バグを12件登録 「今日は生姜焼きだよ」
昼休みの中庭。木漏れ日に照らされた学生たちのざわめきが、柔らかな風に混じって響く。素直はトレーナーのポケットに手を突っ込んだまま、芝生の縁を一歩ずつ踏みしめた。
駅で意識を失ってから、もう数日が過ぎている。救護室であまりにケロッと目を覚ましてしまったせいか、駅員には不可解そうな視線を向けられ、そそくさと一人で帰る羽目になった。
颯太には、倒れたことも、言いあぐねていることも、何も話していない。後ろめたいわけではないのに、どこか寝覚めが悪い日々が続く。
「どうだった?」
沈黙の重さに耐えきれず、液晶画面を凝視する颯太に声をかけながら、適当な芝の上に腰を下ろした。
「オーディション」
返事はなく、颯太はただ中指で画面を連打していた。だが素直が「オーディション」と言った途端、中指の角度が鋭角になり、爪を立てての連打に変わった。
フィーバー中なのか、フラッシュする光に当たる瞳孔は、恐ろしいほどに見開かれている。
無理やりひねり出した言葉は、どうやら特大の藪蛇だったらしい。
「やばいやばいっ感情に任せてガチャ回すなよ」
何度揺さぶっても、颯太は手を止めない。
スピーカーから漏れる軽快なゲーム音が、素直の気持ちをかき乱す。
モデルってそんなに稼げるもんじゃねぇだろっ、そんなことを考えていると、颯太は下唇を噛んだままスマートフォンを芝生に放り投げた。
少し離れた場所で、スコアを知らせる音が鳴る。
やがて、苛立った颯太が素直の膝の上に倒れ込む。子どものように丸まり、そのまま寝転がった。
膝に伝わる重みと体温が、秘密を抱える素直の胸を、ぐじゃと締めつける。
「……あなた、子供じゃないんだから、少しは喋りなさいよ」
いつまでも沈黙を貫く颯太。素直は抱きつきを受け止めながら、苦笑混じりに言葉を紡いだ。
「今度、おにぎりにカツ入れてやるから」
「…………ポロンカリストゥス。が、食べたい」
でたよ。目を細めた素直は、颯太の頭を肘置きにしながら、音声検索をかけた。
颯太は、豆腐を練り込んだハンバーグか胸肉の唐揚げを与えておけば、だいたいどうにでもなる。
だが、極端に機嫌が悪くなると子どもじみたことをする。今も、颯太の発音がネイティブすぎて、音声検索はエラーを繰り返していた。
「な、何?何だって?」
「美味しい。もの」
今度は世界で二番目にまずいものだったらどうしよう、そんなことを考えながら、頭を手置きにしてスマートフォンをいじっていると、同情するなと言わんばかりに、腰に回された腕の力が少し強まった。
惚れた弱み、か。こういう時、無性に甘やかしたくなってしまう。だが、それをあからさまに示せば二日は機嫌が悪くなる。それは経験則で分かっていた。
「……もうちょっと得体が知れてる食いもんオーダーしてくんない?」
「可愛い」なんて口走ってしまったら最後、何が起こるか分からない。
特に慰めることもせず、前屈のように覆いかぶさる。すると、素直の背骨が窮屈な角度で低く軋んだ。染料に混じって、嗅いだことのない整髪料の香りがする。
しばらく、わざとらしく鼻呼吸を続けていると、覆いかぶさった下に熱がこもり、肩が小さく震え始める。
相手は化粧品会社だったかな、そんな勝手な予想を立てていると、か細く掠れた声が聞こえた。
「…………つくって…な? ポロンカリストゥス」
そこまだ拘んのかよ、素直は必死に「可愛い」を飲み込んだ。
「今日は生姜焼きだよ」
籠っていた熱でふやけた顔を上げると、眩しさに視界が瞬く。
「あと三十回くらい言ってくれないと覚えられない」そう言うと、颯太は律儀に「ポロンカリストゥス」を繰り返した。
音声検索がようやくヒットした頃、吹いた風が芽吹いたばかりの欅の葉を転がす。カサリと乾いた音が足元を通り過ぎた直後、近づく聞き慣れた足音に気がついた。
視線を向けると、背を丸めながら挙動不審にこちらに近づく男がいた。市販の染粉を使ったのだろうか潤いのない焦茶色の髪に、襟首の伸びきったカットソー。雑踏に紛れればすぐに見失いそうな、小汚い風貌。
素直の怪しむ視線に気付いたのか、男は歩みを止め、踵で芝を掘り始めた。
大学の施設内では見かけたことのない風貌。だが、その仕草には見覚えがある。大いに。
妙な親近感が湧いた。素直はトレーナーにストレートパンツという自身の格好を棚に上げ、裾についたシミを中に折り込み、隠した。
「……何してんの?」
白けた声に、男の輪郭がわずかに揺らいだ。笑いも怒りもしない貼り付けたような表情。その奥で、見開かれた瞳が湿った光を放つ。
都会のハロウィンは、ときどきとち狂った格好をする輩が出ると聞く。だとしても、まだ夏にもなっていない。
素直は、思わず常備している葛根湯を目の前の男に手渡した。
「伊集院さん?本当に何してんの、それ」
「どう?いい?」
格好はともかく、毛先を手の甲で流す自信ありげな仕草は、肇そのものだ。
熱にも肩こりにも効く万能薬でもどうにか出来ないかもしれない。素直は悟った。
「いや、いいって言うか……まあ、万人受けはしないかもね」
「なら良かった」
素直の心配をよそに、肇は満足げに頷いた。毛穴が詰まっているせいか、いつもより肇の呼吸が速い気がする。
おまけに距離感もどこか可笑しい。肇は互いの衣服を擦りながら素直の隣へと腰を下ろした。素直の膝の上で丸まる颯太など、気づかないように。
「今月も制限きちゃった。またテザリングさせてくんない?」
肇が素直の腕に自身の腕を絡め、甘えるような声を出す。下がる目元と、対照的に上がる口元。どれをとっても楽しげに見える。こんなことは、何度も経験した。なのに、得体の知れない不安に煽られる。
あれ、なんか不味いかも。
「いいよ、パス変わってないから適当に繋げて」
普段よりも強引な距離の詰め方に、思わず早口になる。息が詰まりそうだ。
彷徨うように颯太の髪の生え際を撫でると、ささくれ立った心が、ほんの少しだけ落ち着いた。
まるで芝居でもさせられているみたいで、性に合わない。居心地の悪さに、素直は小さく鼻を鳴らした。
会話の合間にも肇の重そうな目には、ただ一人しか映っていない。
今日がその日なのかと、なんとなく思った。
「課題、提出までに間に合いそ?」
染粉で重そうな肇の髪は、不自然なほど風に争っていた。
「あと推敲するだけなんだけど。なんか、とっ散らかってるから、素直、放課後また付き合ってよ」
改めて間近で見る肇の顔は、見事なほどに化けていた。
ぱっちりとした二重は消え、瞼は重たい一重に変わっている。シャープだった輪郭には、うっすらと二重顎が浮かんでいた。
先日の肇を思い出す。なぜかパスワードの効力が揺らぎ、本来の顔が見えたこと。そして、その顔がひどく綺麗だったこと。
今はどうだろう。分厚い化粧のせいで、どこまで本来の姿から離れているのか、まるで想像もつかない。




