31 京都へ
「ワタルさん、やはり着替えてきて良かったですね」
「そうですね。思ったより和服の方が多いんですね」
小野とワタルが来たのは、明治二十六年、西暦一八九三年八月十三日、日曜日の夕方。京都の祇園、八坂神社前。小野とワタルは和服姿で、二人ともリュックを背負っていた。
道行く人を見ると、洋服姿もいるが、多くは和服だ。小野とワタルの和服は、新品で生地も良いらしく、若干目立っているようだが、何とか周囲に溶け込めそうだ。
二人は、祇園から見て八坂神社の裏側・東側にある円山公園を抜けて、坂を上がったところにある旅館の前に向かった。
阿佐美に調べてもらったところ、フランツ・フェルディナント大公は、今晩ここに滞在して、ひとり観想にふけるそうだ。「精霊」として大公に接触する絶好のチャンスだ。
しばらくすると、坂の下からぞろぞろと集団が上がってきた。先導する警官が群衆を追い払っている。
日本の官吏と思われる数名に先導されながら、立派なカイゼル髭の外国人の一団が坂を上がってきた。おそらくあの中の一人が大公のはずだ。
小野とワタルは、旅館の陰に身を隠すと、翻訳機を作動させ、消えるくんのスイッチを押した。そして、立派なカイゼル髭の外国人の一団に続いて、旅館に入っていった。
「殿下、こちらの部屋でございます」
二階の客室の入口で、側近の者が大公に説明した。何故かこの旅館の部屋の入口にはドアがなく、カーテンで仕切られている。
「ありがとう。それでは私はしばらく夕暮れの街を眺めるとするよ。皆もそれぞれ休憩してくれ」
「承知しました」
側近達にそう声をかけると、大公はカーテンを開け、二階西側に面した部屋に入った。
部屋の窓からは、円山公園をはじめ京都の市街地が一望できる。ちょうど日が落ちたところで、空はオレンジ色から徐々に暗くなりつつあった。
大公は、窓辺に胡坐をかいて座ると、静かに外を眺めた。
入口のカーテンは閉められているとはいえ、いつ側近が来てもおかしくない。早めに接触しよう。
小野は、姿を消したまま、大公の後ろから小声で話しかけることにした。
「大公殿下」
大公が座ったまま後ろを振り返った。小野が小声で話を続ける。
「大公殿下。お一人のところすみません」
「何者だ?」
さすがは大公。まったく動じず、声が聞こえる方に向かって尋ねてきた。
小野は、引き続き大公に小声で話しかけた。
「我々は、この地の精霊です」
「ふむ。この時代、まさか精霊の声を聞くとはな。あるいは旅の疲れからの空耳か……」
「空耳ではありませんよ」
「本当に精霊なら、姿を見せてみよ」
またこのパターンか……小野は、消えるくんのボタンを押して、大公の前に姿を現した。
大公は、和服にリュックを背負った小野の姿を見ると、笑顔で言った。
「ほう、単なる日本の子どもに見えるがな」
「あ、いえ、精霊です」
「まあ、こんなに流暢なドイツ語を話せる少年がそう簡単にいるとも思えんしな。先程『我々』と言ったが、他にもいるのではないか?」
しまった。うっかり言ってしまった。小野がどうしようかと考えていると、小野の右隣にワタルが姿を現した。ワタルが大公に頭を下げる。
「流石は大公殿下。聡明であらせられます」
「ふむ。二人とも少年の姿か。もしかすると、この前の宴席で話に聞いた『座敷童』というものか?」
「あ、そうです。そういうやつです」
とりあえず小野が話を合わせる。ワタルもコクコクと頷いた。
大公は、小野やワタルの方を向いて座り直した。
「それで、精霊か座敷童か知らんが、私に何の用だ?」
良かった。話を聞いてくれるみたいだ。小野が説明を始めた。
「はい、大公殿下の、そして世界の危機について、お伝えしたいことがありまして」
「危機だと?」
「ええ。二十一年後、大公殿下が五十歳の時、殿下はサラエボで奥様とともに命を狙われます」
「ずいぶん先だな。それに私には妻もいない」
「もうしばらくすれば、最愛の女性に出逢われます」
大公は、世界一周旅行から帰ってしばらくすると、ゾフィー・ホテクという女官と恋に落ちる。
身分違いの許されない恋だったが、大公とゾフィーは周囲の猛反対を乗り越えて結婚するのだ。
「殿下はサラエボで……」
「失礼、殿下、今よろしいでしょうか?」
小野が説明を続けようとしたとき、後ろのカーテン越しに声がした。大公の側近だ。
「すみません、また来ます」
そう言うと、小野とワタルはそれぞれ消えるくんのボタンを押して、部屋の隅に潜んだ。
その後、入れ替わり立ち替わり側近や日本の役人が部屋に入ってきて、残念ながら大公と話す機会はなかった。
阿佐美によると、この旅館で大公は数時間にわたり京都の街並みを眺めるはずだったのだが……
復原力が働いたのか、それとも並行世界の不安定化の影響か。小野とワタルは、次の機会を待つことにした。
† † †
小野とワタルが大公と接触してから三日後、八月十六日。大公の一行は箱根にいた。
この三日間、小野とワタルは大公と再接触する機会を伺っていたが、常に邪魔が入り、残念ながら大公と話すことはできなかった。
滋賀・琵琶湖での蒸気船の旅、岐阜・長良川での鵜飼い見物、名古屋城を眺めた後の汽車の旅……小野とワタルは、姿を消したままこっそりではあるが、それなりに旅を楽しんだ。
お互いに姿が見えないので、離ればなれにならないよう、常に手を繋いでの移動だったのが何だか気恥ずかしかったが……
道中、大公の言動を見聞きしていると、とにかく過剰な警備を嫌がっている様子だった。
大公は、お忍びで、あるいは少人数で出かけたいという意向を何度も口にしていたが、叶えられなかった。
この日、八月十六日は、あいにくの悪天候で、大公一行は箱根の宿泊先近くの商店街で買い物をしたり、着物に着替えて写真撮影をしたりしていた。
その後、大公は、午後いっぱい時間を使って左腕に入れ墨を彫った。竜の彫り物だ。
大公は満足げだが、ちょっと疲れたようで、ホテルの部屋で夕食まで一人休むことになった。
ようやく、二度目のチャンスが巡ってきた。




