8 初任務
翌日、小野は窓から差し込む日の光で目を覚ました。
いつの間にかベッドの上で眠ってしまっていたようだ。魂だけになっても、睡眠は必要なようだ。
時計を見ると、午前六時半だった。少々早いが起きることにした。
いつもの習慣でトイレに向かったが、トイレがないことに気づき、一人苦笑した。とりあえず洗面台で顔を洗い、テレビをつける。いつも観ている朝の情報番組が流れていた。
とくに空腹はなかったので、しばらくのんびりテレビを観た。昨晩思いっきり泣いたのが良かったのか、スッキリした気分だ。
少し早いとは思ったが、八時十五分に宿舎の部屋を出た。エントランスはまだ閑散としていた。
小野は、エントランスのドアの前に立った。ドキドキしながら「第百二十八部門に行きたいです」と心で念じながらドアを開けた。
ドアの先は、第百二十八部門の執務室だった。良かった、無事に執務室にたどり着けたようだ。まだ久場や阿佐美は出勤していない。
小野は、ドアから向かって右側にある執務机の椅子に座ったが、やることがなかったので、とりあえず自席を立って左側にある給湯スペースに向かい、置いてあった電気ポットに水を入れて沸かした。
八時五十分頃、久場と阿佐美が執務室に来た。
「おはよう、早いね」
「昨日は眠れたかしら?」
「久場さん、阿佐美さん、昨日はありがとうございました。昨晩は思いっきり泣いちゃいましたが、おかげでスッキリしました」
久場と阿佐美がそれぞれ優しく頷いた。
「よし、じゃあ小野君のノートパソコンやタブレット端末の設定が終わったら、打ち合わせをしようか」
久場が二人にそう言った。
† † †
小野は、阿佐美に教えてもらいながら、ノートパソコンやタブレット端末の設定を終えると、久場に声をかけて、執務室中央の応接セットに向かった。
久場と阿佐美が向かい合って座り、阿佐美の右隣に小野が座った。
小野は、久場と阿佐美がそれぞれタブレット端末を持っているのに気づき、慌てて自席にタブレット端末を取りに戻ると、ソファに座り直した。
「すみません、お待たせしました」
「ははは、そんなに慌てなくていいよ。それじゃ打ち合わせを始めようか」
久場がタブレット端末に表示した資料を見ながら話し始めた。
「さてと、昨日改心した強盗殺人犯、貝原達夫というんだけど、彼は今、並行世界でもう一つの人生を歩んでいる。並行世界の環境は、最初の人生とほぼ同じ。そして、本人に最初の人生の記憶はない状態だ。多少の既視感はあるかもしれないけどね」
久場がタブレット端末の画面を指先でスクロールしながら話を続けた。
「これから、我々で彼の人生をサポートしていくことになるんだけど、忘れてはいけない大前提があるんだ。それはね、我々は並行世界の任意の時点にアクセスできるんだけど、並行世界の過去を変えられないし、未来を事前に知ることもできないということなんだ」
きょとんとする小野を見て、久場が苦笑しながら言った。
「まあ、理屈は別にして、我々が並行世界のある時点にアクセスすれば、その並行世界のアクセス前の過去は確定してしまうんだ。つまり、並行世界のどの時点にアクセスして介入するのかがとても重要になる。そこで役に立つのが、最初の人生の記録なんだ」
阿佐美が自身のタブレット端末の画面を小野に見せた。そこには、詳細な年表のようなものが並んでいた。
阿佐美が小野に説明する。
「これが、閻魔帳データベースに保存されている、貝原さんの最初の人生の記録よ」
久場が続けて説明する。
「この最初の人生の記録を参考に、阿佐美さんが『人生の岐路』をいくつか選定する。それを踏まえて、並行世界においても人生の岐路になると想定される場所と時間に小野君が赴いて、貝原さんの人生がより良いものになるよう助けるんだ」
小野はとりあえず頷いた。難しくて十分に理解できたとは思えなかったが、どうやら介入のタイミングが重要なようだ。
「ただ、ここで注意しなければならないのが、『復原力』なんだ。同じような環境の並行世界では、同じような結果に進もうとする強い力が働くんだ。まあ、一種の物理法則みたいなものらしい……そのため、並行世界に介入すると、様々な形で修正されそうになる。小野君には、その復原力に注意しながら対応してもらうことになる」
ただでさえ難しそうなのに、謎の妨害が入るということのようだ。小野は頭を抱えた。
「難しそうですね……もし失敗したらどうなるのですか」
「失敗した過去は変えられないから、最終的な結末を確認して、ダメならもう一度別の並行世界で人生をやり直してもらうことになる。最終的にはそれぞれの並行世界の経験が一人の魂に統合されるから、多少の精神的負担を掛けてしまうことになるけどね」
やり直しはできるようだが、それなりにハードルが高いようだ。小野はふと思った疑問を聞くことにした。
「簡単に幸せになれるように、まったく違う環境の並行世界で二度目の人生を歩んでもらうことはできないのでしょうか」
久場が苦笑した。
「実は、私もそう思ったことがある。でも、まったく違う環境の並行世界だと、サポート対象者以外の人への影響が大き過ぎるんだ。並行世界で生活している他の人の一生も考慮しなくちゃいけないからね。他人への影響を許容範囲内に収める必要があるんだよ」
なかなか簡単には行かないようだ。
悩む小野に、久場が申し訳なさそうに言った。
「本当は私も同行したいところなんだけど、人数が増えると並行世界が不安定になってしまうんだ。だから、よほどの特殊なケースじゃなければ、単独で赴くことになっている。まあ、失敗したら一応やり直しもきく。習うより慣れろの精神でよろしく」
「わ、分かりました。頑張ってみます」
不安いっぱいだったが、とりあえず小野はそう答えた。




