シュームザオンの花祭り
本文の最後に挿絵機能で『双剣祭』本戦の組み合わせ表を掲示してあります。
夏の陽射しを一身に受けて、その花たちはとりどりに咲き誇っていた。
「へえ」
花商会館の門扉を一歩潜ると、そこはもう色の氾濫した世界。
赤に黄色、濃い紫にまばゆいほどの白。生まれ育った地ではお目にかかったこともない明るく主張の激しい色彩に視界が埋まり、カタナは思わず感心の溜息を洩らした。
さして興味を持っていなかったカタナも感嘆するほどの花市場の絢爛たる様相だ。もともと目当てでやって来た少女など、普段以上に華やいだ笑顔で飛び跳ねんばかりに喜色をあらわにしている。
「わあ、今年も綺麗! カタナさん、すごいでしょう?」
「そうだな、なんだか改めて都会に来たんだなって実感した気がする」
花というものの多くは、本来人間が生きる上で必須のものではない。わざわざそうしたものを買い求めて生活の潤いとする発想が生まれ定着するのは、それだけその場所が豊かで余裕のある暮らしを営んでいることの証明だ。
少なくともカタナの故郷では、花はもちろん生活の中で必要でないものを買い求めるという発想はおよそ無縁のものだった。どうしても欲しければ自分で探し、作るしかない。
それで思い出したが、かつて幼馴染にねだられて、花の冠を作るために村の周囲をくまなく探したこともあった。この場にあるような大きく色鮮やかな花など一輪もありはしなかったので、昼から夕暮れまでかかって、日陰に小さな花弁を広げる名もない山の花を集めて回ったものだ。
「あ、リウさん。南方のお花はもうちょっと奥の花壇にあるんです、こっちですよー」
「ん、そう? ――ありがと」
カタナが不意に甦った思い出を噛み締めている間にも、ルミルはリウを案内し、コーザもそれについて歩いて行く。彼の表情は花に感銘を受けている様子はないが、不服そうというわけでもない。無我の境地と言うか、女性の長い長い買い物に付き合わされ慣れた男の諦念じみた受容の姿である。
「お兄ちゃんも、今年は何か買ってみたら? 剣闘士になったんだからお金はあるじゃない」
「おれが花を買ってどうする。まさか飾れと?」
「お・く・る・の! 母さんとかイーユさんとか、今までお世話になった分お返ししないと!」
勢い込んで鉾先を向けた妹に兄は反射的に何か言い返そうとしたものの、反論できることなど一欠片もなかったことに気付き、しばし黙った後に仕方なく呟く。
「……まあ、気が向いたらな」
「もう!」
先送りの言葉で逃げたコーザを呆れて睨んだルミルだが、一旦はそれで良しと判断したのか振り返って先に歩き出す。
それに続いて歩きつつ、カタナはこっそり呟く。
「これは買うな」
コーザが基本的に義理堅い上に妹に甘い男だということくらいは、もうカタナも分かっていたのだった。
●
「ほら、あれですよ、硝子の屋根!」
ルミルに案内されて辿り着いたのは、一風変わった作りの建物だった。
まず屋根が低い。大人の男が少し手を伸ばせば天井に触れられそうなほどだ。
カタナの腰辺りまでは煉瓦造りの基礎と壁で、そこから上は硝子の窓が嵌め込まれて並んでいる。
天井は複雑に梁が渡され、巨大な硝子板の屋根を支えている。その板の数は、ざっと数えただけでも百や二百ではきかないだろう。
「温室、って言うんだっけ。この建物」
「はい! あったかさを逃がさないようにぐるっと囲んで、外だと寒すぎるお花も育てられる仕組みだそうです」
植物の生育に必要な日光を確保するために硝子張りにした上で、その熱も逃さず利用する。合理的と言えばその通りだが、実現するための労力は並ではあるまい。
「これ、入れるんだヨね」
「はい、中の人に言えば買うこともできますよ。他のお花より高いですけど」
「分かった。カタナ、ボク中入ってるから」
「え、ああ」
言い置いて歩いて行く長衣の少女の背中を見やりつつ、カタナは首を傾げる。表面上は普段通りだが、やはり様子が少しおかしい。
「なんか、気が急いてる感じでしたね、リウさん」
「そうだね。いつもの余裕がない感じだ」
そこまで深刻な気配はないのだが、地元の花に何か気にかかることでもあったのだろうか。
「ルミル、手頃な花はどのあたりで買える」
「お兄ちゃん?」
「母さんたちに何か買えと言ったのはお前だろう」
そこで、コーザがぶっきらぼうに声を掛ける。律儀にリウの案内が終わるまで自分の用は待っていたらしい。
「おれには花の良し悪しも好みも分からん」
「母さんもイーユさんも、お兄ちゃんが選んだなら何でも喜ぶと思うよ?」
「イーユは喜ぶ前にまず笑うだろうが。文句の出ない花を教えろ」
「えー」
素直なのか意地を張っているのか分からない兄の言葉に、困ったように笑うルミル。カタナはそんな彼女に声を掛ける。
「じゃ、ルミル。おれはこの辺歩いて見物してるよ」
「……すいません。カタナさんお誘いしたのあたしなのに」
「いや、十分いい物見せてもらったよ」
挨拶を交わし、花市の人波に紛れていく兄妹を見送り、カタナは温室の裏手の方に回る。とりあえずこの建物の周辺を散策でもしてからリウの様子を見に行こうと何とはなしに考えながら歩いていると。
「お、なんだ。珍しいとこで会うじゃねえか」
「――イサギナくん」
と。そんなカタナの横合いから、聞き覚えのある、そして意外な声が飛んできた。
「ロロナ? それに、アサギさん」
振り返った先にいたのは、『車輪剣』の二つ名を持つ剣闘士の少女ロロナと、カタナが日頃から世話になっている鍛冶工房の主、アサギ=テンゼン。
「そっちも、買い物か見物に?」
「はっは! だったらいいんだがな。そんな優雅なもんじゃなくて仕事だよ。この温室の罅が入ったり歪んじまった硝子の交換だ。人が足らねえんでロロナにも手伝って貰ってる」
昨日急に修繕の依頼が来たもんでな、と片目を細めて、アサギは担いだ仕事道具を軽く揺する。そう言えば、ロロナの父はアサギの兄――要するに彼らは叔父と姪の関係だった。
「仕事?」
「この、特注の温室に使われてる硝子板は、全部おじさんのテンゼン工房が任されてるの。他の職人には手に負えないからって」
ロロナが、赤銅色の瞳に控えめな笑みを湛えてカタナを見る。今日は珍しく、彼女の代名詞たる『車輪剣』を持ち歩いてはいない。
あの常識外れの巨大剣がないと彼女の背の高さがはっきり分かり、その立ち姿は普段以上にすらりと伸びやかに見えた。
「もともとこの温室自体、おじいちゃん――カンバ=テンゼンがシュームザオンに来たばかりの頃に大金を貰って一から建てたんだって」
「造ったって――これを?」
カタナは呆気に取られて眼前の建物を見る。壁が低いとは言っても、面積自体は相当だし、硝子を嵌め込み配置するだけでも相当に高度な技術を使っているのは素人にも分かる。
「ロロナのじいちゃんって、大工だっけ?」
「本職は、武器職人。イサギナくんの『姫斬丸』とか。……ただ若い頃のおじいちゃん、自由人だったみたいで」
何故か誇らしげなロロナ。
してみると、カタナの愛剣とこの温室は兄弟分ということか。意外なところで繋がりが発覚したものだ。
しかし、職人の縄張りなど無視して仕事を請け負い騒ぎを起こしたというような話はどこかで聞いた覚えがあるが、実際の成果を見ると納得である。よその職人にいきなりこんなものをおっ建てられては、そりゃあ大工や左官職人は面目丸潰れだろう。殴り込みたくなる気持ちもわかる。
「ロロナ。若い頃は、じゃねえ。あの親父は死ぬまで勝手放題してやがったよ。孫のお前らには甘かっただけだ」
「おじさん」
「この温室だって、兄貴とおれとに一通り硝子の技を仕込んだ後は『これからはお前らで管理しろ!』だぜ。最初の内は交換用の板も中々寸法通り造れねえから、寝る間もなくやり直しばっかで兄貴なんか半泣きだったぜ」
過去の辛かった修業の話ではあるが、アサギがどこか自慢げなのは、それだけ厳しい修業をこなしたのだという自負の表れだろうか。
ふと、ロロナが思い出したように眼を泳がせる。そしておずおずと。
「そういえば、今朝カシワの眼が真っ赤だったのって……」
「不出来なもん出したらやり直すのは職人として当然だ。あれでおれのやられた修業よりは随分優しいんだぜ」
平然と言い切って、のしのしと仕事に戻っていくアサギ。
因果は巡るというべきか何というべきか。とりあえずまだ見ぬ未来のカシワの後継ぎのために祈っておく。せめてカシワはもうちょっと優しい親になりますように。
「あ、そうだ」
叔父のあとに続こうとして、ふと思いついたように手を合わせたロロナは、温室の外壁に立てかけてある道具の陰から一束の花を取り出した。
「会館の人から、お祭りの日に仕事で呼んだお詫びにってたくさん貰ったの。イサギナくんにもお裾分け」
差し出されたのは、両手にすっぽり収まる程度にまとまられた淡い桃色の花。
「おれにって、この花を?」
「夕霧草っていうの。最初に見た時から、イサギナくんの眼の色に似てるなって思ってたから……あげる」
何と答えたものか分からずに、促されるままに花を受け取る。
「毎年、『双剣祭』本戦出場者は半分以上が二つ名持ち。一戦勝つのも簡単じゃないけど、勝ち進めば必ずどこかでぶつかる」
少年に花を送ったその口で、今度は物騒な言葉を嬉しそうに語る『車輪剣』の剣闘士。
「ロロナ?」
「またやろうね。前みたいな、ううん――もっとすごい剣闘を」
それは、宣戦と呼ぶにはあまりにも甘く、好意と呼ぶにはどうしようもなく透き通っている――ロロナ以外の誰にも出来ない表情だった。
●
ルミルという少女にとって、その光景はいささか以上に刺激的な光景だった。
「……うぅ」
「ルミル、やっと来た……何だその顔は」
歩いている間も、一向に気持ちが落ち着かず、兄のぎょっとしたような声掛けにも反応するゆとりはない。
カタナに一緒に待ち合わせの話しをしそびれたと思い出して駆け戻ったルミルが見たのは、すらりと背も髪も長い女性に花を渡されているカタナの姿。その女性はどこかで見かけたこともあった気がするが思い出せない。だが少なくともルミルよりは遥かに「大人」なのはわかる。
結局、声を掛けることも姿を現すこともできず、ルミルは兄のところへ走って――逃げて来てしまった。
「……お兄ちゃん、わりと背高いよね」
「何?」
「あたしもその位まで伸びる?」
「いや、知らんが」
役に立たない兄である。
仮にルミルの背が伸びるとしても、それまでに何年かかるだろうか。そしてその頃には、カタナだってもっと大人になっているだろう。
急に、自分が子供であることが恨めしくなってくる。低い背もめりはりに乏しい身体も、声さえもが厭わしい。
「……お兄ちゃんは、自分よりも強そうな相手と戦う時ってどうするの?」
「なんだいきなり」
「いいから、教えて」
訝しげな兄を、据えた眼で押し切る。コーザはしばし応えてやるべきか悩むように黙っていたが、やがて頭をガリガリとかき回してそっぽを向く。
「そもそも相手を強いと思ってしまうのは、自分が足らんからだ。実力が、心根が、自分で自分を信じきれないから弱気が生まれる」
「うん、それはわかる」
「経験が違う、体格が違う。小手先の理屈や言い訳を用意したって現実は変わらん。自分より強い相手にそれでも負けたくないなら、できることを増やすしかない」
性に合わなかろうが、今までの自分を否定することになろうが、勝つためにできることを。
カタナと組んで『双剣祭』に出ることも、今まで背を向けていた『騎士』の剣を用いることも、コーザにとっては苦渋の決断だっただろう。それでも。
「負けたままの自分でいるよりは、そっちの方が強いはずだ」
強くなるということは、実のところそこまで格好のいいものではない。昨日までの自分が弱かったと認めることであり、ややもすると今までの立ち位置を否定することでさえある。
――ただ、弱さに安住するほどの無様ではないというだけのことで。
「できることを……」
「探すことだな、最初は真似から入ってもいい。その内それも自分らしく馴染んでいく」
「……うん!」
兄の言葉に、妹もまた覚悟を決めたように頷く。コーザとしては自分の剣闘士の心得を語ったことがどういう結果に繋がるか知る由もないのは幸か不幸か。
「よし、じゃああたしもお花探す、あと髪伸ばす! お兄ちゃん行こう!」
「なんで髪の話が出て来る?」
意気上がるルミルは、兄の手を引いて花市に向かって駆けていく。
前言撤回――兄は、察しは悪いが頼れる自慢の兄だったようだ。
●
「リウ」
「……うん」
温室の一隅。花市の中でもとりわけ煌びやかな花たちが咲き誇る中に、その少女は居た。
夏の暑さに加えてこの中の暖気。温室の中は、意外なほどに人気が少ない。
「お目当ては見つかったか?」
「まあね」
暗器使いの少女の眼前に咲いているのは、一輪が人の掌よりも大きいと思われるほどの、大輪の銀の花。陽光と温室の暖気に包まれて、堂々とその花を広げている。
「これ、銀百合っていってね。ボクの亡くなった母親が、一番好きな花だったんだ――初恋の人が、シノバの里で植物の育成と管理の仕事をしてて、貰ったんだって」
「……リウの父親のことか」
「ううん」
そこで、リウはカタナを振り向いた。花と同じ、僅かに青が混ざった銀髪が日に透かされて輝く。
「あの人は、『耳』が良かったからね。里の長老の指図で、同じく『耳』のいい父親と妻合わさられて、ボクを産んだんだ」
「それは……」
「ボクが産まれるのに前後して、父親は死んだ。何でかは聞いてないけど、まあ想像は付くよね」
自嘲するように、と表現するのは間違いか。リウ自身に嘲られることのある話ではない。しかし、その笑いは普段の彼女らしい不敵さも悪戯っぽい明るさもない――どこか不健全な笑みだった。
「女手一つのあの人は、ボクを男として育てた。歴代でも特に優れた『耳』を持って生まれたボクを自分みたいな境遇に置きたくないって言っていたけど、どうだろう? 本当は里への復讐……意趣返しの当てつけだったのかも」
リウはカタナの方を向いてはいるが、その目はカタナを映していない。
「ああ、別にあの人を恨んでるわけじャないし、むしろ感謝してる。ボクも、長老の勝手で子作り命令されるのなんて御免だったしね」
カタナは、その独白には触れない。過去の話をし出せば、カタナのそれも相当なものだがそれは無神経に相手の過去を穿り返す免罪符にはなるまい。
そんな話よりも、リウのどこか虚ろな表情が、妙に気に障る。
「……この花の色、リウの髪に似てるよな。日に当てた色合いなんかそっくりだ」
「そりャまあね。そもそもボクの名前の由来ってこの花だし。あからさまに女の名前で、里ではリウで通してたから、今でもシノバのほとんどのヤツはボクの本名知らないヨ。ククとかもね」
銀色の百合。
望まぬ男との間に産まれた子に、恋した男との思い出の花の色を見出してその名を名付けたリウの母の内心とはいったいどんなものだったのか。今となっては知る者などいないのだろう。
「最近、色々楽しくて、あの人のことなんて正直すっかり忘れてた」
「おい」
「だからかな、いきなりこの花の名前聞いて、ちョっと居ても経ってもいられなくなってさー。でももう気は済んだから――」
「リーリ」
「!」
出し抜けに、『その名』で呼ばれたリウ――リーリウムは、はっと息を呑んで琥珀色の瞳に少年を映す。
「お前にしては、嘘が下手だな」
「な、なにが?」
咎めるような、しかしどこか慰撫するようなカタナの声音に、リウが微かに震える。今まで聞いたことのない彼の響きに、我知らず身体の芯がわなないていた。
「過去のことはいいさ。別に割り切る必要も斬り捨てる必要もない」
誰にだってそういう陰はあるし、向き合い方に正解などない。
「でも、今のお前の顔は、剣闘士じゃないぞ」
「えぇ?」
出し抜けに投げかけられた単語に、リウは絶句する。なんでここで剣闘?
「割り切れない思い出も、捨てられない感情も、隠すんじゃなくてぶつけて来いよ。武器に――暗器に乗せてさ」
「イヤ、そんなの剣闘にもカタナにも、関係ないでしョ!」
「ないわけないだろ! お前は、リーリは俺と同期の、剣闘士仲間だ。だったら――」
――お前の人生全部ぶつけて来い。
「――は」
無意識に、息が漏れる。なんだそれは。
乙女がそこそこ重い話をしたというのに、返って来たのがこんな言葉だ。
剣闘馬鹿にしても最低すぎる。ほとんど貪る獣のような無神経さだ。
「は、はは」
だが不思議と――爽快だ。
まるでカタナの一噛みでまとわりつく陰鬱さえも噛み千切られたかのようで。
「バッカだね、カタナは」
「なんだよいきなり。おれは真面目な話を――」
「これを素面で言えるのがもう馬鹿の証明だよ。もう、本当にキミってば……」
こんな少年は、きっとこの世のどこにもいない。一度縁が別れたら、恐らく二度とは同じ巡り合いは起こらない、奇縁というやつか。
飽きない、目が離せない。確かに、この少年に自分の全てを暗器に込めて叩き付けてやったら、どれほど心地良く、充足することだろうか。
悪意ではなく、好意ばかりでもない。他に名前など付けられない唯一の戦意。これが剣闘士の心得というなら、自分ももう手遅れな剣闘馬鹿だ。
「カタナ、出した言葉はもう引っ込められないヨ?」
「な、なにがだよ」
打って変わって明るく笑うリウに、カタナがたじろぐ。
「全部、受け止めてくれるんでしョ? それなら、今後はもう一切遠慮はいらないヨねえ?」
「いや、まあ……」
先刻までのように自分の殻に篭られるよりはこれで良かったのだろうが、このリウに『加減無用』というのはあまりにも迂闊な言葉だったかと悔やみかける。
「ほら、カタナ」
「え」
そんなカタナに、少女は傍らに咲く花の中からとりわけ大きな一輪を摘むと、無造作に押し付ける。
「この花、買ってあげるよ。予約の印ね」
「リーリ?」
「ボクはいつか君と本気で戦う。その約束」
自分の全てを暗器に乗せて。そしてカタナの全てを刃に乗せて。
銀色の百合。
自身の名前と同じ花を、カタナに縫い付けるように持たせる。この温室のすぐ外でのロロナとのやり取りを、まさか自分の『耳』が聞いていないわけがあるまい。
この『耳』も、花の名前も、時には中々役に立つ。
シノバの里のリーリウムは、産んでくれた親と貰った名前に、少しだけ感謝したい気分だった。
●
夏の祭りの日も暮れて。
「うぅー。つ、疲れたぁー」
ヒューバード剣闘士商会の商会長レレットは、カタナの部屋の寝台に寝そべって弛緩しきった声を漏らした。
「お父さんごめんなさい。レレットはこうなって初めてあなたの苦労を知りました。毎年お祭りに一緒に行ってくれないとかワガママ言ってたわたしがおろかでした……」
朝から組合と祭りの仕事であちこち飛び回っていた商会長殿は、帰って来るなりカタナの部屋に直行し、一日の疲れを全力で癒していた。
カタナは部屋の床に座り、大人しくそれを見守る姿勢である。
「なんか、すまん。こっちは遊んでたのに」
「いいんだよー、カタナは本戦の為に英気を養ってくれれば……。ぐぅ」
「おい寝るのは流石に待て」
幸せそうな顔で瞼を落とそうとするレレットを慌てて揺り起こす。ここで眠られてはカタナは廊下で寝るしかない。
「あー、ごめんごめん。気が抜けたらつい。カタナは、お祭り楽しんだ?」
「そうだな、剣闘士が野良試合やってたのは驚いたな。二つ名持ちも参加してたし」
「あれかー、組合のおじさんたちは、渋い顔してるんだけどね。前に一回禁止しようとしたら、剣闘士のみんなが、そんなことしたら試合に出るの拒否するって、脅かして来たらしいよ」
大分前の事みたいだけど。と困ったように笑うレレット。
「あとは、花市に行って、知り合いに花貰ったよ」
「お花?」
ぴくり、とレレットが顔を上げる。なんだか目が鋭い。
彼女が視線を巡らすと、カタナの部屋の一隅、窓際の小棚にこれまた小さな花瓶が置いてある。昨日まではなかったものだ。
「銀と、桃色と、青」
「ああ。リウと、ロロナと、あと帰り際にルミルがくれた。今度お返しに何か買わないとな」
ルミルがカタナに渡したのは、濃い青の風蝶草という花だ。色は、ルミルが選んだカタナの鎧に合わせたらしい。
何故いきなり、とは思ったものの、ロロナとリウからもらった後でルミルの花だけは遠慮するというわけにもいかず、丁重に礼を言って受け取ることになった。
そこまでは良かったのだが、他にも花を抱えたまま妹に花を贈られるカタナを「マジかお前」と言いたげな顔で無言で見ていたコーザが怖かった。
「リウくん、はいいとして……ルミルちゃんと、あの『車輪剣』の、人、か」
話を聞いたレレットは、あまり似合わない、苦虫を噛んだような表情で花を見る。
闘技場の一戦以降、レレットは妙にロロナに辛い。カタナの知らないところで何か面識でもあったのだろうか。
「うーん。わたしも、お花とか、用意すればよかったかな」
「いや、レレットは今日やたら忙しかったろ?」
「そうなんだけど……」
若くして商会を受け継ぎ、切り盛りする彼女は同年代の少年少女と比べて格段に多忙で、負う責任も重い。フェートンがなにくれと補佐をしてはいるが、繁忙期はどうしようもなく忙しい。
「それに、レレットにはおれから買って来たし」
「え?」
不意にカタナが差し出したのは、真っ白な薔薇の花束。五、六本が束になり、丁寧に棘は落とされている。
「……」
「レレットにはいつも助けられてるし、今日なんかは特に忙しそうだったから、気晴らしになればと思ってさ」
しばし、ぽかんと眼を見開いてカタナが差し出す花を見ていたレレットだが、促されるまま花束を受け取った直後。
「あああぁあー……!」
「レレット?」
喜びとも羞恥とも取れない珍妙な声を上げてカタナの寝台の上をのたうち回った。勢いで髪も服も盛大に乱れるが、花だけはしっかと保持している。
「せっかくの、せっかくの贈り物、もっとちゃんとしてから受け取りたかったー。でも嬉しいぃ、ありがとカタナぁー」
男の子から受け取った初めての贈り物は、仕事終わりに寝台でごろごろしながら受け取りました。レレットの乙女心的には大参事である。もちろん、貰えたこと自体は舞い上がりたいほどに嬉しいのだが。
「あー、ごめん。もっと場面を選べばよかったか」
「ううん、いいの。カタナがそうしたい、って思った時に、したいようにしてくれれば。わたしは、それがいいと思う」
改めて、レレットは手の中の花を見る。カタナから渡されたそれを見るだけで、積もっていた疲労が消えていく。今から朝までだって働けそうだ。
「とっても綺麗。ありがとね、カタナ」
「どういたしまして、次は、『双剣祭』の勝ち星を持って来るよ」
「そうだね。明日には組合わせも発表されるけど、カタナなら、きっと誰が相手でも大丈夫」
と、レレットは、カタナの荷物の中に、まだ花が残っていることに気付いた。
「あれ、カタナ、まだ誰かにお花あげるの?」
「ああ、いや。これは自分用というか……昔の知り合いに。今は渡せるところにはいないから、一応、買ってみただけだけど」
カタナの答えに、レレットは眼を瞬かせる。この少年がシュームザオンに来る以前の話をするのは珍しい。
「向日葵と、これは……」
「麒麟草って名前らしい。地元の山の花なんだけど、探したらシュームザオンにもあったみたいだな。今日初めて名前を知ったよ」
都会ってすごいな、と無邪気に笑うカタナに、レレットも控えめに笑みを返す。
太陽のように大きな花を咲かす向日葵と、対照的に、つつましく静かに咲く小振りな麒麟草。
感謝と弔い――。今は届かないところにいる人たちへの、それがカタナなりの思いの形だった。
●
この翌朝、シュームザオンの夏の大一番。『双剣祭』の組み合わせが発表された。




