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『yamamoto2580』  作者: しもたんでんがな


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16/21

バグを15件登録 「……………は?」




天気予報は外れた。日はとっくに落ち、街灯の届かない大学の喫煙所は、深い藍色の闇に沈んでいた。

講義棟の裏手。壁際には灰皿と自販機、その奥に申し訳程度のベンチが二つ並んでいる。自販機が放つ無機質な青白い光が、コンクリートの壁とその隅にうずくまる小さな影をぼんやりと照らした。

素直は、その淀んだ空間の端に腰を下ろしていた。


「うっわ、痣になってる」


蛍光灯の下、手首に残った大きな手形が照らされ、青紫の痕がやけに鮮やかに浮かび上がる。

痛みはない。ただ、ひどく疲れていた。

自販機と壁の隅に体育座りのまま、埃まみれになりながら身体を押し込むと、毎度のごとくイヤホンを耳に差し込んだ。

そっと目を閉じる。肌を撫でる夜気はぬるく、遠くの笑い声が風に乗ってぼんやりと流れてきた。外界のざわめきがゆるやかに遠のき、耳の奥に薄い静寂が広がる。

すると、一息つく間もなく、胸の奥の一点が、じんわりと色づくように騒めいた。


「だから命かけるって言ったじゃん」


それはもう、独り言ではなかった。

素直は無意味だと分かっていながら片方のイヤホンを外し、非難の言葉に耳を傾けた。


「ごめん」


不意に掬い上げたのは、聞き逃してしまいそうなほど小さく、掠れた声だった。


「………………………は?」


どうにか返事はしたものの、その声はどこか浮ついていた。

中途半端に緩んだ口元は閉じきれず、唾液がたまる。

抱えていた膝からようやく頭を上げると、わずかに触れた外気が、呆けた頬を強く抓った。


「ごめんなさい、って……言ってんのっ! だから」

「は?」

「『ヴァ』って……何? 意味、わかんない、だっ。俺……謝ってる、のにっ」

「その態度は、謝ってるって言わねえよ」


今度は、イヤホン越しでもはっきりと届く声だった。顔を上げると颯太が立っていた。仁王立ちで。

背が高すぎて、表情はうまく捉えられない。だが、逆光に沈むその顔は、影越しでも分かるほどの尊大さが漂っていた。なんだ、こいつ。偉そうだ。

颯太の背後では、分厚い雲に滲んだ月が、その輪郭をぼやかしている。


「なんか変のもん食った?」


冗談じゃなく、明日は槍でも降るんじゃないか。そんなことを考えていると、颯太がやはり決まり悪そうに呟いた。


「なんだ。だよ。それ」

「なんだよって、こっちが聞きたいよ。なんで謝れてんの?だからまだ晴れてんのかな?」


言いながら、素直は雲に覆われた空を見上げた。

我ながらひどいことを言った、と思う。

三度見しても、空模様は変わらない。おかしい。今日はどう見ても雨が降る空だ。

思い出しながら笑いかけた瞬間、粘つく視線に捕まった。


「人。の誠意を、テンペンチィーに。するな……っ」


無理な話だ。素直は曖昧な表情を浮かべながら、イヤホンをトレーナーの中に仕舞い込んだ。

「天変地異」颯太が口にすると、どこか摩訶不思議な言葉に聞こえる。やはり、明日は地球がひっくり返るかもしれない。


「喉……は?」

「……買う気失せた」


不躾にコーラを手渡された。見れば、冷えているのに水滴が丁寧に拭われている。

ひえっ、不意打ちに喉奥で奇声が弾けた。いよいよ、本気でおっかない。

そんな怯える素直の思考を読んでいたかのように、颯太が鼻を鳴らした。


「俺。はジェントル」

「嘘こけぇー」


素直は颯太のシャツの裾を掴んで引き寄せ、無理やりしゃがませる。その隙に、持っていた炭酸水とすり替えた。


「ごめん。痛かった。ごめん。ごめん、素直」


濡れたボトルを手首に押し当てながら、コーラを突き返すと、颯太が眉を八の字に下げた。

せいぜい、胸でも痛めてろ。


「なっ何?馬鹿の一つ覚えみたいに」

「ごめん。ね?」


こんな悪魔的な「ね?」など聞いたことがない。

颯太の指先が首筋に触れ、それからゆっくりと手首に触れる。

ここで許したらモラハラ予備軍が出来上がるぞ、と思っても素直は颯太の手を振り払えなかった。


「俺、今から甘いの嫌いだから」


なんとなく今までの意趣返しのつもりで口にすると、「ふーん」返事とも言えない曖昧な声が返ってきた。颯太はしゃがみ込んだまま動かず、じっとこちらを見下ろしている。しゃがんでもなお、見下ろしてくる。おい。


「俺は、好き……だ。な?」


受け取ったコーラを、颯太は何の疑いもなく開けた。キャップのリングを切り、わずかに回した、その瞬間。「プシュッ」という爽やかな予兆は、「ボフッ」という破裂音にかき消される。直後、ボトルの底から弾けた泡が一気に駆け上がった。

琥珀色の液体がキャップの隙間から噴き出し、飛沫が颯太の顔を打つ。

颯太の髪は濡れても黒のまま、艶やかさだけが増していた。

ボトルの中身が激しくかき混ざると、白い泡が止めどなく溢れ、シュワシュワと爽やかな音を立てながら颯太の膝に大きな染みを広げていった。


「……ぐふっ」


ざまあ味噌漬け。

鼻で笑い返すと、颯太が恨めしそうに呟いた。


「………………ポッス、め」


異国の罵倒は、全く心が動かない。

颯太は両手についた雫を軽く払い、濡れた髪を耳にかける。そして、こちらから目を逸らさず、手の甲に垂れたコーラをゆっくり舐め取った。


「馬鹿っ、汚ねぇだろ」


慌てて颯太の腕にしがみつくと、黙ったまま濡れた指先が差し出される。

その視線に射抜かれ、意味を理解した素直は、反射的に頭を引いた。

だが、その前に顎を軽く掬い上げられる。

でたっ外国人ノリッ。素直は途端に全身を硬直させた。

無いはずのスポットライトに照らされ、妙なラブソングが流れ出し、見えない花びらが舞い散る。

国際ロマンス詐欺めっ、脳内で碌でもない思考がギュルギュルと回りだす。

素直は、颯太の凡庸に見える顔に深く感謝した。


「まっ、まま、まっ」


背筋に悪寒が走った。喚く間もなく、骨ばった指先が素直の唇に触れる。

気持ちだけで後退りしながら首を振り、口内で唇を噛んで全力で拒絶する。

どんなに避けても、ねっとりとした視線が絡みつく。

腹の底で何かが弾ける衝動を前に、咄嗟に両手を颯太の顔に当て、思い切り押しやった。

しかし、唇の分け目をこじ開けられると、その指はためらうことなく、歯の隔たりへと入り込んできた。


視線を大きく泳がせると、颯太はその前に覆い被さるように立ち、人目を遮る。

まるで「これで何をしても問題ない」と言わんばかりに、歯列をゆっくりとなぞられた。

そういう問題じゃねえっ。再び両手で押し返すが、びくとも動かない。

頬の肉を内側から揉まれれば、下処理をされる鶏肉にでもなった気分になる。

唾液を通しほんのり伝う甘みに酔いが回った。

人目を憚る羞恥、口内に残る生々しい違和感。そして颯太の気配に圧され、ぐつぐつと頭に血がのぼる。全身が、まるで茹で上がった蛸のように一気に火が入る。

顔を見られまいと俯くと、颯太の荒い息がわざとらしく素直の髪を湿らせた。


「…………ち”ょっ」


颯太の円らな瞳に、危うい光が宿る。

咄嗟に拒絶した、その一瞬を狙っていたかのように、颯太の指が口内へと割り入った。炭酸が抜けきった甘ったるい味が、じわっ、と舌の上で踊る。

味わう間もなく、颯太の指は無遠慮に唾液を絡め取る。やがて柔らかい粘膜を狙うように、口内をなぞり回った。


「オレットイハナ」


強引さとは裏腹に、颯太の耳の付け根は、熟れ、赤く染まっている。

そういうところだ。

見逃してしまいそうなほど些細で、妙に愛嬌のあるその変化。

それが駄目なのだ。抗う気力を、根こそぎ奪っていく。骨抜きもいいところだった。


「…そっ……ぐる、しっ」

「ハルアンシヌア」


どうせ碌なことは言っていないだろう。

頼りなく睨むと、素直は異物を追い出そうと舌で押しやった。

しかし、颯太の指はそれを躱すと、舌の付け根の敏感な箇所を執拗に揉み、粘膜を撫で続ける。


「…大丈夫。俺も、手……洗ってない、だ。から。……素直、だけじゃない」


全然大丈夫じゃない。地味に潔癖な素直の弱点を突いてくる容赦のなさ。

案の定えずくと、颯太はさらに指を奥へと撫で進め、余すことなく味わい尽くそうとする

いくらやめろと視線で訴えても、嬉しそうに微笑むばかりだ。

こんなに機嫌が良さそうなのは、滅多に見ないぞ。全く気味が悪い。


「鼻で…息。しろ」


素直の視線は颯太の円らな瞳に縫い留められていた。

モブのくせに、悪態が霧散する。視界が瞬き、思考がぼやけると、気づいた時には言われた通りに全てを従っていた。

忘れていた鼻での呼吸を、無理やり繰り返した。喉奥がしゃくり上がる。

苦しい。何もかもが間に合わない。

颯太は、素直の乱れた呼吸に合わせるように、大きく唾を飲み込んだ。

ふにふにと舌を弄ぶその指は、まるで形を覚え込ませるように、口内を好き勝手に動き回る。

争うほど、口元から唾液が溢れ、素直のトレーナーに歪な模様をつくった。

抗っていた手を引き寄せられ、指と指が絡む。これは。心臓がじくじくする苦手なやつだ。


「……あぐっ」


素直は僅かな理性を手繰り寄せ、口内を蹂躙するその指に噛み付いた。

「うん」とも「すん」とも言わないまま、颯太はゆっくりと舌を覗かせた。

そのまま、素直の首筋を伝った唾液をひと掬いに舐め取り、満足げに舌なめずりをする。

やばい、まずい。こりゃ駄目なやつだ。目尻にこもった熱が抜けない。

力任せに握りしめていた拳で肩を叩くと、颯太はふっと力の抜けた、やわらかな笑みを返した。


ようやく引き抜かれた指には、粘液が重たく絡みついている。

蛍光灯の白い光を受けて、指先から口元へと伸びる数本の糸が、艶めかしく銀に光った。

颯太はそれを舌先で絡め取るように掬い上げ、そのまま、自身の指を舐め取っていく。まるで、上品な飼い猫が毛繕いをするみたいに、執拗に。

そして微かに残った素直がつけた噛み跡へと、湾曲させた視線を向けた。

颯太は名残を確かめるように、最後にそっと唇を寄せる。


「…………洗えよ、ばか…」





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