バグを19件登録 「漬物の方が嬉しい」
「出会わなかったら良かったなんて思わないな」
貰えるものは全部もらおう。謙遜しないところ、お世辞を言わないところ、沈黙の使い方のうまさ。
必要なものを何一つ手に入れられず、それなのに要らないもので悩んでいる。ひどく滑稽に思えた。
要らないものは、要らないまま捨ててしまおう。
小さな決意に突き動かされ、素直はその足で、図書室脇に申し訳なさそうに佇む廃れた電話ボックスへ向かった。
そして公衆電話を前に絶句した。実家の電話番号が思い出せない。
あと何かをひとつまみ足せば、途端に晴れそうな思考のまま、素直は電話番号をどうにか手繰り寄せる。
指先で記憶をなぞるようにボタンを押す。だが、びくともしない。
思っていた以上に、力が要ることに素直は戸惑った。
番号を間違えたらどうしたらいい。小銭は先か後か。
人生で初めて触れる受話器は、ずっしりと重く、知らないことばかりだった。
呼び出し音が鳴るたび、心臓が大きく跳ね、嫌な手汗をかいてきた。
「…もしもし?米ありがと。こないだ受け取った」
『素直?……なんねぇ、アンタがお礼なんて気持ち悪ぃ。それになにぃ、その喋り方ぁ、気っ持ち悪う』
受話器の向こうから聞こえてきた、飾り気がない何処となく弾んだ声。
これが母の声か、本当にそうか。
事前に考えていたことがすっぽ抜けたまっさらな思考が、素直を少し幼くさせた。
うっわ、やっべ。
「そうだね、でも言わないといけないと思って……あのさ」
受話器の小さな穴から、かすかな衣擦れや、餌を催促する花丸の鳴き声が漏れてくる。
電話線を握り締めた手から、ようやく力が抜けた。
「あの、あのあの、あのさ」
『んー、なんねぇ』
大きく息を吸い込み、そり返るほど背筋を伸ばした。
やっばい。大学入試のときよりも、今のほうが、何億倍も緊張してる。
何度も脳内で反復していた言葉を、素直は一息で言い切った。
「あのさっ。一緒に送ってくれるの、ブラックサンダーじゃなくて、漬物の方が嬉しいっ」
言った。言ってしまった。
喉の奥に引っかかっていたものが、するりと落ちる。
廊下に面した踊り階段で、染色をしている生徒と視線が合った。
乱雑に干された、暖色の絞り染めの生地がゆらゆらと揺れる。自身の顔色と重なった。
思わずしゃがみ込むと、受話器から吹き出すような笑い声が聞こえた。
『………っなんねぇ。あんた、爺ちゃんの仏壇のやつ、むしゃむしゃ食べよるから、よっぽど好きなんと思っとったわ。勿体ぶって、何をやらかしたのかと思った。あ〜あほくさっ』
「あれはっ、腹減ってて食いもんあったら誰やって食うやろそら、腹減っとるんやから」
『せやけど、アンタ落雁には絶対手つけなかったやろ』
「あんな、砂糖の塊食ったって、なっんもテンション上がらんもん」
途端に破綻した標準語。
照れ臭さを前に、少し咳払いをして言葉を続けた。
「好きだけど。好きなんだけど…………そんなには、要らないです」
『あい、分かりました。アンタ、元気にやっとんの?』
脳裏に、颯太の言葉が反復する。「言ってくれないと分からない」
そりゃそうだよな、当たり前のことなのに、ずっと分かったつもりでいた。
ごめん。ありがとう。
母とこんなふうに言葉を交わせたことなんて今までなかったかもしれない。
「うん。元気。でも、喧嘩した。友達みたいな?俺がそう思ってただけみたいな?結構、仲良かったのに……また駄目なった」
『何まごまご言うてんのよ。じゃあ、仲直りせないかんねぇ』
「いけんかなぁ」
『そりゃっアンタ……珍しいねぇ』
「は?」
『だっていつもならペコペコーって謝って、それで仕舞いやろ』
「なんねぇ、それ」
確かに。反論できない。
ひりつく羞恥を前に、素直は意味なく電話線を指に巻きつけた。
『アンタの「ごめん」は、ほんとおっに安いから。ちゃんと自分で納得できるまで、謝っちゃいけんよ』
「うん」
『アンタ、折角かぁちゃん良い名前つけたったんやから、しっかりせないかん』
「………うん。そういうの要らないです。ありがとう」
受話器の向こうのテレビの音量が少し上がった気がする。
祖母が来たのだろう、話す言葉を見つけられないまま、素直は思った。
「かぁちゃん。大学進学許してくれてありがとう。頭おかしい奴ばっかだけど、楽しいよ。バイトも始めようと思ってます。まだ、皆勤なんよ俺、凄ない?」
問いかけても、受話器の向こうは静かなままだった。
「あれ?」
受話器の向こうで、仏壇の鈴が何度も鳴り続ける。
素直は思わず耳を離した。
『誰ねっ!?アンタッ最初、名乗らなかったんねっ本当に素直なんっ!?』
散々な言われようだ。
受話器の向こうではチンチンチーン、と今も鈴が鳴っている。
「あっれー。素直になれ言うたん、かぁちゃんやん」
『……本当やろね。オレオレ詐欺やったら、アンタんこと末代まで呪ってやるかんね』
「それやったら、ブーメランやぞ」
くだらないやり取りを何度か繰り返し、少し笑って、ゆっくりと肺にある空気をすべて吐き出しながら受話器を置いた。
十円玉が落ちるカラン、という硬い音が静かな夜に響く。受話器から手を離しても、心臓のバクバクした高鳴りは、なかなか収まらなかった。
言葉が欲しかった。一言でいいから、「付き合おう」と言ってほしかった。ちゃんと考えてから、向き合いたかった。
颯太から離れて、ようやく気持ちを客観視できたとき、遠くにその姿を見つけた。
人の波に紛れていても、すぐに分かった。無意識に探していたのだ、と自覚する。
隣には女がいた。美人だ。腰まで流れる黒髪はまっすぐ艶やかで、歩くたびに静かに揺れる。
並んで歩く二人の姿は、ひどくお似合いだった。
こんな光景を眺めていると、今までの出来事がすべて夢だったような気がした。
目玉焼きにかけるのはソースか醤油かで喧嘩を仕掛けようとしたら、そもそも目玉焼きに需要がなくて凪いだこととか、ストレスが溜まると冷凍のブルーベリーをボリボリ食べる癖があることとか、実は自転車に乗れないこととか。
あの密やかな時間は、本当に存在していたのだろうか。そう疑いたくなるほど、颯太は遠い場所にいた。ふっと全身の力が抜ける。本当に、しょうがないな。そう思った。




