バグを3件登録 「イカロス山元」
「ん”〜沁みる」
「予鈴鳴るから、あと三分で食べて」
さりげなくその場を収めようとした言葉を遮り、肇がここぞとばかりに腕を伸ばす。だが、その指先が素直に触れるより早く、颯太の大きな手が強引に割り込んだ。
手はそのまま素直の腕を掴み、力任せに自身の方へと引き寄せる。
「器用だなぁ」
「お前がいくら容姿を変えようが素直に好かれることはない」
颯太はあぶれた方の手で肇の顔を無造作に押し返した。
「うるさいっお前だってモブ顔の40%も極められてないかもしれないだろ。ってことは、60%はつけいる隙があるってことじゃないかっ、なあ素直?」
「うるっさい。何度も名前を呼ぶな」
また始まった。素直は首にかけたイヤホンをトレーナーの中から手繰り寄せ、シリコンの先端で耳穴を塞いだ。
無機質なシステム音声が脳内に響く。その瞬間、周囲の喧騒は水の底に沈んだように遠のいた。目の前では、スタイルばかり無駄に良い、わずかな差異しかない平凡な顔の男たちが今も言い争っている。
全く、妙な光景だ。いや、そう思っていること自体が既に可笑しいのかもしれない。
素直には、颯太と肇の本来の顔が見えていないのだから。
ついさっき肇が口にした通り、その顔は「モブ」のように薄く、特徴を欠いたものとして映っている。
皮肉だが、この事実に素直は深い安堵を覚えていた。仕方がない。毎度、格好良すぎてドン引きしていたのだから。
事の発端は、素直のスマートフォンに設定した、あまりにも安直なパスワード『yamamoto2580』だった。このパスワードが異常をきたしてから、素直の視界にはっきりとした変化が現れた。周囲の人間の顔が、極端に識別しづらくなったのだ。
この奇妙な症状は全国の「ヤマモト」という姓を持つ人間に確認されている。連日ニュースでも取り上げられているが、原因は不明。世間ではどこかネットミームのように扱われていた。
らしい、というのも、素直は役所から送られてきた冊子で事と次第を知ったからだ。
分厚すぎて放置していた冊子。実家からの「ウィフィだか、電話線だか」の意味不明な電話で、結局、目次から読み込む羽目になった。
先日、ようやく、それこそ角煮かと言いたくなるほど分厚いアンケート冊子を、役所に提出したばかりだ。
流行に左右されない颯太に対し、素直は「ずっと使っているから」という理由だけで、今もその文字列を変えていない。
最初は、ただの面白半分だった。だが、人の顔が平凡に見える生活は、思いのほか快適だった。よく考えれば、利点しかない。会話の冒頭にこびりついていた「あ」という吃りは消えた。顔色を気にして、言葉を選ぶ必要もない。何より、無意味な引け目がなくなった。だから素直は、今日もパスワードを変えない。
颯太と出会ってから大変なことが多かった。慣れないわ、視線は集まるわ、ダシに使われるわ、卑屈になるわ。全部こちら都合の問題だが、挙げ始めたら三日はかかる。
だが、パスワードに異常が出始めてからの数週間は、嘘のように穏やかだ。
フィルタ越しに見る颯太は、驚くほど普通だ。殴りつけるような美しさは消え、三秒で似顔絵が描けそうな顔になった。愛嬌しかない。
最初こそ難色を示していた颯太も「好きなほど顔が平凡になる」と分かった途端、態度を一変させた。
「キョウの、俺。……普通、か?」
「僕はっ?」
「オマエ…どうでもいい。……んだ。話に、入って。くるな」
素直は今にも取っ組み合いになりそうな勢いの颯太と肇を見やった。
パスワードのおかげで、月並みだが、割と愛されているのかもしれないと思える場面が増えた、と思っていたのだが、なぜか今度は、颯太の方が素直を避けるようになった。好かれている自覚がある分、このむず痒さは、まんざらでもない。
「………ふっ……イカロス山元って」
言い得て妙すぎる。いつまでも脇を擽るネーミングセンスに、素直はいよいよ腹を抱えた。
「「今かよっ」」
零れた独り言を拾った颯太と肇から、気まずげに視線を逸らす。そのまま優雅に揺れる木々へと目を向け、ソファーに深く身を沈めた。
今度こそため息を押し殺し、素直は氷が溶けかけて表面がわずかに透明がかったアイスカフェラテを静かに啜った。
今日も憎たらしいくらいモブだ。言わない言葉が氷に溶ける。




