バグを9件登録 「ペルシャだろ」
映画を見た翌日。古いワックスの匂いが残る大学別館の美術室は、講義棟から少し離れているせいか、やけに静かだった。
素直はむず痒さに鼻先へ指をやりかけ、ふと右頬に触れそうになって、慌てて手を引っ込める。何事もなかったかのように、前を向き直った。
「…動かない…で…。……もう少し…右………あご…引いて……。…そう…。……きれい」
教室内は、黒板だけが照明に照らされている。
その淡い光の中で、溢れ出した「きれい」に当てられて、眼球がじんと熱をもつ。
なんだこれ、頭おかしい。
颯太が辿々しく言う言葉は、どれも本当のことのように思えてしまう。
自身が実は世界一なのではないかと。イヴ・ピアジェやらモルフォチョウの亜種なのではないかと、つい、思えてしまう。
「ぬぅあぁぁっ……くっそ」
茶化せば済むはずなのに、それすらできず、素直は俯いた。
「下…。……向いて…はっ……駄目、だっ」
「………飽きた」
イーゼルの向こうから、返事の代わりにわざとらしいため息が返ってくる。
「そう…だ……その…まま…。……動か、ない…。……な?」
油断すると、つい走り出しそうになる。
やばい、なんか。勃つかもしれない。
素直は必死に舌先を噛んで堪えた。
「なぁ、聞いてる?」
人の話をまるで聞かない無機質な声音に、素直は目を細めた。タバコを吸うわけでもないのに、貧乏ゆすりが止まらない。
なぜかモデルを仰せつかった素直は、内心「頭おかしい」と思いつつ、背後で行儀よく並ぶ石膏像の真似をしていた。眠っては起き、眠っては起きを繰り返し、気づけばもう四十分は静止している。
傾いた西日に焼かれて、普段はかすかに颯太の服から香る油絵具の匂いが、美術室の空気に混じって、いつもより濃く鼻をかすめた。なんだか、妙に照れくさい。
「なあ、お前、今どんな顔で描いてる?」
集中力をとうに切らした素直は、高校生ぶりの美術室に、ひそかに胸を弾ませていた。
イーゼルの向こうから聞こえてくる、鉛筆の走る音に耳を澄ます。
そういえば、颯太はやたらと写真を撮りたがるし、何かと残したがる。出会った時から、ずっとそうだった。
大学でも、家でも、信号待ちでも、すぐにスマートフォンを向けてくる。名前を呼ばれて顔を上げたときには、もうシャッターが切られている。
最初はすごく嫌だった。上等なものは持っていないし、どうせ見返さないと思っていたからだ。
けれど今は、そのたびに、なんとなく笑ってしまう。
最近になって、ようやく分かってきた。
だから残さない。記憶の中にあれば、それでいい。
「ん?…普通。に……シンケン、な。の…だ…よ……………は?」
イーゼルから視線を逸らした颯太が、一瞬、目を見張る。
その反応で、己がどんな顔をしているのか悟ってしまい、途端に鼻の奥がぐずついた。
「いや、俺見えないし……交代。次、俺が描く」
強引に役割を入れ替えて、素直がキャンバスを覗き込んだ。だが意気揚々と身を乗り出した先、そこに描かれていたものを目にした瞬間、素直の表情は盛大に引き攣った。
「待って……あんなポーズ細かく指示してたのに、描いてたの目?目だけなの??」
「……昨日、まつ毛の角度まで…。……全部。見えたんだ。だからよく、描けてるだろ。……シャシン撮るの、考えたけど……お前。嫌がるから。……帰ってもずっと、頭。から消えなくて。どうしても、描きたくなった。……あ、ホームワークは別。石膏模写。これは……完全に、無意味。なやつ」
「舐めてんのか」
誇らしげな語りが終わる前に、素直は颯太の手から鉛筆を奪い取った。スケッチブックから白紙を一枚引きちぎり、そのまま颯太をどかして丸椅子に腰を下ろす。だが数分も経たずに腹を抱え、ひいひいと肩を震わせた。
「なん、だよ。……急に」
「いや、颯太さ……スタイル良いし声もこんな良いのに、上だけ見ると本当にびっくりするくらい丸描いてチョン顔なんだもん……ぐふっ」
「なんだよ、お前。の……せい、だろ」
「そう俺のせい、俺がお前を好きすぎるのが悪い」
最近はこの一言で、颯太はすぐに黙る。案の定、颯太は言葉を失い、目を白黒させて顔を背けた。だが、今日はこれだけでは終わらなかった。
「俺…さ…。……やっぱり。……言いたい…隠して……いたけど…もう。……無理」
「あ、あー、んー」
決意の籠った声を聞いた瞬間、素直は目を泳がせた。何を指しているのか、すぐに予想はつく。
絶対に嫌だ。心臓がぐわっと跳ねる、嫌な感じだ。
トレーナーの袖を捲って腕を摩った。蕁麻疹が出そうだ。
「…っ、何、が…嫌?…。……俺…? ………答えろ」
「これっぽっちも思ってないこと言うな……俺、あんまり得意じゃないんだよ。ちゃんと続いたのだって颯太が初めてだし……ていうか、男同士だし」
段々と尻すぼみする言葉。素直は視線を逸らす。こういう時、逃げの一手しか取れない自身が心底嫌になる。何でこの世は嫌なものは嫌だと明確に分かるんだろう。そのくせ言語化できない。
「逆に聞くけどさ。なんでそんな言いたいの?」
喋るたびにどんどん丸まっていく背骨。それを見かねたように、颯太が素直の肩を掴み、強引に引き上げた。不意に視界が開け、間近で迫る颯太の気配に、素直の呼吸がわずかに止まる。
「素直。周り、虫……多すぎる」
ぶっきらぼうに放たれた言葉の端々には、怒りが滲んでいた。
「それって肇のこと?肇は大丈夫だよ、絶対」
颯太の頭をぽんぽんと撫でる。すると勢いよく振り払われ、そのまま手首を掴まれた。
食い込む力に、「あたたたたた」と情けない声が漏れる。宥めようとしたのが癪に障ったのか、名前を聞いた途端、颯太の眦がさらに吊り上がった。
「なに、根拠。に……」
「それは管轄外だから言わないけどね。でも肇は颯太が気にしてもしょうがないよ。俺、命掛けてもいいし」
言いながら、素直は空いた手でスケッチブックの端をいじる。指先は無意識に滑り、やがて針金の留め具へと向かっていった。
「急、尋常…じゃなく重い。の……逆に。苛つく」
「俺も上手く言えないだけだよ。多分、日本語にも、お前の国の言葉にもないんだと思う」
いつの間にか、伝わるようで全く伝わらない言い回しが得意になってしまったと思う。
「俺、のルーツ、ちゃん……と。知ってる?」
ムッとした表情を見せる颯太の言葉に素直は目を見張った。
知らないわけないだろう。何度も調べた。そして、どうにもならないんだなと、何度も思ったんだ。
「ペルシャだろ」
「国、が違う。……フィンランド。な?」
「和ませようとしただけだって」
乾いた声で笑うと、途端に虚しさが込み上げた。
身も蓋もない押し問答を、この瞬間だけでどれくらい繰り返しただろう。
互いに言葉が尽きかけた頃、颯太が振り絞るように言った。
「結局、逃げ…分からない。……もっと。はっきり言え」
眉間を寄せたまま、颯太は必死に言葉を探しているようだった。
フィンランドと日本。そのあいだに、どれだけの言葉が詰まっているのか、分からない。
そこでようやく、決定的に違うのだと気づいた。
颯太は、どこまでも真っ直ぐに今を見ている。言いたいことを言って、やりたいことをやる。
その姿が、どうしようもなく羨ましくなるときがある。
あぁ嫌だ。早く隠さなければ。
お前は、この国の人間じゃないから、そんなことが言えるんだ。
逃げる場所があるくせに。逃げた先にも、救いがあるくせに。
隠さなければ。
無理だ。生まれも、血も、何もかも捨てなければ、そこには立てない。手放さなければならないものが、多すぎる。
小さく唸り出した颯太を見ているうちに、胸の奥にじわりと熱が満ちていく。まるで、子供だ。
「……わ」
好きだ、別れよう。一緒には歩めない。だけど、忘れてくれとも言ってやれない。
口をわずかに動かしたものの言葉にはならず、己の不甲斐なさに打ちひしがれた。俯いていると颯太が覗き込んできた。
眉間に深く刻まれた溝。目頭に溜まった小さな皺。への字に硬く引き結ばれた唇。
どれをとっても不機嫌そうな顔だが、なんとなくわかる。心配しているときの表情だ。やがて、野良猫をあやすような手つきで頭を撫でられる。ほら、いつもより優しい。
「ヴァ?」
スナフキンの国では、「WA」の音がすべて「VA」に変わるらしい。「ワンワン」は「ヴァンヴァン」。
そういえば、プロダクトデザイン画の講師の名前「若浦」を「ヴァカウラ」と連呼していたときは、二人で謝りに行く羽目になった。
颯太は絶対に謝らない。もうこれは、生まれつきというより、天性のものだと思う。
結局、このときも頭を下げ続けたのは、部外者の素直だった。
思い返しているあいだも、颯太は無言のまま素直を見つめ、頭を撫で続けている。
円らな瞳に映る己と目が合う。まだ、颯太と一緒にいたいと思ってしまっていることを、否応なく自覚した。
「…………ソポ」
誤魔化すように、聞きかじった言葉を口にする。
その途端、強く握られていた手がぱっと離れた。顔を真っ赤に染め、限界まで目を見開いた颯太と視線がぶつかる。
指先に残った体温が、離れたあとも妙に長く残る。
いつもの表情に戻せている。そう思いたかった。
「やーい、ソポ、ソポ」
「俺。男だっ」
素直は、自身とはまるで太さの違う颯太の手首を掴み、向き合う。
伝われと願いながら、ふっと頬を緩めた。




