バグを20件登録 「違わないでしょ」
時折、遠くで雷鳴が轟くようになり、天気予報は歯切れの悪い予報を繰り返している。室内干しが続いているせいで、着ている服が肌にまとわりつき、ほんのりと生乾きの匂いが鼻をついた。
外では、傘が役目を果たさないほどの横殴りの雨が吹き荒れている。
ガラスを叩く雨音に、憂鬱になる昼休みの学食。素直は一人、大学の近くで買った厚切りのバームクーヘンを食べていた。年輪のような層を一枚ずつ、丁寧に剥がしながら、ぼんやりと口に運ぶ。無心でその作業を繰り返していると、手元に濃い人影が落ちた。
「あなた、颯太と仲がいいのよね」
それは以前、颯太の隣にいた女だった。女は素直の前に立つと、どこか探るような声で口を開いた。
もう行くことはない美術室でのやり取りが、ふとよぎり、胸の奥がわずかに詰まった。
素直の動揺など意に介さず、女は無遠慮に椅子へ腰を下ろすと、そのまま好き勝手に話し始めた。
「ソタったら、折角AWのコレクションルックの仕事、決まったのに、どうも集中できてないのよね」
帰国子女なのだろうか。女の口調は、ときおりイントネーションが不自然だった。
抑揚の薄い日本語を一方的に続けながら、女は素直の耳元に視線を落とし、その表情を曇らせた。
「人の話をちゃんと聞きなさい」
瞬間、強引にそれは引き抜かれた。
突然の行動に驚きながらも、素直は困ったように笑ってみせる。
「ごめん……颯太のことだよね。俺、経済学部の山本素直、一年ね」
女の表情がわずかにひるむ。
「スァナオ、スナ……ごほんっ失礼、スナね。私は映像メディア学部一年の吉川麗華よ。ソタに聞いてる?私も同じ事務所に所属してるの。とゆうか、パパの事務所に颯太が入ってるだけなんだけどね」
なんだか可愛い名前をつけられた。
名は体を表すとは、よく言ったものだと思う。
麗華は、自ら「美しい」という言葉を勝ち取ったかのような、気の強さを纏っていた。
きりりと整った太めの眉に、光を吸い込むような一重の黒い瞳。
鼻筋から顎へと流れる横顔の線は驚くほど滑らかで、M字の唇がその輪郭を引き締めている。
衣服の隙間からのぞく小麦色の肌には、ほのかな光沢がある。
席についた麗華を見やる。映像メディア学部。経済学部とは、同じ文系でも空気が違う。
人の多さも、身なりも、どこか洗練されて見えた。颯太が通う国際芸術学部も、その延長線上にあるのだろう。
校門を出ると、学部ごとに建物が分かれていることに、改めて気づいた。意識して動かなければ、顔を合わせることもない。
今まで大学では、ほとんど颯太と一緒にいた。それを疑問に思ったこともなかった。
「ソタって可愛いね」
癖なのか、脚を組み替えるたびにデニムがわずかに艶めく。
長くしなやかな手足に、下心なんてないのに思わず目が引き寄せられる。
「ええ、そうよ可愛いわ………ごほほんっ失礼、とにかくっ、仕事が増えているのに全然身が入ってないの。周りに迷惑かける人間はプロとして失格だわ」
素直の緩んだ顔が癪に障ったのか、麗華は苛立ったように颯太への不満を並べ立てた。だが、我に返ったのか、気まずげに脚を組み替える。
「ごめん。貴方が颯太を大好きだって話?」
「違うわよっ」
「違わないでしょ」
「モデルか。確かに、ポ…………」
険しい表情で麗華が拳を握りしめた。
「それ言ったら殴るわ。とにかくっ私はソタにもどんどん仕事を取ってきて欲しいのよ」
麗華の圧に気圧されながら、素直は両手を上げる。
「都会の大学って、こんなにホイホイ、モデル湧くものなの?両立大変じゃない?」
「スナ、貴方………見かけによらず口が悪いのね。ごほんっとにかく。ソタはうちの大事な看板なの。ちゃんとしてもらわないと困るのよ」
「へー。あいつ、売れないってぼやいてたけど」
元気になりそうなもの。好きなもの。思い浮かべても、結局残るのは一つだけ。
何も知らなかった。知ろうとすらしていなかったのだと、今さら思い知らされる。
降参を示しても、麗華の目はなおも何かを求めていた。
「あっ思い出したっ苺狩りとか二人で行って来れば?」
「は?」
「アイツと商店街だか歩いてたらさ、いきなりふらふら〜ってどっか行って、追いかけたら、全然知らない人ん家の枇杷もぎり始めたの。しかも、服の裾、袋みたいにしてさ。あとで謝ったりして大変だった」
あの時は心底笑った。家主も庭の枇杷が千疋屋の枇杷に変わって嬉しそうにしていた。颯太と帰り道、食べ比べてみたけど、違いが全く分からなくて、また笑った。
「なんか、スナフキンの祖国って果物への執念半端ないみたいだよ。だから好きなだけ食わせてビタミン取らせとけば元気になるんじゃん?」
心なしか向けられる視線が鋭くなった気がした。素直は周囲を見渡し、ヒントを探す。
「じゃ、じゃあ。前に、ポ、ポロン、カリストゥス食べさせたらやる気出す雰囲気出してたけど」
「……何よそれ」
「俺が分かるわけないじゃん」
どうにか捻り出した助言さえ、麗華の目があっさりと拒絶を示す。
ただでさえ細い目をさらに細め、検索をかけた瞬間、画面が茶色に染まった。
「「無理じゃん」」
ポロンカリストゥスは、まさかのジビエ料理だった。
「これは、君が引っ張って連れて行くしかないね。絶対、ウーバーにないでしょ」
お手上げとばかりに両手を軽く上げる。素直はポケットからくしゃくしゃの絆創膏を取り出し、何も言わずに麗華の前へ差し出した。
それが何かも分からないといった様子で、麗華は眉をひそめる。だが素直は構わず、話を切り上げた。
「もう、本人に元気になってって言ってくれば良いじゃん。疲れた」
素直は大きく伸びをしながら、欠伸混じりに続ける。
「まぁアイツだったら、トナカイっつって豚肉出しても、何も言わなそうだけど」
受け取りかけた手先で、微かに小首を傾げた麗華の手が、ぴたりと止まった。
「痛いでしょ?」
口にした瞬間、しまったと思った。関わりたくない相手にほど、踏み込んでしまう。昔からの悪癖だ。
素直の視線の先で、麗華のヒールのかかとが赤く擦れている。
顔を上げた麗華は、素直を見つめた。揺れた視線はすぐに伏せられ、眉がわずかに寄る。そのまま、への字に唇が引き結ばれた。
差し出された絆創膏を一瞥すると、麗華は手を伸ばし、それを奪い取るように引き寄せる。
椅子を引く音が、鋭く響いた。
「……聞いてた通り、気持ち悪いわね、貴方」
吐き捨てるように言うと、麗華は一度も振り返らず、カツカツと硬いヒールの音を床に響かせながら去っていった。
足取りは、痛みを堪えているせいか、どこか不自然に強張って見える。
素直は一人、残された空間に座り、手元の甘い層をもう一枚剥がす。口に運ぶと、乾いた甘さが喉に張り付いた。
その日の放課後、素直は講義棟の影で、颯太が麗華に呼び止められているのを再び見かけた。距離はあったが、二人の間に流れる空気は、学食の時よりもずっと鋭く刺さるようだった。
麗華は颯太の腕をやや強引に掴み、何かを激しい口調で訴えている。声までは聞こえない。けれど素直の目には、麗華がスマートフォンを掲げ、眉をひそめてまくし立てている様子がくっきりと映る。
素直は壁に背を預け、ずるずるとその場に座り込む。颯太が何を言われているのかは、想像に難くなかった。
やがて、背後のやり取りを断ち切るように立ち上がる。そのまま、スマートフォンを解約しに向かった。




