episode16:いつもの夕食
家に帰り着いた頃には、空の端が薄く暮れはじめていた。
旧王立魔法植物園から王都を抜け、郊外の家まで戻るだけでもそれなりに時間がかかる。朝から古い術式と向き合い続けていたこともあって、玄関の扉を閉めた途端、フィオナはようやく肩から力が抜けるのを感じた。
「疲れた?」
「少し。でも、それよりお腹が空きました」
「僕も」
「師匠は途中で焼き菓子食べてたじゃないですか」
「あれはおやつだから」
「食事には数えません」
「厳しいなあ」
上着を脱ぎながら交わす言葉はいつも通りで、それがかえって落ち着かなかった。
研究院の試験について、ローレンスは帰りの馬車でも何も聞かなかった。どうして黙っていたのか、いつから受けるつもりだったのか、それどころか試験そのものについてさえ話題にしなかったのだから、フィオナから蒸し返す理由もない。ないはずなのに、言葉にされないものが二人の間に薄く残っているようで、いつもより静かな家の中ではそれが妙にはっきり感じられた。
「夕食、何にします?」
「フィオナが作ってくれるものなら何でも好きだよ」
「そういう答えが一番困るんです」
「じゃあ肉」
「雑ですね」
それでも台所に立てば、考えるより先に手が動く。
朝のうちに出しておいた鶏肉に塩と胡椒を振り、食べやすい大きさに切って薄く小麦粉をまとわせる。鍋に落としたバターが熱でほどけ、細かな泡を立てはじめると、そこへ鶏肉を並べた。じゅ、と弾けた音とともに香ばしい匂いが立ちのぼり、白かった肉の表面がゆっくりときつね色へ変わっていく。
「師匠、パン切ってください」
「はーい」
「厚くしすぎないでくださいね」
「信用ないなあ」
「前科がありますから」
背後でパン切り包丁がまな板を擦る音を聞きながら、焼き色のついた鶏肉をいったん皿へ移す。同じ鍋へ薄切りにした玉ねぎを入れると、残ったバターと肉の脂を吸ってしんなりと透き通り、そこへきのこを加えれば、森を思わせる濃い香りが立った。
木べらで鍋底をさらいながら炒め、少量の白葡萄酒を注ぐ。ぱっと上がった湯気が視界を白く曇らせ、その向こうからローレンスの声がした。
「いい匂い」
「まだ食べられませんよ」
「何も言ってないよ」
「顔が言ってます」
「フィオナ、僕の顔まで読めるようになったの?」
「十六年も一緒にいれば嫌でも分かります」
口にしてから、ほんのわずかに手が止まった。
「フィオナ?」
「何でもありません」
白葡萄酒の水分が飛んだところへ鶏肉を戻し、牛乳と少しの生クリームを注いで月桂樹の葉を一枚浮かべる。火を弱めれば、白いソースの中で鶏肉ときのこがゆっくりと煮え、鍋の縁に小さな泡が生まれては消えていった。
煮込んでいる間に、裏庭で採れた若い葉野菜とラディッシュ、薄く切ったきゅうりを皿へ盛る。酢と油、塩、胡椒に少しの蜂蜜を混ぜていると、隣からパンの入った籠が差し出された。
「できたよ」
「ありがとうございます」
見ると、珍しく厚さまできれいに揃っている。
「ちゃんと切れるじゃないですか」
「僕を何だと思ってるの?」
「放っておくと焼き菓子を夕食にする大魔法使い」
「間違ってないね」
ローレンスが笑い、フィオナもつられて笑った。
こうして並んで夕食を作るのも、いつものことだった。けれど今日は、鍋の中でクリームがふつふつと煮える音まで妙に耳につく。いつもならローレンスが今日見た魔法について好き勝手に話しはじめ、フィオナが半分呆れながら相槌を打つ頃なのに、彼は何も言わなかった。
味を見て塩を足し、仕上げに刻んだパセリを散らす。深い皿へ盛れば、白いソースの上で緑が鮮やかに映え、バターときのこの濃厚な香りが湯気と一緒に立ちのぼった。
二人で料理を居間へ運び、向かい合って座る。
ローレンスはさっそく焼いたパンをちぎり、クリームをたっぷりつけて口へ運んだ。
「おいしい」
「まだ一口目じゃないですか」
「一口目で分かるよ」
「ちゃんと鶏肉も食べてください」
「食べるって」
フィオナも鶏肉へナイフを入れる。表面を先に焼いた肉は柔らかく、白い身から滲んだ肉汁がクリームへ溶けていく。口へ運べば、玉ねぎの甘みときのこの旨味を含んだソースのあとから胡椒の香りが追いかけ、添えたサラダの酸味が濃厚な味をさっぱりと洗い流してくれた。
いつもと同じ味がすることに、少しだけ安心した。
百年以上眠っていた魔法を目覚めさせた花を見て、知らなかった世界に胸を躍らせて、隠していた試験のことまで知られてしまった。それでも家へ帰れば夕食を作り、向かいにはローレンスがいて、自分の作った料理をおいしいと言って食べている。
こんな夜を、これまで何度過ごしただろう。
「今日の温室、面白かった?」
不意に聞かれ、フィオナは顔を上げた。
「……はい。あんな魔法が残ってるなんて知りませんでしたし、もっと見てみたいとは思いました」
「そっか」
ローレンスはそれだけ言って、クリームの残った皿をパンで拭った。
また静かになる。
フィオナはサラダを口へ運びながら、ちらりと向かいを見る。怒っているようには見えない。それどころか、いつもと何ひとつ変わらない顔をしているのに、その変わらなさが今日はひどく気になった。
「……怒ってます?」
「僕が?」
「試験のこと、言ってなかったから」
「ああ」
ようやくその話をした、というようにローレンスは瞬きをして、それから少し笑った。
「怒ってないよ。フィオナが自分で決めたことだし、僕の許可がいることでもないでしょ」
「そうですけど」
「受けたいなら受ければいいと思う。研究院なら面白い魔法もいっぱい見られるだろうし、ヴィクトルはうるさいけど優秀だしね」
「本人の前で言ったら怒られますよ」
「褒めてるのに?」
「後半だけなら」
ようやくいつもの調子で笑えた気がした。
ローレンスは本当に怒っていないのだろう。試験を受けることも、研究院で働くかもしれないことも、フィオナが自分で選んだのならそれでいいと思ってくれている。そのことに胸を撫で下ろしたのに、続いた言葉はあまりにも何気なく、フィオナの手を止めた。
「まあ、ここから通うのは少し大変そうだけどね」
ローレンスは残っていたパンをちぎりながら、まるで明日の天気の話でもするように続ける。
「王都まで毎日となると時間もかかるし、朝が早い日は僕が送ろうか。帰りも遅くなるなら迎えに行けるよ」
「……師匠が?」
「うん」
「過保護すぎません?」
「そう?」
本気で分かっていない顔をしている。
フィオナはその顔を見つめながら、ようやく気づいた。
ローレンスの中には、自分がこの家を出ていく未来がないのだ。
研究院で働くことになっても、朝になればここから出かけ、夜になれば帰ってくる。今日と同じように台所に立ち、向かい合って夕食を食べて、明日になればまた同じ家で目を覚ます。そんな日々が形を変えながら、この先もずっと続いていくのだと、疑ってすらいない。
少し前までの自分も、きっとそうだった。
フィオナは皿の上へ視線を落とした。白いクリームはもう湯気を失い、冷えはじめた表面に薄い膜を作っている。
ここにいれば、きっといつまでも好きなままでいる。ローレンスが何気なくくれる優しさをひとつずつ拾って、そのたびに期待して、違うのだと自分に言い聞かせる。それを終わらせるために試験を受けると決めたのだから、ここだけを曖昧にしておくことはできない。
「師匠」
「うん?」
顔を上げれば、十六年見慣れた人が、十六年見慣れた場所にいる。
それを自分から変えようとしているのだと思うと、声にするだけのことが急にひどく難しくなった。それでもフィオナは膝の上で指を握り、できるだけ何でもないことのように口を開く。
「私、研究院で働くことになったら」
ローレンスは静かに続きを待っている。
「この家を出るつもりです」
今日はここまで…
今週末に、まとめてアップ予定です!




