バグを17件登録 「お前は良い猿だ」
「あー……好きなもの、忘れないでいてくれるところ。怒らないし、否定もしない。いつも冷静、受け止めてくれます。笑顔も。ちょっとしたこと。で喜ぶ、あの顔。とてもいい。あとは……どこでも寝れるところ。小さな変化、気づいてくれる。さりげなく……声。かける、優しい……そういう。ところ」
颯太の言葉に耳を傾けながら、素直は自販機のボタンを眺めていた。青いランプが一つだけ点滅している。押しもしないのに、なぜかそれが気になった。
「何も言わなくても、俺の気持ちをちゃんと考えてくれるところ」
首元で絡まったイヤホンをほどき、また適当に丸めた。
照れ臭さとも違う、妙な感傷が胸いっぱいに広がる。颯太の好きなところなんて、分からない。颯太が好きなのだから。
今でも「好きなところは?」と聞かれたら、ひとしきり言葉に詰まった末に、きっと「顔」と答えてしまう。
「……………ありがとう」
沈み込む素直をよそに、颯太が一歩、距離を詰めた。
はなからない逃げ場。角へ追い詰められた瞬間、視界がすっと暗く沈む。
背後の自販機が低く震え、その振動が触れ合った肩越しに伝わってきた。
「俺、お前のそういう。トコ、全然ワカラナイ……。何がどう、アリガトウ。なの?ナンデ、パスワード変えない?」
蒸し返された問いを前に、無数にある後悔が浮かんでは消えた。
「……困ってないから。俺は今のままの方が助かる。ありがとうは、俺の知らない俺を教えてくれてありがとうって」
「困って。ない?」
力なく頷くと、颯太の表情がかすかに強張った。
「颯太」
ガコン、と缶が落ちる音がした。それが買われていったものなのか、捨てられたものなのか、区別がつかない。
タバコの匂いが薄れていく。ふと周りを見ると、残っている生徒は数えるほどしかいなかった。
「…………………別れよう」
ついさっきまで心地よかったシンナーめいた香りが、今は喉の奥を刺すだけの、不快な匂いに変わっていた。
「はぁあ?」
言葉にするのは、少し怖かった。颯太の気持ちは本物だと思っていても、「付き合ってねぇよ」と突き放される気もしていたから。
けれど、颯太が腹の底から張り上げた声を聞いて、そんな不安は、あっさりと吹き飛んだ。
「信じられ。ね、え……ナンデッ、そうなって、しまうっ!」
「別れたい」
「なあんでっ、俺たち、仲良しっ。どうしてっ、別れに、なり、ますかッ」
心底わからない、と言いたげな表情を見据え、いよいよ言葉を見失った。
喋れずにいると、当然のように沈黙が訪れる。
「颯太、別れよう」
颯太は前髪をぐしゃりと掻き上げ、落ちてくる髪を乱暴に払った。二度、三度と同じ動作を繰り返したあと、苛立ったように息を吐く。
「お願い」
伝えたいことがいっぱいある。
「服濡らしてごめん」「腹減ってないか」「ゾンビみたいな顔で明日の仕事大丈夫か」
そのどれもが未練じみた言葉で、素直は自身の舌の根元を痛めつけるように噛み締めた。
「まだ、伝わらないっ……? 俺はっ、ちゃんと俺。を、見てほしい……それだけ、だッ!」
「怖いんだ」
被せながら吐いた本音が、ストンと胸の奥に落ちた。
手放せなくなるのが目に見えている自身も、世間の目も、颯太がいない未来も、怖くて仕方がない。
ここまで女々しさを振り切ってもいいものかと、我ながら思う。
「貸せ」
「あ、待っ……」
しゃがみ込んだ颯太が、素直のトレーナーの前ポケットの中へ乱暴に手を突っ込んだ。
それは有無を言わせぬ力だった。止める間もなく奪われたのは、スマートフォン。
颯太は慣れた手つきで画面を叩き、素直が「あ」「え」と言っている間に設定を書き換えていく。
身を乗り出す素直を意にも介さず、颯太は迷いのない手つきで操作を続けた。
数秒。変化はすぐに現れた。一瞬、視界がふっと揺れる。
「得体、わからない……だから。だからっ。怖い、でしょ。な?……じゃあ、ちゃんと、お、れ。俺を見てっ」
次の瞬間、颯太の顔の輪郭が鮮明になる。ぼやけていた線が形を取り戻し、鋭い眉と整った鼻筋が夜の光に縁取られた。
素直はゆっくりと瞬きをする。そこにあったのは、目を離せなくなるほど、綺麗な青。
鼻先が触れそうな距離。よく見れば、その瞳はわずかに充血し、怒りを孕んでいる。
何度も瞬きを繰り返すが、青は青のまま、素直に迫った。
逃げ場などないと分かっているのに、無意識に背後へ手が伸び、案の定、壁にぶつかった。
すかさず大きな手で、後頭部を掴まれ、視線がもつれる。
「……俺、かっこいい。だろ?」
軽い口調だった。けれど、笑っているのは口元だけ。
おいそれと言える言葉ではないはずなのに、不思議と傲慢さは感じられない。ただ、ひどく悲しかった。
「大事。に、してよっ」
スマートフォンを突き返す颯太の手は、雨の中捨てられた子犬のように震えていた。
それを曖昧に受け取ると、胸の奥が、はち切れんばかりに締めつけられる。呼吸が詰まり、身体の奥で何かがわずかにずれた。
微かに口を動かす
その沈黙に、颯太が大きな舌打ちをこぼした。
「……頭。冷やして、くる」
颯太は一瞬立ち止まり、すぐに踵を返した。闇に溶ける背中が、遠ざかっていく。
見失えないまま、その背中を目に焼き付けた素直は、やがて視線を落とし、ひび割れたアスファルトに転がったスマートフォンを拾い上げた。
画面を開こうと、颯太の誕生日や銀行の暗証番号、思いつく限りを試す。だが、パスワードは解けない。
制限が掛かる前に、せめて何かを残そうと、素直は咄嗟にシャッターを切った。
電源が落ちたように真っ暗な画面に、時間を切り取る音だけが虚しく響く。
確かめられないままの空虚さが手に重くのしかかり、指先から力が抜ける。
真新しい傷のついたスマートフォンが、そのまま滑り落ち、少し遅れて鈍い音を立てた。
取り残された素直は、その場に立ち尽くしたまま動けなかった。
やがて、ぼんやりと顔を上げる。星の見えない空が視界に広がった。
ビルの縁が見えづらくなったせいか、その空は昼間よりも広く感じられた。
解放された。そう思ってしまった。
遠くのざわめきを耳で拾いながら、ゆっくりと立ち上がったとき、ぽたり、と赤い雫が落ちた。
ベンチの木目の上に、小さな染みが広がる。
少し遅れて身体が軋んだ。胸の奥が、妙に軽い。重い空気から抜け出たようだった。
素直はふらつく足取りで、夜間学生や居残っていた生徒たちの密やかな話し声を聞きながら、照明がまだらに灯るキャンパスを歩き出す。
去り際の颯太の表情が、脳裏に焼き付いて離れない。あまりに綺麗で、恐ろしくさえあった。
別の世界に放り出されたような感覚。
大切なものを自ら捨てて、盾を失った。
視線だけで必死に周囲を巡らせると、ようやく、怖いのだと気づいた。
朧げな記憶を頼りに見知った顔を探すが、なかなか見つからない。
「お、小さい方の山本ー! おつー、こんな時間まで何してんの?」
すると、シャッターが閉まりかけた購買の前で、同じ学科の田辺が屈託のない笑顔を浮かべ、こちらへ向かってきた。両手にスパイシーチキンを持ち、かじりながら声をかけてくる。
喋るたびに口元のチキンがこぼれそうになり、思わず両手で受け皿を作った素直は、裏表のない表情で何度も「お疲れ」と繰り返す田辺をまじまじと見つめた。
その気軽さは、疲れ切った身体にはひどく心地がよかった。
「……なんだよ、お前。金なら貸せねぇぞ?」
そんな素直に、田辺は目を瞬かせながら怪訝そうに眉をひそめた。
「お前ってさ」
味わいながら田辺を見ていた素直は、迷いない言葉を続けた。
「猿みたいな顔してんのな」
片目を閉じながら手をかざすと、遠近法のせいで田辺が手のひらの上に、ちんまりと収まった。
ピグミーマーモセットだ。もうそれにしか見えない。
「はぁぁ!? は?お前、急に超絶失礼だなっ!?」
田辺が一瞬固まり、すぐに抗議の声を上げた。
それを聞きながら、素直は自身でも少し驚いていた。
今、思ったことをそのまま口にしていた。そのくせ、拍子抜けするくらい何も起こらない。
胸の奥に永遠と重くのしかかっていた何かが、ふわりとほどけていく。
思わず肩の力を抜きゆるりと息をつくと、田辺の怒った顔は、やっぱりピグミーマーモセットにしか見えなくなっていた。
「お前は良い猿だ」
「マジで意味わかんねえよっ!」
強引にした握手を振り払い、肩を膨らませながら去っていく田辺の背中を見送る。
素直は静かに息を吐く。鼻先についた乾いた血を指で拭い、暗いキャンパスをもう一度歩き出した。




