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『yamamoto2580』  作者: しもたんでんがな


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11/21

バグを10件登録 「楽だから」




「今はっ………ごめん、言いたくない。俺にはハードルが高すぎる」

「『ヴァ』……! すごい、進歩した。な?」


呆れたような、けれど隠しきれない熱を孕んだ低い声。大きな手が、素直の頭を乱雑に撫でる。その無造作な重みに抗うこともできず、素直はされるがままに揺らされた。

乱れた視界の隙間。逆光の西日に透けた颯太の頸筋が、ほんのり赤く染まっていく。素直は少し潤んだ瞳で今を焼き付けるようにじっと眺めた。


「……なんだ、これ。びっくり」


不自然に前屈みになった颯太が、ぶっきらぼうに何かを呟く。どこか落ち着きがなく、妙に浮ついている。それを悟られまいとしているのか、やけに態度が雑だった。何がツボに入ったのかは分からないが、どうやら癖にぶっ刺さってしまったらしい。


颯太は気を紛らわすように、スケッチブックを捲るふりをしながら、横から素直の絵を覗き込む。たちまち堪えきれなくなったのか、ふっと吹き出した。

キャンバスの中央に描かれていたのは、四捨五入すればどうにか人物画と呼べそうな代物だ。鼻は極端に短く、耳の位置からは、あろうことか足が生えている。


「俺、今。そんなに、情けない顔……してる? 変、じゃない?」


少し傷ついた表情の颯太を適当にあしらい、素直は唇を舐めて決然と鉛筆を走らせる。


「焦るなよ、今整えてる………てか凄いな。お前、これ顔に見えてんの?」


だが、迷いなく線を重ねるたびに、紙の上の顔はますます取り返しのつかない形へと歪んでいった。


「ひどい…悪化してる」

「黙れ」


線は迷いに迷い、描く目的すら見失いかけた頃、颯太は笑いを堪えながら、そっと素直の手首を制した。

石膏像の影が伸びる夕暮れ時の部屋。イーゼルへ鉛筆が置かれる乾いた音。窓の外で傾いた西日は、美術室の床を長く、どこまでも赤く染めていた。


「……ここが潮時、だよ。画伯。もう、ストップ。」

「俺知ってるぞ、ディスりだろそれ」


その時、机の上のスマートフォンが震えた。静まり返った部屋に、電子音が鋭く響く。

颯太は画面を見て眉を顰め、小さく息を吐いて通話に出た。そのままスマホを耳に当て、窓際へと静かに歩み去る。


「……ハイ、サミ」


静かな美術室を、抑えた声がかすかに震わせる。

窓際に立つ颯太から漏れるその声は、耳を澄まさなければ聞き逃してしまいそうなほど小さかった。


『今どこ?』


女の声だ。柔らかく、それでいて少し急かすような、凛とした調子。

スピーカーから細い糸のようにかすかな音が漏れていた。


「コウル」

『今から来れるわよね?あんた、ルックモデルの一次通ったわよ』


誰のものともつかない吐息が漏れ、一秒の静寂が美術室に落ちた。

素直はスケッチブックに向き直ったまま、何事もなかった顔で鉛筆を走らせる。しかしその線は相変わらず迷いに満ち、描きかけの顔はさっきよりさらに歪んでいった。


「……い、ま、か、ら?……そう。ですか」


ああ、低くていい声だ。完全にお仕事モードに切り替わっている。こうなるともう、放課後の楽しい時間も終了だ。

西日に照らされた颯太の横顔は、輪郭だけが鋭く際立っている。

イーゼル越しに頬杖をついた。窓辺の颯太と、手元の無惨な絵を見比べる。無意識に溜息がこぼれた。どこから手をつければいいのかも分からない。

鉛筆を弄びながら、窓際の颯太をちらりと盗み見る。

ただ立っているだけで、まるで名画から抜け出してきたみたいだ、そんな陳腐な表現しか浮かばない。

美術室。場所に引きずられた思考が、素直を惨めにさせる。

五歩も歩けば届く距離なのに、ひどく遠い。

颯太の容姿に一喜一憂しているのは、素直だけじゃない。

実際、颯太は芸能事務所に所属している。最初は冗談半分に聞き流していたが、関係が始まってからは、その事実に何度も納得させられていた。


「わかった。俺、理解、します。た」


電話を切ると、颯太は少しだけ申し訳なさそうに振り返った。


「行か。なきゃ、俺」


ん、それだけ言うと、素直は落としていた視線をさらに下げ、再びキャンバスへ向き直った。名残り惜しそうな視線を背中に感じながら、ふと思う。

普通なら、別れが近づく瞬間は胸が痛むらしい。でも、どうしてもその感覚が分からない。

焦りがない、とまでは言わない、が。颯太を特別だと思っていないのか。誰でもいいのか。

そんな考えが頭をよぎった瞬間、己の思考がどこか他人のもののように感じられた。さっきまでとは真逆のことを思っていると気づく。

もし颯太が他の誰かのところに行こうとした時、今みたいに、ただ見送るだけで済むのだろうか。


「……くれよ」


空耳だったのかもしれない。廊下の向こうから、ひどく熱を孕んだ、濁った声が聞こえた気がした。


「……あとで、電話。カタヅケ、ごめん。……まかせて、いい?」


素直は、上から降ってきた声に我に返った。


「おう、頑張れ」


月並みな言葉しか浮かばなかった。颯太は一瞬、何かを言いかけて、けれどすぐに口を閉ざした。

不器用に口角を上げ、スマートフォンをポケットにしまう。そのまま何も入ってなさそうな鞄を肩にかけた。

引き戸の向こうから、廊下の光が一瞬だけ床に差し込む。すぐに光は消え、足音が遠ざかっていった。

ガラガラ、と扉が閉まる。その音を合図に、素直の視界がぐにゃりと歪んだ。冷や汗で少し冷えた手でイヤホンを耳に押し込む。


「……っ、げほっ」


いよいよ耐えきれないかもしれない。微かに回り始めた視界の中、たまらず前に手を着いた。ぎしり、イーゼルが後ろに下がった拍子に、描いたばかりの拙い絵が、ぐしゃりとひしゃげる。

喉の奥に、焦げた鉄のような味が広がる。溢れ出しそうな何かを押し留めるために、素直は何度も呼吸を整えた。


「今追いかければ間に合うぞ」


口元を掌で押さえた素直。込み上げるものを必死に堪えながら、視線を感じる先へとかすかな声を絞り出した。

すると気性の荒い足音が、こちらへ近づいてくる。一歩、また一歩と、ようやく凪いだ空気を再び踏み荒らした。


「何で分かったの?」

「肇って、足音うっせぇもん」

「そんなこと、初めて言われた………素直って、颯太のこと、こんなんに見えてんの?」


開き直った声を上げたまま、肇は腕を組んで素直を見下ろした。暑くもないのに、背中にじわりと嫌な汗が伝う。


「うん……いや、これは俺の絵が下手くそすぎる、からあれだけど。お前も割とこっち寄りに見えてると思う」

「僕のこと好きってこと?」

「好き好き」


思考を放棄して飾らない本音をそのまま投げ出したとき、背後で服の擦れる音がした。


「え?具合悪い?風邪?」

「違う違う。多分、染料の匂いに酔っただけ」

「大丈夫かよ………ねぇ、素直?」


素直の背中をさすりながら、肇は追い詰められたような険しい表情で、言葉を継いだ。


「素直さ、颯太のこと好きじゃないの?」


改まって聞かれた言葉は、ひどく心に沁みた。好きか嫌いかで言えば、もちろん好きだ。けれど、それだけでは到底片付けられない気がする。

絶不調の中にいるのに、不思議とその中心にやわらかい光が差し込む。

目が合うだけで一喜一憂して、どこかが触れ合う距離にいられれば、それでいいと思ってしまう。こんなことは、颯太にしか思えない。

もう、とっくに越えている。それが何なのかは、言わないけれど。


「うん」


肇の強張った表情を見て、真逆の意味に捉えられたのだと感じた。


「なんでわざわざパスワード使ってまで颯太のことモブに見ようとすんの? 」


次第に言葉の端々が跳ねるように強くなる。肇はどうしても白黒つけたいといった様子で、素直に迫った。


「戻そうと思えば、すぐ戻せるじゃん?」


肇が胸元を掻きむしりながら、鋭い声を上げた。

脳内で空想が膨れ上がっているのか、肇の言葉に段々と熱が乗る。


「そんなのっ、みんな辛いだけじゃんっ」


まるで自分自身に言い聞かせているような物言いだった。

すごむ肇に、思わずパイプ椅子を引きずる。

なぜ、肇はそこまでパスワードに固執するのか。

こちらがいくらモブとして見ようと、肇には何の影響もないはずだ。そう切り捨てかけて、すぐに思い直した。

「辛い」という言葉に、どれだけの意味が込められているのかなど、到底計り知れない。

肇は、どんな葛藤を経て自身を受け入れられたのか。周囲には、受け入れられているのか。

次第に押し付けがましく、同情じみた思考になっていることに気づき、そこで思考を止めた。

ずれ始めたテンポは、一周回って足並みを揃えようとしている。

素直は、こっそり息を吐いた。


「楽だから」


自己責任で片付けられるような言葉を吐く。嘘だ。そこには逃げやら保身やら仄暗い感情が過分に含まれている。

言った途端、鈍い後悔が押し寄せた。

背後を振り返ると、予想どおり、ひどく傷ついた表情の肇と目が合う。

遠くの廊下を誰かが走る音が、静まり返った美術室にやけに鮮明に響いた。重苦しい沈黙が続く。肇は苦しげに唸り、考え込んでいる。

素直の手元で、スマートフォンが何度も震えた。画面には『颯太』の文字が浮かぶ。今度は振り返らなくても、肇がじっと手元を見つめているのがわかる。

手持ち無沙汰に、戻し場所のわからない鉛筆をくるくると回す。眺めているうちに、目まで回ってきた気がした。




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