バグを18件登録 「超ごめん」
颯太からの連絡は、あの日以来、一切届いていない。
あのときの辛そうな顔が、頭から離れない。そのせいで、何をするにも手が止まってしまう。消えたかと思えば、五秒も経たないうちにまた蘇る。
迷い続けて、ようやく謝りに行こうと決意する。
「そんなんできたら苦労はないわーい」
そんなノスタルジックなことは起こらない。代わりに、ひどく暇だった。
痛っ。ジタバタと暴れたら、畳のささくれが肌に刺さる。
一人暮らし一年目の素直の住まいは、大学から電車で五駅先にある、吹けば飛びそうな古いコーポだ。
窓を閉めても外の騒音は筒抜けで、室内には畳の湿った匂いと、飲みかけのエナジードリンクの甘い匂いが淀んでいる。
テレビはなく、部屋の中央には低い机がひとつ。田舎から持ってきたものは、ほとんどないのに、部屋の中はもので溢れかえっている。そのほとんどが、颯太のだ。冷蔵庫もトースターも電気カーペットも、全部お下がりで、どれもこの部屋には大きすぎる。
今思えば、お下がりという名の慈悲だったのかもしれない。
とりあえず謝っとくか、そう腹を括ってスマートフォンに手を伸ばすが、掴んでいたのはブラックサンダーだった。
颯太によく食わせてたな、とぼんやり思う。
乱暴に袋を開けると、甘ったるい香りと共に、思い出が洪水のように溢れ出す。
どれもこれも、颯太と切り離せないものばかりだ。
ダイエットと言って買い込んだ白滝を冷凍庫に入れて全部駄目にしたこと、冷凍ピザを袋のままトースターに入れて火事になりかけたこと、電気カーペットの電源を付けっぱなしで颯太の家に入り浸り翌月の電気代に目を剥いたこと。
部屋のどこを見ても、颯太の気配があった。
不思議と、なんとも思っていなかった部屋がひどく殺風景に思えた。
忘れられるだろうか。
「一生」なんて言葉が、妙に現実味を帯びて迫ってきて、息が詰まりそうになった。
建てつけの悪い窓を開けると、途端に大きな蛾が入り込んできた。
優雅に飛び回る蛾を見つめていると、今度は腹が立ってきた。
いつも圧に押されて頭を下げているだけで、「ごめん」なんて思ったことは一度もない。
文句を言ってやろうと思っても、肝心のスマートフォンは、完全に文鎮と化している。暗い画面には、虚しく「緊急通報」の文字が浮かぶ。電話も、メッセージも、ゲームもできない。唯一使えていたカメラも制限されて、今はそれすら使えない。
パスワードを解こうと足掻いてはみたが、再試行の待ち時間が一時間を超えたあたりで心が折れた。
田辺によれば、突破口は四百七十三京通りあるらしい。普通に無理だ。
スマートフォン代、請求しに行こうかな。会う口実出来ちゃったよ。
そんなある日、ついにスマートフォンの電源が落ちた。充電が尽き、見辛い鏡と化した指紋だらけの画面を、素直はしばらく眺めていた。
もう、いいか。そのまま机に肘をつき、ぼんやりと画面を見下ろす。部屋の中は静まり返り、障子の向こうから、通りを走る車の音がかすかに窓を揺らす。
暇だ。大学に行っても、以前と同じ日常が戻ってくることはなかった。
売店の前にふと視線を向けると、少し離れた場所に以前の姿に戻った肇がいた。艶やかな金髪も、何事もなかったかのように整えられている。
「…はじっ」
声を掛ける前に肇は雑踏の中へと消えていった。
こちらに気づいた瞬間、わずかに視線を逸らした肇と目が合った。気はした。
けれど、その視線はすぐに外れ、素直は唖然としながら、歩くたび揺れる金髪を視線で追った。
無視というより、最初から通り過ぎるつもりで、するりと交わされた気がする。
声を掛ける前に、肇は雑踏の中へと消えていった。
こちらに気づいた瞬間、わずかに視線を逸らした肇と目が合った、気はした。
けれど、その視線はすぐに外れ、素直は唖然としたまま、歩くたび揺れる金髪を目で追った。
無視というより、最初から通り過ぎるつもりで、するりと交わされた気がした。
「都会の距離感わっかんねえよっ」
渡り廊下で思わず声が出てしまい、途端に小っ恥ずかしくなった素直は、誤魔化すようにイヤホンを嵌めて喋り続けた。
「俺絶対悪くないよねっ」
「無視って酷すぎないっ」
そのまま勢い任せに講義室の扉を開けると、生徒の数人と視線が合った。
数日前まで、ぼやけていた顔はくっきりと浮かび上がり、誰も彼も、化粧やマスクで武装をしている。
当たり前に戻っただけだ。それでも、パスワードを失ってからの数日、登校はやっぱり怖かった。
素直は肇を真似るように、背筋を伸ばした。ほんの少しだけ、見える世界が少し高くなる。
近くにいた生徒たちと、講義の課題について言葉を交わと、やがて話は逸れに逸れ、流行り廃りへ、さらに恋愛の話へと流れていった。
「付き合う時、付き合おうって言われないことある?」
素直が何気なく聞くと、課題そっちのけで女生徒たちが身を乗り出した。
「たま〜にあるけど、私は言ってほしい」
「あたしはどっちでもいいかなぁ。なんとなく分かるっていうか」
「え!?そんなもん?言わないなんて、有り得なくない?だって、気持ち伝えねぇと、前提が成り立たねぇじゃんっ」
予想外の返答に、思わず身を乗り出して問い返す。すると、女生徒たちは顔を見合わせ、視線だけで会話を重ねた。
入り込めない独特の空気。途端に肩身が狭くなる。
「俺がおかしいの?都会の機微わっかんないんだけど」
遠慮がちに聞くと、女生徒たちは首をゆるく回しながら、それぞれ菓子袋を開け始めた。
どうやら長丁場になりそうだ。
「最近、思うんだけどさ。片思いが一番楽しいよね」
「「それな」」
一人の女生徒の呟きに同意すると、女生徒たちから「女々しい」と言いたげな視線が刺さった。
「いや。でもそれ、男子もそうなの?」
段々と、本気の人生相談になってきた。
遠目で静観していた生徒までもが駆け寄ってくる。
「別れる時は?」
「「言う一択」」
見事にハモった生徒たちは、一瞬だけ顔を見合わせ、苦々しく笑った。
やがて、誰ともなく視線を交わす。朗らかだった空気は、いつの間にか消えていた。
「それは当然欲しいけど、ちゃんと理由とかも言ってほしいよね」
「ブロックで終わるの、マジでやめてほしい」
「え?でもさ、でもさ。別れようで、さよならグッバイにならないの?」
恐る恐る問いかけると、女子生徒たちは一瞬目を見張ると、次の瞬間には素直へ詰め寄っていた。
「「なるわけないじゃんっ」」
好き勝手言い散らしていた女生徒たちは、まだ鬱憤が晴れないとでも言うように、顔を見合わせて頷き合った。
「……超ごめん」
そうなるように運ぼうとしていた手前、素直はたちまち猫背になる。
「じゃあ、なんで恋するの?」
逸らしかけた視線を上げた。
いつもなら引いていた場面。素直は、言葉を飲み込まなかった。
何かを思い出したのか、女生徒の表情がやわらぐ。誰も、何も言わない。
素直は静かに立ち上がり、周囲の課題を集め、何も言わず講義室を後にした。
「最近、頑張ってるね」
提出した資料に目を落としながら、講師が言う。
他にやることがないだけだとは、とても言えず、素直は照れくさを誤魔化しながら頭を掻いた。
ここ数日、パソコン目当てで大学の図書館に通うようになり、以前では考えられないほどタイピングが速くなっていることに気づく。
思い返せば、米で金を稼がなくてはいけない。それが本分のはずだった。
なんで恋をしたのかな。あれは恋だったのかな。
曇り空を映す窓ガラスに、素直の顔が浮かんでいた。先ほどの女生徒と、同じ表情で。




