差はない。
だが、決定的に違う点があった。
その卵は、地面に「落ちて」いた。
血管に吊られてもいない。
壁に埋没してもいない。
そして――
繋がっていなかった。
他の卵を覆っているはずの細い繊維状の血管が、一切存在しない。
根も、管も、枝分かれもない。
完全に単体で、そこに在る。
異様さは、それだけでは終わらない。
周囲の卵は、親体から送られる拍動に合わせ、赤紫色の鈍い光を断続的に明滅させている。
だが、この卵だけは違った。
黄金色。
薄く、だが確かな光。
表面は、かすかに――
ほんの薄く光を帯びているだけだった。
拍動はない。
明滅もない。
主張するような輝きはなく、まるで“機能を停止した器”のように、静かにそこに横たわっている。
単体で。
何とも繋がらずに。
そのとき、通信回線に小田桐の声が入る。
『……確認した』
間を置かず、続く。
『ヴァンガード隊、イージス隊。
この空間を可能な限り記録しろ。映像、環境データ、全センサーだ』
短い沈黙。
『中央の卵を回収する。
直ちに有線ケーブルをたどり、回収しつつ《暁》まで帰還せよ』
佐伯は、すぐには応じなかった。
血管網の奥で、拍動は変わらず続いている。
無数の卵も、赤紫の光を瞬かせたままだ。
だが――
中央の黄金色の卵だけは、何事もなかったかのように、静かに脈打っていた。
その光は、呼びかけるでも、拒むでもなく。
ただ、そこに在るという事実だけを、淡々と示している。
佐伯は、わずかに息を整えてから口を開いた。
「基地司令よ。
申し訳ないが――現場の立場で、ひとつ言わせてもらってもいいですかね」
通信回線の向こうで、小田桐が即座に応じる。
『なんだ。どうした、ヴァンガード隊。
遠慮することはない』
佐伯は視線を中央の卵から外さないまま、淡々と言葉を継いだ。
「それじゃ、遠慮なく言わしてもらいますが……
持って帰れと言われても、これだけの質量で、しかも卵型。転がりやすく、破損の可能性も高い。
現状、専用の固定具も衝撃吸収材もない状態です」
一拍。
「何の準備もないまま回収を試みるのは――
現場判断としては、承服し兼ねる。対応が難しいタスクだと考えます」
回線に、短い沈黙が落ちた。
それは、抗命ではない。
だが、ぎりぎりの進言だった。
佐伯は理解していた。
このタスクが、極めて困難であることを。
そして、失敗する可能性が決して低くないことを。
もし万が一、回収に失敗すれば――
その責任の追及は、自分一人に留まらない。
判断を共有した部隊全体に及ぶ可能性がある。
それを、十分に承知したうえでの発言だった。
それでも佐伯は、口を開いた。
この進言によって責を問われるなら、その矢面に立つのは自分でいい。
部隊に及ぶはずのすべてを、自分一人で引き受ける。
その覚悟を、最初から引き換えにしての言葉だった。
数秒後。
通信に、小田桐の声が戻る。
『……イージス隊』
静かだが、迷いのない声だった。
『特殊兵装。パターンFを展開せよ』
即座に応答が返る。
「了解です」
イージス隊のスサノヲが、足を止める。
装甲側面のハッチが展開し、内部からFの符号が振られたコンテナが引き出された。
三機が分担し、無駄のない動きで展開していく。
折り畳まれていた構造体が広がり、柔軟性のある繊維状の素材が露出する。
小田桐が続けた。
『不定形拾得物回収・運搬用ネットだ。
耐衝撃、荷重分散、形状追従を想定している』
一拍置いて、
『インターフェイスは、アメノウズメ後部接続口に合わせて計画させている。
ヴァンガード隊、これで対応できるか』
佐伯は即答せず、藤堂に短く合図を送る。
サイクロプスが一歩前に出て、展開された装備を視認、その形状、柔軟性が問題ないことを確認し、接続部も問題ないことを確認する。
問題なし、対応可能。
サイクロプスは、アメノウズメに向けてハンドサインを送った。
それを確認してから、佐伯は通信を開く。
「小田桐基地司令。
先ほどは、申し訳ございませんでした」
声は、明確に引き締まっている。
「一介の兵卒の立場で、出過ぎた口を開きました。
ヴァンガード隊、アメノウズメパイロット、佐伯です。
先ほどの発言は撤回いたします。
責任は、すべて私、佐伯個人の一存にあります」
即座に、返答があった。
『ヴァンガード隊、佐伯。何を言う』
小田桐の声には、叱責はなかった。
『慎重な判断だ。
むしろ指揮する立場として、現場の人間の意見、確認は非常にありがたい』
間を置かず、続く。
『この装備を使用しての卵の持ち帰り――
ヴァンガード隊のアメノウズメのパイロット、是非ともお前にお願いしたい。頼めるか』
佐伯は、一瞬も間を置かなかった。
「小田桐基地司令。
ご配慮に感謝申し上げます」
そして、はっきりと告げる。
「ヴァンガード隊、アメノウズメパイロット、佐伯。
本任務、喜んで全責任、いや、命を懸けて拝命致します」
通信が切れる。
血管網の奥で、拍動は変わらず続いている。
無数の卵も、赤紫の光を瞬かせたままだ。
中央の黄金色の卵だけが――
変わらぬ間隔で、静かに脈打っていた。
回収作業は、始まろうとしていた。




