バグを7件登録 「明日の俺頑張れ」
放課後の大学の喧騒が、どこか遠い波音のように聞こえる。学食の端、参考書が散らかったテーブルの前で、素直はスリープしかけたノートパソコンから顔を上げた。
工具箱のように大きなポーチを抱えた肇が、ようやく化粧室から戻ってくる。飲むだろうと思って用意しておいた紅茶は、すっかり冷めていた。
「え!?何で号泣してんの!?」
身綺麗になった肇が、驚いたように目を見開く。
遠慮がちに席に着くその姿を見つめたまま、素直は両頬を乱暴に擦り、答えた。
「これ、ドライアイ。どうせ止まんないから流しっぱなしにしてる」
「えっ、あ……そうなんだ」
腑に落ちない様子を視線に滲ませ、肇は黙り込んだ。
「……なあ、またこれ出てきたんだけど。無視していいのか?」
終わる気配のない課題を前に、すっかり集中力を切らしている。
力なく折れ曲がった人差し指。その先が曖昧に示した画面の隅には、『waffleを使用します』という無機質なポップアップが浮かんでいた。素直は虚ろな視線をその一点に向けたまま、隣に座る肇の方へ、ゆっくりとノートパソコンを突き出した。
「あぁ? そんなの適当に許可しとけばいいよ。ただ保存されるだけだって……はっはーん、素直は僕がいなかったら一生、アプリのインストールすらできないんじゃない?」
「んな訳あるか。いや、名前がさ。なんでワッフルなわけ? 誰が食うんだよ、パソコンが腹減らしてんの?………もういいや」
デジタル音痴をごまかすように、素直は至って真剣な顔でそう告げた。これ以上触れば壊しかねないと悟り、ノートパソコンをぱたりと閉じる。そのまま持ち主へと差し返した。
「明日の俺頑張れ」
肇曰く、ワッフルは情報が一時的に保管されるファイルらしい。どっかの誰かを思い出さないうちに、分からないものは、分かる奴に任せる。
カタカタと軽快にキーボードを叩く肇を横目に、颯太なら最初から全部やってくれるんだよな、とぼんやり思う。それで、一番おいしいところだけを全部くれる。言わんこっちゃない。思い出しちゃった。
「そりゃ、格好良いって思っちゃうよな」
馬鹿じゃん、自分のことを言われたと思ったのか、肇は鼻で小さく笑った。慣れた手つきで鞄からスライムクリーナーを取り出す。
学食の片隅で、キーボードにぺたぺたと押し当てるたび、粘着質な音が小さく響き始めた。
「ふふっ」
「…………何?」
吹き出すように笑い出した肇を、目を細めて胡乱げに見やる。
「素直といると楽しい」
意味が分からないまま瞬きをしていると、肇がしっとりと微笑んだ。
悪い予感しかしない。思わず口角が引き攣る。
「お前なっーー」
「……で、結局さ。何がいいわけ、颯太の」
あっちこっちに飛ぶ話題。少しは慣れたが、せめて足並みは揃えてほしい。
すでに息切れ気味の素直は、手のひらを下に向けると力なく何度か振った。
「何その外国人かぶれ。当てつけ?ムッカー」
「…………ん?あっ」
肇の視線を追えば、行き着く先は自身の手だった。
奇声を飲み込む代わりに、全身が異様なほど熱を帯びる。裏腹に、肇の視線は冷ややかだった。
「俺、急に責められてる?」
目の前で憎たらしい顔を何度も繰り返す肇は、素直が颯太と爛れた関係にあることを知る、唯一の人間だ。
周りには、颯太の日本人離れした外見をいいことに、過剰なスキンシップも「外国人ノリ」で押し通している。だが、そんな誤魔化しは肇には通用しなかった。というか、秒でばれた。
家族にも、地元の友達にも言っていない。どうして言えるのかと考える方が難しい。
その点、肇は理解がある。当事者なら大っぴらにしたいらしいが、それを無理に押しつけてくることもない。
「ぬうあぁぁ」
「今、なんて言ったの?」
放課後の騒がしい学食。肇が素直の口元まで耳を近づける。吐息が触れてしまいそうで、思わず息を止めた。
「どうしたらいいんだぁ」
少し距離を取るように項垂れ、両手で顔を覆う。少し熱いおしぼりがあったら完璧なのに、なんて思いながら。
「感じ悪っ、何?僕に言えないわけ?」
肇の語尾が跳ね上がる前に、素直は首を振った。
「違うんだよ。俺、あんまり相手の友達とかに、自分のことベラベラ喋られるの嫌だから。それにこれ俺の問題だし……………アイス奢って」
「しょーもねー」
どうせ終わる関係だ。三年後には田舎に帰り、土に触れる生活が待っている。
はっきり言われたわけではないが、きっと両親は、嫁取りの意味も込めて都会への進学を許してくれたのだと思う。
一方で颯太は、モデルを続けるのだろう。長くは続かなくとも、きっと華やかな世界に身を置き続ける人間だ。
行き着く先は、あまりにも違う。この先、交わる余地など、どこにもない。
「素直はさ、ノンケでしょ?辛くない?」
「俺、慎ましいからそういうの仲良い人以外に言いたくない」
「仲はめちゃんこ良いだろうがっ」
田舎からちょこちょこ出てきて、もう三ヶ月以上が経つ。改札もつっかえずに通れるようになったし、街で配っているティッシュを受け取らずに済むくらいの余裕もできた。
それでも、いまだに慣れないことがある。その象徴が、肇だ。
肇は、全力でパレードに飛び込んでいくタイプの人間だ。去年は原宿を練り歩いたのだと、いつだったか本人が言っていた。隠す気もなく、そういう話ができてしまう。
肇を見ていると、どうしても田舎の家族を思い出してしまう。祝い事で赤飯を炊くことに懐疑的な母ですら、肇に会わせたら、きっと腰を抜かすだろう。
「颯太のこと、本当はどう思ってんの?」
滅入るような沈黙が流れる。聞かなかったふりをした素直を見て、肇は露骨に苛立ちを露わにした。指紋にまみれたスライムクリーナーをテーブルに放り出し、椅子の背に背中を打ち付ける。
その視線は、隣でせっせと消しカスを集める素直から離れない。遠くの波音のような喧騒を割って、肇の湿り気を帯びた声が低く響いた。
「言えないの?何で?」
「何でって、言われても…逆に言える奴の方が少ないじゃん。俺、肇の好きなとことか言えないもん。でも嫌いな奴はすぐ言える。理詰めで攻めてくる奴」
「ストレートに僕って言えよ」
こうなると、もう面倒くさい。何を言っても機嫌を損ねるだけだ。素直は、どこか輪郭のぼやけて見える肇を、視界の端に捉えた。
肇がコツコツとテーブルを指で叩いている。その音に伝染するように、素直の片脚も小刻みに上下した。
嫌だな。ちゃんと答えたところで、幻滅するくせに。
「じゃあ、顔でいいや」
ぽつりと言葉を漏らすと、素直は言い訳をするように、先の少し潰れた蛍光ペンをノートに押し当てた。意味もなく、その潰れた先を整える。何度も紙の上をなぞり続けた。
「全然納得できない。お前、あいつと一緒にいる時いつも死にそうな顔してるじゃん、口ぱくぱくしちゃってさぁー」
「ギョギョ」
冗談めかして言う素直に対し、痺れを切らした肇が詰め寄ろうと動く。だが、それがなされることはなかった。口を開いたその瞬間、背後に立った気配に素直の肩がびくりと揺れた。何かが押し寄せてくるような重さに、素直の背筋がかすかに強張る。
「素直」
背後から落ちてきた低い声に、素直の肩が飛び上がった。黒い影が背後に落ちる。振り返らずとも、そこに立つ人物が誰なのか分かった。
「……そっ」
周囲から向けられる視線に思わず俯く。
対照的に、それには目を留めず、颯太は肇を視界から外したまま、素直の肩へと指を滑らせる。逃げ場を塞ぐように置かれた手。そして無機質な眼差しが、ようやく肇を射抜いた。
「行く、ぞ。…時間。…ない。テンネ」
有無を言わせぬ力で、颯太は素直の肩を抱き寄せた。途端、肇との間に腕一本分の壁ができる。
「……じゃあ、俺、行くな」
弾かれたように立ち上がる。背後で、言葉を飲み込むような小さな音がした、気がした。素直はそれでも振り返れなかった。
強引に手を引かれながら、前のめりに踏み出すと、足取りは次第に速まっていく。颯太の歩幅に合わせていると、すぐに学食の喧騒が遠ざかった。背後にあるはずの肇の気配も、いつの間にか消えていた。




