宣戦の儀
その日のシュームザオンは、雲一つない快晴だった。
前夜に多少の降雨があったようで、街を吹く風は僅かに湿っているが、それもやがて夏の烈日とともに消え去るだろう。少なくとも今は過ごすのに不快なほどの酷暑ではない。
つまりは。
「剣闘日和! という奴だねえ!」
集合したヒューバード剣闘士商会の面々に向かって、オーブ=アニアは大仰に空を見上げて声を張った。
「折角の『双剣祭』本戦、気候も最高。これでお客さんにも盛り上がってもらえなくては剣闘士が廃るよ!」
「そーいうもん?」
「まあ、いつものことだ」
すげない態度のリウとエインにもめげず、大舞台を前にした彼の意気は天井知らずだ。
「はっははは、今日という日は僕の為にある! 派手に勝ち抜いて、この戦いで二つ名を授かりたいものだよ」
「……授かるって、二つ名って誰かがくれるものなんですか?」
その言葉に、ふと口を挟むのはカタナ、普段はノッている時のオーブはそっとしておくのだが、最近何かと気にしている話題に釣られた格好だ。
「いや、名乗るだけなら本人の勝手にして構わんぞ」
答えたのは、オーブではなくグイードだ。『双剣祭』には出場していない彼だが、同胞たちの晴れ姿の応援に闘技場まで同行することになっている。
「『最強』でも『無敵』でも、好きな冠を付ければそれがその剣闘士の二つ名になる。一応はの」
毎年、一人二人は初戦からそんな名乗りを上げる空気の読めない輩はいるものだと、数十年の戦歴を誇る老剣士は淡々と続ける。
「だがまあ、それで冠に見合う実績を積めたものなど一人もおらんかったがな」
仰々しい名乗りと共に闘技場に乗り込んだ挙句、その有頂天の鼻っ柱ごと張りぼての金看板を叩き潰されて物笑いの種となり、心が折れて二度と剣闘に挑めなかった者が大半。
そうでなかった者も、程なく現実を知ったことにより自然とそのような若気の至りはなかったことにするという。
「だから、大体の二つ名はその強さや戦いぶりが人口に膾炙する中で定着したものがほとんどで、自分で名付けた二つ名など本人によほど強い意思がなければ名乗り続けられん」
グイード自身、かつては『鋼鉄壁』の二つ名で称えられた剣闘士である。現在でも剣闘の場で勝利した際などはその名を観衆から呼ばれることは珍しくない。
「しかし、今の儂は基本的に二つ名持ちとして扱われることはない。自身が決めたのではなく、実力がその域にはもはやないと、衆目の中で無意識の結論が出ているというだけのことよ」
「普通はそうなる前に引退するのですがね。何ともしぶとい男です」
平然と自身の衰えを語るグイードにさらりと辛辣な感想を述べるフェートン。
彼もレレットと共に闘技場に向かい、組合の仕事に臨む主を補佐する予定だ。後ろには見習いのジークも控えている。
「はん、今さら称号の有る無しなど些事よ。そんなことは外野が勝手に決めればよいが、戦うか否かは儂が決める」
きっぱりと言い切るグイードであるが、それは彼ほどの古強者なればこその達観だろう。多くの剣闘士にとって、二つ名とは一流剣闘士として自他ともに認められた証左だ。無視できる者は中々いない。
その意味で、オーブの宣言は間違っていない。大きな剣闘で文句無しの活躍を見せつけることが出来れば、観衆はその剣闘士の顔と名前、そして戦いぶりを語り合うだろう。その中で剣闘士は幾つもの形容がなされ、やがて二つ名が生まれるのだ。
「カタナくんの『車輪剣』との闘いなんか、周囲の注目としては最高の機会だったんだけどね。最後まで決着が付かなかった剣闘ってことの方に話題が持っていかれてしまったのが惜しかったね」
「いや、あれは……」
カタナとしてはなんとも答えようがない。あのロロナとの剣闘では、普段以上に周囲のことなど見えていなかった。
ロロナと、自身の剣との他には何もない空間で戦っていたかのような気さえして、見ていた側の論評など聞かされても実感は湧かないのが正直なところだ。『引き分け』カタナなんて呼び名もさすがに遠慮したいところであるし。
「お、馬車来たヨ」
そう言ってリウが指差す先に、組合が手配した二頭立ての辻馬車が姿を現す。明らかに見えるより先に声が出ていたが、今さらそんなことを気にするヒューバードの面々ではない。
「じゃあ、行こうか」
それまで無言で、カタナたち出場剣闘士たちを見守っていた商会長レレットが号令をかけ。
「ああ」
海獣の鎧の少年が頷き。
「楽しい相手と戦れるといいなー」
黒衣の暗器使いが好戦的に笑う。
「今日は多分調子がいい気がする」
『隼落とし』の二つ名を持つ剣士は静かに呟き。
「いざ出陣、ですね」
芝居装束の槍使いは浮ついた気配を一掃してそう言った。
『双剣祭』本戦、開幕の朝である。
●
剣闘都市シュームザオン屈指の剣闘大会、『双剣祭』。何が屈指かと言えば、その答えはいくつもある。
参加人数、観客動員数、注目度、そして――賭けの規模。
「本命は前回優勝のギジオンとモーガン組! 対抗は誰だ?」
「ゼガとシオンはどうだ、あいつら意外と連携も上手い。いやしかしアガサとディムの二人も捨てがたいな」
「今回は『轟音』と『大金棒』だろ。あいつら二人だけで、予選の相手ほぼ全員ぶっ倒しちまった!」
「それより聞いたか、あのディオセウスが帰って来たんだぜ。全盛期には『闘技王』候補とまで呼ばれた剣闘士だ」
「誰が何と言おうと俺は『朱花』と『麗羽』に賭ける!」
組合が公式に行っている賭けだけでも、貴族の屋敷が十や二十は楽に立つ額が動いているのだ。仲間内のささやかな遊びの賭けや命のやり取りが絡む裏社会の賭博を含めれば、その経済的影響はもはや暴力的でさえある。
「大穴はどんなもんだ?」
「二つ名持ちが片方しかいない組はやっぱり配当高いな、エインとオーブの組は中々狙い目だな」
「浪漫を追うならイヅナにしときな。去年の新刃戦に続いて大当たりを引くかもしれん」
「よそから来た巡業商会出が二組も出てやがる。これはとんだ伏兵になるかもな」
確実に勝つために情報を集め、なけなしの金を覚悟を決めて投入する博徒もいれば、余興と割り切り面白そうなところに金を投げ込む遊び人もいる。
あるいはまた――。
「えへへ、記念に買っちゃいました! お兄ちゃんとカタナさんの優勝札!」
ただただ個人的な好意のみで行動するものもいる。
「……ルミルちゃん、それは賭け札であって人気投票じゃないのよ?」
「だって、こんな機会そうそうないじゃないですか、『双剣祭』の本戦に家族と大事なお客さんが揃って出るなんて」
「いくら有望でも、新人がそうそう優勝できるほど優しい大会じゃないわよ『双剣祭』は」
「むー! いいんです、こういうのは気持ちですから」
剣闘用品店『ノックイン』。その看板娘であるイーユと看板娘見習いのルミルの二名は、祭りの休みを利用して観戦と応援に中央闘技場を訪れていた。
「やれやれね。ただでさえ暑いのにこんなむさくるしい場所に来ることになるなんて」
イーユは嘆息じみた声を落とす。コーザが聞けば「誰も呼んでいない」とそっぽを向くだろうが、幸いなことに彼は闘技場内部の控え室である。
可能な限り多くの観客を入れるために、観客席からは貴賓席を覗く全ての座席が増設されている。残った僅かな空間も、最低限の通路を除いたあらゆる場所に客がひしめき立っており、安全意識などというものはほぼ存在しない。
張り出した屋根によって日陰が確保できているとは言え、夏場に大観衆に混ざって観戦するというのは女子供にはいささか厳しい。
一応祭りの振る舞いとして、行政府や地元の貴族家から冷やした果実水が無料で配られているのだが、樽を背負った配布役たちが何往復しようともこの万を越える人数の喉を潤すことは容易でないと思われる。
「ところで、ルミルちゃんはいくらで買ったのその賭け札」
「ええと、母さんとカタナさんにお花を買った残りだから……銅貨三枚くらい」
そこらの屋台で菓子が買える程度の額だ。まあ、それくらいなら許容範囲か、とイーユは納得する。正確な倍率は知らないが、まかり間違って当たってもそこまで大金にはなるまい。というかそうなった場合、コーザの財産の方が洒落にならないことになるのだが。
ともかく、幼馴染とはいえ、よそのお宅の娘を預かっているのだ。あまり風聞の良くない真似はさせられない。
「二人が出て来るの何番目かなー」
「さあ、そろそろ始まるかしら」
無邪気にカタナとコーザの姿を待つ妹分の姿に、イーユはくすりと笑みを零すと、自身も眼下の剣闘場に眼を向けた、
●
「最後に登場するのは、前回『双剣祭』の優勝者――『炎』のギジオンと『吼え猛る』モーガン! もちろん狙うは連覇のみ!」
進行役の口上と共に、剣闘場の中心へと悠然と進み出ていくのは、禿頭に全身炎の入れ墨を入れた巨漢の剣闘士と、同じく巨大な肉体を有するざんばら髪の壮年剣闘士。
先んじて剣闘場に出て待ち受ける形のカタナは彼らが大歓声を浴びる姿を眺めていたが、ちらりと周囲を見回す。
開会に当たって一組ずつそのお披露目があるということで、出場剣闘士たちはこうして一組ずつ登場する段取りだ。今のギジオンたちで、今回参戦する全二十四組四十八名が揃ったことになる。
この式典が終われば、彼らは特設の観覧席に案内されることになっている。そこで、一同揃って剣闘を観戦することになるらしい。
普段の闘技場内部の控え室ではなくそんな場が用意されるのは、あくまでこれが『祭』である故か。
今、カタナの隣に居るのは、今回の相棒であるコーザ。その彼の表情に僅かな強張りを見出し、少年は意外の念を持った。
「なんだ、緊張してるのかコーザ」
「ほざけ」
問いを短く斬って捨てるが、その声には多少の苛立ちがある。コーザ自身、心が乱れている自覚はあったのか、ややの間を置いて口を開く。
「あのギジオンにも借りがあるからな。雪辱は果たす」
「……そうだったな」
カタナが『闘技王』アダムと手合せするのと同時期に、コーザもまた最上位の剣闘士である『炎』の二つ名を持つ剣闘士に挑み、敗れたのだという。しかも、剣闘士になる以前からの愛剣をも砕かれて。
「でも、あっちは反対だろ? 当たるとしても決勝だ」
いざとなれば、苛烈なまでに克己を貫くこのコーザをしても、あのギジオンという剣闘士の武威というものは拭い去りがたい衝撃であったのか。カタナは未だ面識もないが、最高峰の二つ名持ちの実力に興味が無いはずもない。しかし、遠くを見たまま勝ち抜けるほどこの大会は甘くないだろう。
「わかっている。目の前の戦いも、本来の目的も忘れちゃいない」
コーザの視線が、右方にぶれる。その刺すような眼光の先には、一組の剣闘士たち。
「あはっ」
「……こら、ふざけるな」
カタナたちと同年代の、浅黒い肌の茶髪の少年と、隻眼の青年。
セイとニス・キス。巡業剣闘士商会の二人はカタナたちの視線に気付くと、それぞれ諧謔と平然でもって応える。
「あと一つずれてれば、最初に当たれたんだけどな」
「組み合わせに文句を言っても始まらん。ただ勝ち進むだけだ」
カタナたちとセイたち、彼らの戦う一回戦は一つ違いだ。しかし進んでいく山は上下に別れ、合流するのは――。
「準決勝、か」
「こちらもあちらも勝ち残れば、の話だがな」
無論、誰が相手でも負けるつもりはないが、現実問題、強豪ぞろいのこの『双剣祭』でどちらかが、あるいは両方が途中で脱落する可能性も十二分にある。
しかし既に賽は投げられている。あとは自身の征く道を刃でもって斬り開くのみ。
「同僚が気になるか」
「――どうかな」
リウ、そしてロロナ。彼女たちもまた、この場に整列している。
セイとニス・キスの両者に当たるとしたら、彼女たちの方が先だ。リウの暗器とロロナの『車輪剣』の強さはカタナも良く承知している。あの二人相手でも十分に勝機はあるだろう。
リウ、ロロナ、セイ、ニス・キス。全員と刃を交わした経験のあるカタナだが、彼らが戦った場合の結果については想像がつかない。いずれも相当の使い手であるし、実際の相性も読み切れるものではない。
「では、開会の宣言を――今年はなんとこの方にお願いいたします!」
と、カタナの思いを断ち切るような一際大きな進行役が高らかに叫ぶ。
その声と、何より目に入ったその姿に、カタナの意識は一気に引き戻される。
「――『闘技王』、アダム=サーヴァ!」
瞬間、観衆の興奮は最高潮に達し、場内は総立ちの大歓声に包まれた。そして剣闘場に集ったすべての剣闘士も、眼の色を変えてその姿に食い入る。
「おおぉ――! アダム! アダム!」
「今からでもいいから参戦してくれー! 『闘技王』!」
「――ほお! 流石は剣闘都市、気の利いたことを!」
『千斬燕』のハンザは常の沈着を拭い去り、口元を歪めて笑み崩れる。そうして戦意を剥き出しにした顔をすると、彼の甥に非常に似通った印象だ。
「ははっ」
「なんと――」
その甥、セイもまた同じく牙を剥いて喜色を露わにする。外界を回る巡業剣闘士の身ではまず向き合うこともできない『闘技王』の姿が、同じ闘技場にある。
普段は彼を諌めるニス・キスもこの時ばかりはその役を忘れた。『帝国最強』、その称号を持つ剣闘士を間近に見て、彼もまた血が滾っていた。
「――!」
「……はあー」
シュームザオンの剣闘士たちにしてもそれは同じ。対戦を選り好みすると広く知られる『無刃』のアダム。彼と剣闘の場で向かい合うことが出来たものは、この『双剣祭』本戦出場者の中であっても半数に満たない。
ある者は焦がれる眼差しを戦意に乗せ、またある者は陶然とその姿を眼に焼き付ける。
その中で、特筆すべき反応を見せたのは二人だ。
『炎』のギジオンと『隼落とし』のエイン。
ギジオンの眼が、『炎』の入れ墨以上に燃え盛る戦意を込めて燃え上がる。隆起した腕の筋肉は、平常時の倍ほどにも膨れ上がっている錯覚すら覚えるほどだ。
エインは、この場にあって誰よりも平静だった。ただ、剣闘の頂点を極めた同期の姿をじっと見続ける。「極限の見切り」、当のアダムをしてそう評させた『隼落とし』の眼力で倒すべき『王』の一挙手一投足を観察し、分析する。次に彼に挑む、その時の為に。
「……」
そんなそれぞれの姿が見えているのかいないのか。茫洋とした気配を纏ったアダムは、静かに剣闘場の中央に進み出て、口を開く。
「剣闘士たちよ――!」
その一声で、観衆が静まった。
「闘い、勝ち抜き、集いし強者たちよ!」
続いてハンザの、セイの顔から、笑みが消える。他の剣闘士たちからも興奮が拭い去られる。アダムの声は、声量以上に、聞く者の心を呑み込む力があった。あるいはそれは彼の持つ称号にこそ、聴衆が呑まれるのか。
「『双剣祭』――諸君らに求めるものは証明である」
闘技場にて、『闘技王』が語る。それは紛れもなく勅命であり、託宣であった。
「この都市で、最も強き二人の戦士をここに証し立てよ!」
平素は闘うだけの王が、黙して武威を示すだけの現人神が、言葉を紡いでいる。
「高みを目指せ! 強きを示せ!」
その言葉は、定められた定型句なのか、それとも。
「闘え――剣闘士たちよ!」
『応――!』
アダムの鼓舞に、その場の剣闘士全員が雄叫びを上げる。武器を掲げ、頂点を己が奪うと宣言する。
それが、開戦の号砲であった。
●
そしてカタナは、掲げた『姫斬丸』を前方に刺すように向ける。
「――」
切っ先の向こうには、『無刃』のアダム。
かつて、この闘技場で向かい合った夜よりも、その距離は遠い。否、これが本来の彼我の差だ。あの日の剣闘は、師のカーンと、兄弟子のアダムの間で交わされた約束だ。そこにカタナ自身が介在する余地はほとんどなかった。
「だけど」
今度は、自分の力で『闘技王』の元まで辿り着いて見せる。
「……ふっ」
かすかに、アダムが呆れたような息を吐く。しょうのない弟の我儘に付き合う兄のような、そんな苦笑。
そして。
「!」
くい、と。片手でこちらを差し招くアダム。その意図はあまりにも明らかだ。
――来れるものなら、いつでも来い。
挑発というにはあまりに軽い、アダムらしからぬ姿に剣闘士たちが興奮を束の間覚ましてざわめく。しかし今しがたの行動がまるで幻だったかのように、謎めいた無表情に戻った『闘技王』はそれきり振り返ることもなく剣闘場から去って行く。
この場にはもはや自身の出る幕はないと言いたげな、見事に威風堂々としたその後ろ姿を、カタナは最後まで見詰めていた。




