決戦と終戦
「なにっ!」
落日の逆光を浴びて、突如踊り込んで来た騎馬に、騎士ヌアジは瞠目して剣を構える。
そいつは、今まさに激突しようとしていたヌアジの部下二名と敵の子供の間を遮るように馬を突っ込ませる。
「う、お、りゃあ!」
「うぐっ!」
破れかぶれにも聞こえる雄叫びと共に手にした長剣が一閃。部下の一人が脳天に剣の平を叩き込まれて昏倒する。
「お前は……アミタか!」
残った部下の叫びに、ヌアジもその「敵」の正体に気付いた。
アミタ=ソーン。自分が率いていた隊の一員。まだ若いが、剣に秀で明朗な性格で周囲に溶け込んでいた、中々見込みのある部下だった。
皇女を追跡する先遣隊に所属しており、部隊そのものが敵の護衛と相打つ形で全滅したため既に戦死したと思っていたが――。
「アミタ=ソーン! 何の真似だっ!」
ヌアジは、この追撃戦で最も激しい激情を見せて、部下だった男を睨む。完全に自分の部隊を統御している自信を持っていたヌアジだからこそ、この明確な反逆行為は彼の逆鱗に触れた。
「……ヌアジ、隊長」
アミタは、その怒声にしかし怯える様子も見せず、振り払うように胸を張って叫ぶ。
「すいません。俺……裏切ります!」
●
言っちまった――。
その瞬間のアミタの脳裏に、そんな言葉が過ぎらなかったと言えば嘘になる。
山道の途中で拾った敵の馬を回収して一気に下ったお陰で、絶体絶命のカタナの危機に駆けつけられたのは良かったが、それはアミタにとっては仲間との決別が決定的なものとなる場でもあった。
「この、反逆者がぁ!」
ヌアジの殺意の籠った怒声に胃の腑が締め付けられる感覚が襲うが、怖気を見せず奥歯を噛んで耐える。
今まで苦楽を共にしてきた仲間たちと道が別たれたことへの孤独感。昨日までの立場を捨ててしまったことへの不安。ずっと上官として仰いでいた騎士へ背くことへの恐怖。
それらは変わらずアミタの胸に残り続けている。
だが今のアミタはもう、それらを言い訳にして剣を振るうことを躊躇しない。
「違うぞ、アミタよ」
そう、彼は新たな主を見出したからこそ、その重圧に耐えることができるのだ。
「この帝国の最高支配者は、皇帝に他ならん! 君主に背いた『獅子』の皇家に従い続けることこそ不忠の極み、逆賊の証しである!」
アミタの後方、黄金色の夕日を一身に浴びて進み出るのは、騎乗した第一皇女、ラファエラ=イヴ。
「胸を張れ、アミタ=ソーン。皇女の名の元に称えよう、今の汝は裏切り者などではない、正道を歩む勇士である!」
それはまるで、おとぎばなしの一幕。
光輝を纏う皇女の言祝ぎに、アミタは今まで感じたことのない興奮を感じざるを得ない。
――これが、王者。人を率いる資格を持つもの!
「御意!」
身体の裡から湧き上がる清々しさに、戦意が燃える。
「皇女? なぜ、自分からこんな所に!」
「うおおぉ――!」
突然眼前に現れた標的に戸惑いを見せたヌアジの隙を逃さず、アミタは馬を駆って斬りかかる。
今なら、たとえ『闘技王』にだって臆さず戦いを挑める気がした。
●
カタナ=イサギナは全身の傷も、先刻まで戦っていた敵も忘れ、眼前に降り立った人の姿に愕然として見入っていた。
「カタナ! 無事……」
「なんで、なんでここに来た!」
「……の、ようだな。まあ落ち着け」
ラファエラ=イヴは、乗って来た馬を手慣れた様子で宥めると、今にも崩れ落ちそうなカタナの身体を抱き止めるように支えた。
「全く、随分暴れたな。だが、お主が生きていて良かった」
「そんな、そんなことを言ってる場合か! 何で逃げなかった?」
カタナは、激しく首を振って問い詰める。彼が命を捨てても守りたいと思った存在が、彼のために死地に足を踏み入れてしまうなど、本末転倒だ。
「逃げる? それは、皇族の道ではないな」
しかし、ラファエラは、カタナを安心させるように太陽の色の眼を細めて笑いかける。
そして、カタナの肩を優しく撫でて、言葉を継ぐ。
「我が目指すのは、勝利の道だ」
「勝、利?」
カタナは、呆然とその言葉を聞いた。
勝利。まるで初めて聞いたように、新鮮な響きが耳をくすぐる。
「そう。我のために命を散らした護衛隊、老体を押して駆けつけてくれたカーン=ハイド、今も戦っているアミタ=ソーン。……そしてお主がもたらした、勝利だ」
そこで、ラファエラはカタナの眼を覗き込むようにして視線を合わせた。
「だが、本当はお主に頼りたくはなかったよ。守るべき民に助けられていては、皇族の威厳というものが……おや、確か我は前もお主にそんなことを言ったな?」
ラファエラの眼が、悪戯っぽくカタナを見る。
「本当に、無事で良かった。民が王を心配させるな、不敬だぞ?」
「そんな心配……」
戸惑ったように、カタナの眼が逸らされる。胸に、むずがゆいような、しかしどこか甘やかな感触が灯る。
「いいかカタナ。我のことを思ってくれるなら、今回のように身を捨てようとなどするな。お主は幸福になれ。民の幸福こそが、王の価値を決める」
ラファエラの呼びかけに、カタナは無言で顎を引く。「幸せ」など、ついさっきまで欲しいとも思えなかった言葉が今は何故か胸に染み入る。
「よろしい。ではお主が道を見出せるよう、我がお主を守るよ」
「え……?」
その、どこか年上ぶった台詞と同時、ラファエラが静かにカタナを離し、立ち上がった。
直後――。
●
「くっ!」
「隊長!」
馬上から斬り付けられる剣勢に、ヌアジが一歩退く。それを見て、慌てた様に部下が加勢に飛び出してくる。ヌアジに残った、最後の部下だ。
「おのれ、標的を目の前にしておきながら……!」
振り下ろされる剣を弾きつつ、血走った眼で皇女を睨むヌアジ。皇女は下馬し、肩で息をして片膝をついている子供を支えている。ヌアジのことなど、既に眼中にないと言いたげに。
血と泥濘に穢れきったその者に躊躇わず触れる姿に小さくない驚きを感じつつも、今ヌアジの脳裏を占めるのは、憤怒と焦燥だった。
思えば、この追撃戦は最初から想定外の連続だった。
帝都郊外で包囲網を潜り抜けられたことに始まり、追撃に出した百名近い先行隊が半数以下の護衛に相討ちに持ち込まれた。
皇女が単身逃げ込んだ森に兵力の大部分を投入すれば、孤立した敵の妨害で未だに一兵さえも森を抜けられずにいる。
いよいよ追い詰めようと自ら率いた騎馬隊は、得体の知れない小僧一人にほぼ壊滅状態という体たらく。
そして最後に、この裏切り者。
アミタさえいなければ、残るは死にかけのガキと皇女の二人のみ。小隊の一つでもあればたかが一人の裏切りなど何ほどのこともないというのに、その兵力が無い。
(いや、削り取られたのか? こいつらによって!)
今の今まで、ヌアジは油断していた――させられていたのだ。敵は小勢、標的は無力な子供と決めつけて、減らされていく兵力にさえ無頓着になっていた己に気付かされる。
「まさか……!」
皇女の逃走は、決して無意味な足掻きではなかった。これは、敵を引き込み、伸びた手を狩り獲る――戦術だ。
ヌアジが狩りの気分で「追撃」している間、ずっと皇女は「戦闘」をしていたのだ。逃走ではない、闘争を。
つまりヌアジは、最初からラファエラに負けていたのだ――将として。
全てが計算通りではなかっただろう、運に助けられた部分も大きいはずだ。
だが恐らく皇女ラファエラは、常にこちらの戦力を削りつつも、味方が駆けつけるための時間を稼ぎながら「後退」し続けていたのだ。ただ闇雲に「逃げた」わけではない。
この場所、深い森と山脈のある地を目指したこともその一環。馬に向かない、兵力の利を発揮できない「戦場」へとヌアジを引き込むことが狙い。
そしてここに至って、ヌアジは初めて恐怖を感じた。
任務を果たせないことへの恐怖ではない、死の恐怖を。
「まだまだぁ!」
「おのれ、おのれぇ!」
騎乗した相手という不利があるとは言え、ヌアジを含む二人がかりでもアミタ一人を討ち取ることができない。それどころか、明らかに押されている。
ヌアジの記憶よりも格段に重く鋭いアミタの剣。これを引き出したのがあのような年端もいかない少女の言葉一つだとは、この眼で見ても信じられない。
「隊長……いや、ヌアジィ!」
「ぐ……! 貴様っ」
「覚悟!」
弧を描いて振り抜かれたアミタの剣がヌアジの剣を弾き、首を掠めて上級騎士の肩を抉る。
指揮官の筈の自分が戦闘を繰り広げ、手傷まで負わされる。
これではまるで――いや、完全に――負け戦だ。
「う、うおぉ……」
このままでは、死ぬ。
痛みと共にそう意識した瞬間、ヌアジの意識で、張り詰めた糸が一本切れた。
「お、おい、命令だ! ヤツを最期まで足止めしろ!」
裏返った声で叫ぶや否や、ヌアジは最後に残った部下を残して背を向けて走り出す。
二人でも追い詰められている状況で、一人が離脱したらどうなるか。考えるまでもないが、ヌアジには僅かな逡巡もない。
「えっ……隊長? 何を!」
驚愕と絶望の叫びを上げる部下の声など端から無視して、ヌアジは駆ける――子供を支えたままの皇女に向かって。
要は捨て石。ヌアジは、自分に最後まで付いて来た部下を、アミタを足止めに使い捨てて皇女を捕らえにかかったのだ。
「ヌアジっ、部下を見捨てて逃げるのか!」
アミタの怒声にも、ヌアジの足は緩まない。どころか屈辱を感じることさえなかった。
(それがどうした! 兵など最初から俺の駒だ、指揮官が効果的に使って初めて奴らには価値が産まれる!)
逃げながら――当人の意識はどうあれ、それは誰の目にも明らかな逃走だった――ヌアジの顔には笑みが浮かぶ。
「皇女ぉ! 貴様さえ、貴様さえ手に入れれば、俺の勝ちなんだあぁ!」
彼女を人質にすれば、あの裏切り者も、森で生きているかもしれない護衛も手を出せまい。
――俺だけは生き残れる。
その笑みは、勝利を確信した指揮官のものではなく、ただただ命を拾おうと恥を捨てて必死に足掻く――哀れで卑小な敗残者のような、引きつり歪んだ笑みだった。
この瞬間、最後の最後の局面で――逃げる者と追う者の立場が逆転したのである。
●
「あいつ――ぐっ!」
剣を振りかざし、こちらに突進してくるヌアジに、迎え撃とうと跳ね起きかけたカタナはしかし半ばでその動きを止める。
「何で……何で動かない!」
全身の傷と失血、戦い通しの疲労は、カタナの幼い身体の限界をとうに超えていた。少年は、狂ったように地に爪を立てるが、その足は力なく揺れるのみ。
「動け、動けぇ!」
自分が戦わなければ――そんな強迫観念に襲われるカタナに、場違いなほど明るい声が降って来た。
「しょーがない! ここは一つ、我に任せておくがよい!」
ラファエラ=イヴが、カタナを守るように、ヌアジの前に立ちはだかったのだ。
「ラファエラ! 何を――」
「言ったであろう? お主を守るよ」
地に伏せたまま愕然と顔を上げるカタナ。背中越しに答えた皇女は、両腕を広げて敵将にその身を晒す。
「皇女オォ!」
「殿下っ!」
狂奔するヌアジと、最後の敵を斬り伏せて彼を追うアミタ。しかしその距離を馬が詰めるより、もはや将ではなくなった男が皇女を捕らえるのが数秒早い。
「捕らえたぞ、第一皇女!」
「ラファエラ!」
狂喜のヌアジと悲痛のカタナ。両者の叫びの中間で、素手の筈の皇女の右腕が一振り。
「こぉれでえぇ、俺の勝、ち……?」
無防備な少女の首を、武骨な男の手が掴み寄せるその瞬間――。
「下郎が。我に触れるを誰が許したか」
ヌアジの手首が、ラファエラによってあっさりと斬り飛ばされていた。
●
「――あ、ぁ?」
ヌアジは、だらしなく口を開いて呆然と己の手を見た。
否、正確には勝利を掴む寸前で消え去ってしまった己の手首があった場所を。
「この首は、カタナにしか許しておらんのだ。お主ごとき下賤には、薄皮一枚触れさせんよ」
冷厳という言葉を体現するような声音と共に、再びラファエラの右手が翻る。
そしてヌアジは、そこに奇妙なものを垣間見る。
(手の先、血が、『何か』に、纏わりついて――)
その認識が形を結ぶよりも早く、皇女の手に握られた『見えない何か』は、ヌアジの胸を貫いていた。
「ごふっ……! こ、これ、は?」
致死の刃を身に受けて、初めてヌアジは正気に戻ったように己を殺したモノの正体を知った。
「『異装十二剣』、第十一番。――『明鏡剣』」
ヌアジの血に濡れて、その輪郭を露わにしたのは、短剣よりもやや長い程度の小剣。
犠牲者の血に濡れて初めて姿を見せる、その剣は――。
「……不可視の刃、だと?」
握る柄まで透明な、通常の金属ではあり得ない異形の刃であった。
「一切の光を透過する精霊水晶を削り出したのち三日三晩磨き抜いた、名工ヤサカ=テンゼンの傑作。一度人を斬れば徹底的に磨き直さねば二度と使えぬ、一度限りの暗殺剣である」
だが、その一度はいかなる者にも察知することはできない。使い手の技量も敵の強さも無視した、文字通りの必殺となる。
「……な、なぜ。おま、えが」
血の気の失せていく顔で、ふらつく身体をようやく立たせて、ヌアジが呻く。
『異装十二剣』。それは、世に名高い奇剣の総称。剣闘士や戦士が目の色を変えて求めるその武器を、なぜ、皇女が手にしているのか。
その言葉にならぬ疑問に、ラファエラは誇るでもなく淡々と答える。
「知れたこと。献上されたのよ、製作者たるヤサカ自らにな」
●
『異装十二剣』の第十一番、『明鏡剣』。
それを造り上げたヤサカは、傑作の完成を喜ぶと同時に、非常な危機感に襲われたという。
「この剣は危険過ぎる」
第一に、その暗殺に向き過ぎた特性。
武装を気付かれないまま対象に接近でき、どんな相手にも攻撃を見切ることができないこの剣は、その気になればいくらでも人を殺せてしまう。
第二に、この剣は使い手を選ばない。
第十番、『車輪剣』を筆頭に、『異装十二剣』とはその尖りきった特性故にいずれも使い手を選びすぎる欠点があったのだが、この『明鏡剣』だけは例外だった。
一度限りであれば、誰にでも使いこなせる。
例え戦士ではない少女であっても、歴戦の戦士を瞬殺できるほどに。
あるいは、その汎用性こそがこの『明鏡剣』の真の特性と言えるかもしれない。
いずれにせよ、この剣は世に出すわけには断じていかない。ヤサカはそう考えた。
幸い、材料となる精霊水晶はかなり希少かつ高価な鉱物であり、加工するにも相当の技術を要求されるため、他の職人が同じものを造り出す可能性は低い。
彼はいっそ『明鏡剣』そのものを破壊して葬ろうとも考えたが、剣匠としての矜持がそれを拒んだ。
悩んだ末にヤサカは、この剣を誰にも見せないまま皇帝への献上品として贈ることにした。全体に装飾を施した、単なる飾りの剣と偽って。
精霊水晶製の美術品として皇宮の宝物庫に封じられれば、この剣は人の手に触れることはないと考えて。
このため、彼の実の娘であるロロナ=アンゼナッハさえも、この『明鏡剣』については名前以外何も知らされていない。故に彼女はこの謎の剣の探索には非常に苦慮することになるのだが、それは後の話である。
●
「この『明鏡剣』の正体に気付いたのは、父上だ。装飾を外してしまえば、誰にも見えない剣となるとな。そして、十歳の祝いとして我に与えた――あくまでも護身用として、な」
父がこの『明鏡剣』を暗殺に用いることなく娘の自分に与えた理由はラファエラにも分からない。恐らく父なりの哲学があった上での行動だとは思うが、聞いても答えは貰えなかった。
「正直、途中で何度これに頼ろうかと思ったかは数え切れんが、一対一でないと奇襲の効果は薄れるし、先も言った通り一度限りの切り札なのでな」
ラファエラに敵が迫る度に、カタナが、カーンが、彼女を救い出していったからこそ、この最終局面で、ラファエラたちは勝利を掴むことができたのだ。
「貴様、ヌアジとか言ったな」
「――お、のれ」
そしてラファエラは、将として、将であることをやめた男に最後の言葉を宣言した。
「この戦、我らの勝利だ。そして……」
陽が落ちて、夜が来る寸前に放たれた言葉と共に、ヌアジの身体が崩れ落ちる。
「貴様の……負けだよ。貴様一人の、な」




