皇女と獣
帝国。
正式名称、帝政国家ハイトザイム。
大陸の大部分を版図とするこの大帝国の礎となったのは、五百年前の建国帝シュナムザード。
当時大陸を支配していた神権王国の地方豪族の跡取り息子であったシュナムザードは、腐敗し堕落した旧国家の臓物を喰い破るように兵を挙げ、国内の不満分子や世を憂う有力者たちを糾合して瞬く間に一大勢力を造り上げた。
シュナムザードは自身も戦上手の猛将であったが、彼の最大の力は他人の才を見抜く力――より正確には隠された才を開花させる力であった。
彼が重用した人物たちには、前歴からは想像もできない才能を発揮した人物が数多くいた。
元は山賊の頭目でありながら政治の才を発揮して宰相位に任ぜられたアダン=オード。
異端者として破門された神官という境遇から練達の外交官として名を馳せたトナドーナ=ディオン。
更には一介の男娼の身からシュナムザードに見出され百戦百勝の将軍へと成り上がったアーサー=エッジ。
彼ら以外にも、シュナムザードによって眠れる才能を引き出されたものたちは数多い。
シュナムザード一党の反乱――帝国史が語るところの正統なる決起――が成功したのには、そうした異能の臣下たちの献身と忠誠が最大の要因であることは間違いない。
その中で一際巨大な功を残したのが、シュナムザードの三人の息子だ。
その三人は父帝からそれぞれ一軍を与えられ、各々の裁量によって大陸各地を攻略し、帝国の版図を拡大していった。
長兄が中西部の穀倉地帯を手中に収めれば、次兄は北方の諸部族を平定した。
次兄が旧王国の要塞を陥落させれば、末弟が南方の独立国家に臣下の礼を取らせた。
末弟が敵の王族を捕らえて自害させれば、長兄は有力貴族の娘と婚姻を結び王国から離反させた。
彼らは競うように手柄を上げ、争うように父に栄光を積み上げた。
そうして大陸を所狭しと駆け抜けた三兄弟には、それぞれ獣の異名が付いた。
『獅子』のディザスタ。
『大鷹』のアシスト。
『海竜』のメビウス。
後に彼らはそれぞれ一家を構え、三つの皇家を並び立たせた。
――世に言う、『神獣の三皇家』である。
●
「――」
その『神獣の三皇家』の一つ、『大鷹』皇家末裔の姫であるラファエラ=イヴは、呆然と眼を見開いていた。
「餌ィ――!」
人語とは明らかに異なる奇怪な叫びと共に、黒い影が地を駆けていた。
その跡に残されていたのは、首を刈られて倒れ伏す追っ手の一人。びくびくと痙攣するように手足を跳ねさせていたが、程なく完全に絶命し動きは止まるだろう。
「何だ!」
「敵襲か?」
仲間が倒れたことに驚き振り向く残りの刺客たち。ラファエラを取り囲んで追い詰めていた彼らには、その「影」の声は聞こえても姿は捉えられない――今もなお。
「シャハッ!」
「ごっ!」
立木を背にしていたラファエラだけが、その「影」の動きを辛うじて追うことができていた。
低く沈める身体を足元の草をかき分けるでもなく滑るようにすり抜けて、二人目の喉を抉り取る。
その時、地から跳び上がった姿は、帝国の姫の眼に強烈な印象を持って焼き付いた。
真っ赤に輝く二つの眼。
牙を剥くように開かれた口元。
少女よりも一回り小柄な体格。
二本の腕と二本の足。
そして、その右手に構えられた、鈍く光を反射する小振りな刃。
(剣を持った……獣?)
ラファエラは、一瞬自分の脳裏をよぎった言葉を己で疑ったが、しかしすぐにその惑いを否定する。
(いや、違う。アレは……人間だ!)
手を地に着いた異様な格好に全身泥まみれになった出で立ち。そして同じく汚れて乱れた黒い髪。
およそ少女の感覚では有り得ない有様であったが、それでもあれは人間だと分かった。
あれは、獣のような――人間だ。
ラファエラは、その場に立ち尽くしたまま、ただその異形に見入っていた。
●
その異形の獣――カタナであった獣は、微かな苛立ちを感じていた。
――急がないと。
その苛立ちを言語化すれば、そんなところになるだろうか。
首尾よく二人の獲物を狩ることができたが、残りの連中は少し面倒だった。
「何だこいつは?」
「ここまで来て邪魔をさせるか!」
彼を遠巻きに囲んで剣を構える三人の雄。奥には子供の雌も居るが、アレは武器を持っていないので警戒は要らない。
「殴ぉお!」
叫び、最も近くにいた一人に跳びかかる。振り下ろされる剣を躱しつつまた喉笛を狙うが、今度は横合いから伸びて来た別の奴の剣に邪魔される。
「ぐ、すまん!」
危うく命を拾った雄が慌てて後退して構え直すが、獣はそれに大した注意を払わない。
「くそ、何だこれは、化け物か?」
「わからん。人にも見えるが、それにしても……」
遠く、獣のざわめきが近づいて来る。
――ヌシだ。
この森の頂点に君臨する、一角虎の長がこちらに迫っていることを、彼は感じていた。
二十年近く生きたそのヌシは彼の数倍の体重を持つ巨体で、なおかつこの森で最も速く駆ける存在だ。
その巨体と速度を乗せた角の一突きは人間の胴など軽々と貫き通す凶器である。
年経た分だけ猜疑心と排他心が強く、外敵には怒りを露わにして襲いかかる「そいつ」が、こんな侵入者を見逃すはずがない。
そして、獣にとっても「そいつ」と出遭うことは是非とも避けたかった。今まで何度も獲物を横取りされ殺されかかった相手であったし、特に春先にヌシと争いその片耳を斬り飛ばして以降、彼は目の敵にされていたから尚更だ。
できればさっさとこの場を離れたいが、せっかくの獲物を逃すのも惜しい。しかし、この雄たちは重そうで自分では運ぶのが一苦労だ。
と、そこまで考え、獣は気付いた。
――あそこに運びやすい雌がいるじゃないか。
一度方針が決まれば後は速い。獣は手を地に着いた構えから、ぐっと身を屈める。
「バアァァ――!」
そして、解放。
「なにっ?」
「消えた!」
愚鈍に騒ぐ雄どもを一気に追い抜き、奥に突っ立っている子供の雌へと駆け寄った。
「え……きゃっ!」
反射的な抵抗を無視して、自分よりは少し大きいがそれでも軽い身体を担ぎ上げる。
そしてそのまま、獣は脇目も振らずに駆け出した。とにかくヌシに見つかる前にこの場を離れなければならない。
「皇女が!」
「しまった、追うぞ!」
「仲間」を取られた人間が泡を食って追って来るが、たとえ荷物を負っていてもこの森で人間に追いつかれるわけがない。
この時獣は、ただの食料として少女を人間たちから奪い取った。
だが結果的に。これこそが、五百年続いて来た帝国の歴史を大きく変える出来事となったのである。
そして、そんなことは知らぬ獣は、ひたすら森の奥へと駆けてゆく。
ただ、鼻孔に届く少女の匂いが、忘れていたはずの獣の記憶を僅かに刺激したことにも気付けずに。
●
そして、取り残された三人の男たちは、人影の見えなくなった森の中で悔しげに足を止めた。
「くそっ! 見失った!」
「ここまで追い詰めていながら、みすみす逃がしてたまるか!」
彼らの表情には焦りがある。ようやく敵対する皇家の姫を手中に収めたと思った直後、見たこともない「化け物」に襲撃され、まんまと皇女を逃がしてしまったのだから無理もない。
彼らは皇女ラファエラを捕らえるために数百人からなる部隊を編成しており、その内百人を今回失っている。成果なしで終わるわけにはいかなかった。
「しかし、この広い森を我らだけで探しても埒が明かない。まだこちらに向かっているはずの本体と連絡と取って応援を呼んだ方がいいだろう」
短い打ち合わせの結果、二人がこのまま皇女を連れ去った怪物を追い、一人が森の外の味方へと知らせに走ることにした。
「ぬかるなよ」
「そっちも、気を付けろよ」
そう言葉を交わし、仲間たちを見送った男は、すぐに来た道を引き返すべく走り出した。
「……暗い道だが、来た時の痕跡を辿って行けば」
そう見当を付け、自分たちが踏破して来た道をなぞるように走る男だったが、彼は一つ失念していた。
「――グウゥルアアァァ!」
人が通った痕跡は、他の動物たちにとっても明らかな目印になるということを。
「――なっ!」
木立の隙間から、ぬっとその姿を現したのは、なぜこんな近くに迫るまで気づかなかったのかと目を疑うほどに巨大な一頭の虎。
その額からは馬上槍のように物々しく鍛えられた一本の角。爛々と瞳に怒りを宿す顔には、右の耳が千切れてなくなっているが、それでそいつの威容が損なわれているわけでは全くない。それどころか、歴戦の傷こそが彼が長きに渡ってこの森に君臨してきた証であった。
「う、ぅわあ!」
そんな獣と一人で相対することになった男は、戦士の矜持も使命も忘れ、遮二無二逃げ出そうと走り出す。
だが、人間と肉食獣が速さで競っても勝負になるわけがない。
「グオォォルアァ!」
「ひぃ!」
数秒すらかからず、男は一角虎に噛みつかれ、そのまま一気に組み伏せられる。
自身の三倍を優に上回る体重で爪を立てられては、もはや男に脱出の望みはない。
と、思われたが――。
「何だ。畜生か」
いきなり近くから響いた冷ややかな声と共に、透徹した輝きを持つ刃が空を裂いて振り下ろされ、虎の残った片耳を斬り飛ばした。
「ギィイィ、ゴオォォ――!」
獣の絶叫。男の上から死の気配が離れていく。
傷つけられた痛みに激昂した一角虎は、己に逆らう愚か者へと飛びかかる。
「ふむ」
森の主の咆哮を前に平然と構えているのは、老いた男である。
金の瞳は静けささえ感じさせる平静を保ったまま、巨大な獣を眺めやり。
「――三連斬鉄剣」
瞬転三閃。
剣の姿さえ見せぬその絶技は、一角虎の角を斬り飛ばし、額を深々と断ち割り、首を抉って神経・血管・気道のことごとくを破壊していた。
どう、と腹に響く音を立てて、森の生態系の頂点に立っていた一匹の獣は、敵に一矢報いることもなく討ち取られていた。
「あ……え?」
呆然とした声を上げるのは、九死に一生を拾った刺客の男だ。目の前の現実に対して、何の理解も及ばず、ただ自失していた。
だから。
「選べ」
「え?」
息も乱さず自身の眼前に立った老人が、虎の血に濡れた剣を突きつけて来ても、間の抜けた返事しかできなかったのだ。
そんな男の様子に何を感じるでもなく、その老剣士は冷然と言葉を繰り返す。
「選べ。全てを話すか、それとも死ぬか」
『闘王殺し』カーン=ハイドの言葉に、男は抗うこともできずに、ほとんど無意識のままに屈伏していた。
●
「――全滅だと?」
多くの出来事が連続して起こっている森の外縁部で、ヌアジ=バーザックは眉をひそめた。
齢は三十手前。全身を騎士鎧で固めた堂々たる男ぶりの戦士であったが、彫りの深い顔に今宿っているのは不機嫌と怪訝の混合物だ。
「百人からの部隊が生存者なしとは、流石は『大鷹』の精鋭戦士団か」
「しかし、敵の人員はほぼ壊滅。もはや皇女の捕獲を阻むものはありません」
報告して来た部下が胸を張って言うのに、ヌアジは赤い短髪を乱暴に掻き回して言下に斬り捨てる。
「ここでまんまと逃げられてる時点でいかんのだがなあ。本来ならもうあの姫君を帝都に引き摺って出立してなきゃならんところなのに」
「それは……」
口篭る部下を置いて、ヌアジは整列する配下に号令をかける。
「これより森の探索に取り掛かる! 近隣の村に物資を集積して拠点せよ。それから部隊を十人一組として編成し、三十組で探索を開始。総勢三百人で森を攻略する! 丸ごと焼き払ってでも皇女を見つけ出せ!」
鬨の声を上げて動き出す旗下の兵たちを眺めやり、ヌアジは思いを馳せる。
「……かつて、帝国の皇帝は、『神獣の三皇家』から最も優秀なものを選び出して定められていた」
建国帝の三人の息子。
彼らの立てた皇家はそれぞれが同格であり、代々の当主の中で最も能力が高く人望を集めたものが皇帝となり帝国を舵取りして来た。重鎮である選帝者たちの公正な判断によって、帝国は名君、良政の時代を保ってきた。
「しかし、その良き時代も今は昔。現在は勢力を伸ばした『大鷹』の皇家が帝位を二百年以上独占し続けている。『海竜』も、そして『獅子』も日陰の身だった……」
建国から三百年経つ頃には建国当初の理念も失われ、政争で勝利した『大鷹』が実質的な皇帝家として権力を握る事態となった。
「だが、それももう終わりだ。『大鷹』を根絶やしにし、我が主君たる『獅子』の皇家が真の帝国を取り戻す!」
帝国歴522年。
長きに渡る帝位の独占を不服としてきた『獅子』皇家当主ヒュードが、皇帝の死を契機として決起。帝都ウォストミンスターを武力占領した。
追い落とされた『大鷹』の皇家は多くが捕らえられ、あるいは殺されたが、乱を察知した皇太子でもある当主とその一人娘は難を逃れた。
『獅子』皇家の決起から一月後、皇太子は素早く兵を纏めて帝都近郊に軍を進め、『獅子』皇家軍と小競り合いを繰り返しつつの睨み合いに入った。
多少の騒乱は在りつつも概ね平穏な時を長く過ごしてきた帝国に突如巻き起こったこの内乱は、『獅子皇家の乱』として帝国全域に混乱をもたらした。
それからさらに二か月後。
この北方の山地において、帝国の歴史を左右する『大鷹』の姫を巡る戦いが巻き起こっていたのだった。




