バグを14件登録 「その言い方は結構、傷つくけど」
距離が、わずかに開いた。その隙を埋めるように、颯太が素直の手を掴み、自身の頭の上へと置く。
されるがまま、素直は颯太の髪に指を差し入れた。相変わらず、さらさらだ。
限界まで伸ばした腕が引きつり、鈍い重さが滲む。撫でるだけのことなのにうまく掴めず、指先に妙な違和感が残る。
苛つく。いくら颯太に悶えても、いつまでも下手に出ると思ったら大間違いだぞ。
思わず髪を鷲掴みにすれば、特大の爆弾の起爆スイッチを握っているような気分になる。
すぐに力を抜いて、手を離した。いよいよ限界を迎えた腕を、颯太の肩に落とした。
颯太とは、そこそこ身長差がある。手を置くなら、肩がちょうどいい。贅沢を言うと、座布団を二枚ほど噛ませたい。身体のほとんどが脚みたいな奴だが、座高だけでもわりと差があった。
見くびられるのは不快だが、今みたいに加減なしで来られたら、到底敵わない。
おまけに、こっちは絶対に「商品」を傷つけられないわけで。
気に食わなくて、ボコスカ殴ってやろうと思っても、それは叶わない。
要するに、癇に障る。
「……信じられない。頭、おかしい。じゃない?」
「信じられないかぁ」
ささくれた心が、そのまま出た。
信じてくれていたのか、と思う。胸の奥がふわりと温かくなり、すぐに冷えた。
わずかな反省が滲む。颯太を信じたことなど、一度もない。
「信じる」なんて、そもそもそんな大それたことをした今までしてきた覚えがない。
他人は等しく「いる」か「いない」か。それだけだ。
てか、初回寝込み襲われてんだけど。信じられる要素、全然ねぇじゃん。
素直は盛大に悪態をついた。
「男だし、肇はどうしたって肇だから。……おい、マジで大丈夫だぞ?」
何度言っても納得しない颯太に困り、素直は助けを求めて肇へ視線を送った。すると、にこりと、今まで見たことのない微笑みが返ってくる。その意図に気づいた素直は、思わず肇の肩を小突いた。
わざと吹っ飛ぶ仕草を見せる肇に呆れつつ、素直は颯太に弁明しようと口を開く。
だが、肇に視線を送ったことがよほど気に食わなかったのか、颯太はゆっくりと顎を引く。その眉間には、深い皺が刻まれていた。
「わかんね、え……よ。そんなの」
肇と颯太を交互に見やる。肇も颯太も、相変わらず一点を見つめている。
どこもかしこも一方通行だ。
「お前らって本当、めんどくせえなぁ」
思わず、しみじみと言ってしまった。
「でも肇とは仲良くし続けるけどな。……だって無意味だもん。というかさ、お前の許可なんか別にいらないし。勝手に不安がってろ」
言うと、息を呑んだ肇から決意めいた気配を感じた。
一拍おいて、颯太の表情が崩れた。驚きとも困惑ともつかない、曖昧なまま固まっている。
不意に零された言葉は、やけに弱々しかった。
「…………なんで。…なんで、戻さない?」
あまりの脈絡のなさに、一瞬理解が追いつかず、妙な間が空いた。
その隙を突くように、颯太は素直の肩を強引に引き寄せる。
「パスワード……。おまえ、は。ずっと……俺を、歪めて、見てる。見るな……いつまで、それ、やる?」
「今度、そっち? お前も、忙しいなぁ……」
素直が呟くと、颯太は苦しげに舌打ちしかけて、飲み込んだ。いつもなら、しょうがないなと投げやりに口角を上げるはずなのに、その気配がない。
颯太の心がすり抜ける。常に一緒にいるのに、どこか噛み合っていない。その感覚は、前からあった。
「ずっと思ってた…。……わかんね。全然……わかんねえ、よっ」
髪を掻き乱し、颯太が吐き出すように続ける。
「ジョウホ、してる。な?俺。誰にも言わない、バレないようにしてる……。お前、俺をヘン、な風に見てる。……でも俺、文句言わなかった。……だろ?」
素直の視線がわずかに揺れる。それを見て、颯太は周囲を一瞥し、声のボリュームを落とした。
再び肇の方へ向きかけた瞬間、顎を掴まれ、正面へ引き戻される。肩に食い込む指先に、わずかに力がこもった。
選べ。選べ。言葉がもつれる。
颯太の開いた口元が、別れを言いあぐねているように見えた、その時。
喉の奥まで出かかっていた言葉を、素直は飲み込んだ。
「素直、いつもそう……なんで、コイツだけ。…そんなに、ズルい。だ」
喉元を戦慄かせた颯太が、唐突に素直の手首を掴んだ。
慣れたとはいえ、食い込む痛みに、思わず顔が歪む。
「なんで……俺だけ、じゃ……駄目なんだっ!」
颯太の怒鳴り声が、今度こそ中庭に響いた。
さっきまでのざわめきが、一瞬だけ途切れ、すぐに周囲に抑えた声が広がり始めた。
素直は颯太の陰に隠れるように身を屈めながら、小さく視線を落とした。
「……つまり。お前に、とっては。……話しやすい。なら、誰でも……いい。……ことでしょ?な?」
落ち込む間もなく、とんでもないことを言われた。颯太の投げやりな嘲笑に、思わず身を引く。
人様に穴掘っておいて、よくもっ。素直は拳を握り込んだまま、背後の芝を力任せに殴った。
分かっているが、普通に痛い。おまけに殴ったところで、何も変わらない。それでも後引く痛みが、熱のこもった思考をわずかに冷やした。
いつもこうだ。どうしてうまくいかない。もう詮索しないと決めたはずなのに。変わろうと思ったはずなのに。
颯太の顔が、これまで傷つけてきた幾人もの顔と重なった。
「その言い方は結構、傷つくけど」
「ケッコー……な。お前の『ケッコー』は、そんなに。……ケロっとしてる、のか。……俺」
颯太が眉を寄せると、遅れて素直の眉もわずかに歪む。
「馬鹿、だ。……全部、俺。だけ」
強い口調に押され、言葉まで尖っていく。
「また、逃げる? ……いつも、そう。……逃げる、のか」
「揚げ足取るだけなら……苛つくから、俺帰るよ?」
言わなくていいことを言った。けれど、もう言葉は落ちてしまっている。
弾かれたように見開かれた颯太の目の中に、よく似た自身の表情が映る。
何もかもが噛み合わないまま、同じところをぐるぐる回っている。抜け出し方だけが、分からない。
思考が、どんどん悪い方へ沈んでいく。だが、底に触れる前に、不意にそれは途切れた。
「なんっ……なんで僕を見てくれないんだっ」
肇だった。殺し損ねた叫びが、中庭のざわめきの中に跳ねた。
声音とは裏腹に、肇は震える掌をまるで他人のものでも見るように、冷めた視線を向けていた。
その姿は、言っておいて自身の言葉を疑っているようでもあった。
「………好きなんだよ」
肇の肩が小さく震えた。堪えきれなくなったのか、額には脂汗が滲んでいる。
完璧に整えられていたはずの肌が、ゆっくりと崩れていく。コンシーラーが汗と混じり、濁った液となって頬を伝い落ちる。それを拭う余裕すらなく、肇はただ前を凝視している。見つめる先は変わらない。馬鹿みたいに真っ直ぐだ。
「言われてる、ぞ」
肇の言葉を受けて、鼻白んだ颯太が素直を睨みつけた。
「一目惚れだったんだ。ずっと、ずっと好きなんだ」
肇がなりふり構わず、言葉を叩きつける。黄色味の強くなった手で乱暴に顔を拭うたび、歪に描かれた眉が手の甲に黒く移った。
涙と汗で溶け出した化粧。ぐちゃぐちゃになった顔。
普段は何でも器用にこなす肇。だが、今は何もかもが追いついていないようだった。
「僕も、嫌だったのに……上辺だけで見られるの、ヘドが出るほど嫌いだったのにっ。なのに……好きになっちゃったんだ」
いいな。思うだけなら無料だし自由だ。
肇が輝いて見える。何度目を擦っても、それは変わらなかった。
素直は肇を見続けた。そこには何の柵もなく、ただ底の知れない好意がある。
凄いな、いいな。
こんな感情を他人に向けることも、向けられることも。羨ましいと思う。とてもできない。
「一途で、真っ直ぐに……素直しか見てなくて」
「……………は?」
頭痛を抑えようと額へ手を当てた素直の前で、颯太が一瞬、驚きの表情を浮かべる。
肇が見つめ続けていた先、ようやく視線が絡んだ。代わりに素直はこれ以上、颯太の顔を見られなかった。
よかったね、やっぱりそう思うけれど、全然良くねぇわ、とも思ってしまう。
素直はその場から動けず、肇の視線や仕草を謝りながら目で追った。
どこで間違えたのだろう。同じことを、また繰り返している。
怒らせないように。空気を悪くしないように。そう気をつけているのに、段々と帳尻が合わなくなる。
「僕なら、分かる。颯太の気持ち。素直より、分かるっ。格好だって変えられる。……僕じゃ、駄目かな」
衝動に押し出されたのか、肇の声はやはり震えていた。
時折合う後悔の滲んだ肇の視線に、思わず大丈夫だと言いかける。
胸元のトレーナーを掻き集めた指先に、わずかに力がこもる。息が、うまく吸えない。
本当は、肇に頑張れと言いたかった。本当は、颯太に好きでいてほしいと、言ってしまいたかった。
でも。そんなの、気色悪いじゃないか。
唖然としていた颯太が口を開きかけた、その瞬間、肇の顔からどろりと溶けたコンシーラーが、芝へ落ちた。
音はなく。ただ芝を汚す。その一滴で、素直の中の何かが限界を越えた。
「…飲み物、買ってくる」
わざとらしいほど棒読みの声を上げ、素直は唐突に立ち上がった。
二人の視線が刺さる中、絞り出した声が、自身でも驚くほど掠れる。だが、構ってはいられない。
「……ごめん。疲れた」
ごめん、と思う。何度でも思う。
パンッ、と乾いた音が鼓膜に反響する。
掴まれたトレーナーの裾に、今までどれだけ安心できたか、でも払い除けてしまった。
ごめん。
喉が引き攣り、ついさっきの出来事なのに、何を話したのかも朧げだった。背後から突き刺さる颯太の視線と、肇の困惑した気配を振り切りながら、素直は足早に校舎へと向かった。
「ヘイッ、待て…よっ!………ヴェッリホウスッ」
遠ざかったはずなのに、颯太の声はいつまでも耳に残った。それが幻聴だと気づいた瞬間、視線がぐらりと落ちる。
鉛のような疲労だけが、身体にまとわりついて離れない。足取りが異様に重い。
思ったことを言えない口なんて、いらないじゃないか。
そんなことを思った罰が当たったのか、途端に足元がふっと軽くなる。とっさに、近くの壁に手をついた。
何度も謝りながら歩く。芝を踏み締める靴音が、やけに大きく鼓膜を揺らした。




