誇りと嘆き
「お、おい。お主、いい加減下ろしてはくれまいか?」
帝国の皇女ラファエラ――。
彼女は皇太子の一人娘という高貴の身としては何とも不釣り合いな状況に身を置いていた。
「いや、危ういところに駆けつけて貰った身としては礼を言うべきなのであろうが、流石に担がれて運ばれると我が身の威厳というものが……おい」
荷物扱いで肩に担ぎ上げられたまま自らを負った人物に声を掛けるが、まったく反応がない。
そもそも一大国の支配者の血を引く皇女ラファエラがこの辺境の森で独り彷徨っていたのには、無論深い訳がある。
五十年の長きに渡り君臨していた前皇帝――ラファエラの祖父が崩御したのが、今から三月ほど前のことである。
それを契機として帝国三皇家の一つ、『獅子』の皇家が『二百年の長きに渡って不当に独占されてきた帝位を奪還する』という声明と共に兵を挙げた。
密かに呼び集めた戦力を皇宮に一斉に雪崩れ込ませ、先帝の葬儀と新帝の即位のために集まった貴顕を抑えにかかったのだ。
この奇襲は、半ばは成功し、半ばは失敗した。
多数の有力貴族の身柄を抑え、敵対勢力たる『大鷹』皇家の多くを討ち取ることには成功したものの、最大の標的を取り逃がしてしまったからだ。
即ち、皇太子にして『大鷹』皇家当主アムゼカンドと、その一人娘ラファエラを。
危機を察したアムゼカンドは、娘に近衛兵の全てを付かせて帝都から逃がすと自らは後宮に立て籠もって時間を稼ぎ、そしていよいよ突入される直前、側近と共に皇帝とその後継者しか知らない緊急通路から脱出したのである。
帝都を脱したアムゼカンドは、即座に『獅子』皇家の討伐を宣言し、次期皇帝としては兵を率いて帝都周辺を封鎖した。
帝都を手中に収めた『獅子』皇家は自らに同調した貴族と連携して包囲網の一角を打ち崩したものの、そこで勢いは尽きて戦線は膠着した。
因みにこの騒乱の中、残された第三の皇家である『海竜』皇家は未だ中立を保っていた。
『獅子』『大鷹』両皇家からは助力するよう求める知らせがひっきりなしに『海竜』皇家に送られたが、彼らはのらりくらりと明言を避け、膠着する戦況を見極めようとしていた。
どちらが勝つか。自分たちの参戦を最も高く売りつけられるタイミングはいつか。『海竜』皇家がそうした計算を巡らせているのは明らかだった。
そうした戦況の中、近衛とともに姿を消していた第一皇女ラファエラ。帝都を脱出した彼女は、執拗な『獅子』の追撃から逃れて以降消息不明となっていた。
混乱した情勢下で父と引き離された幼い皇女の存在は、『海竜』皇家とはまた違った意味で敵対する両勢力双方の求めるものとなっていた。
『大鷹』にとっては、当主の愛娘であり、また一族に残された後継者として。
『獅子』にとっては、仇敵の娘であり、また極めて有用な人質として。
そしてつい先日。『獅子』皇家軍の部隊が『大鷹』側に付いたヴィーエン辺境伯領の近辺にて皇女ラファエラと思しき少女を連れた一団を発見。即座に追撃を開始した彼らは、皇女一行を北方大山脈へと追い詰めることに成功したのである。
●
そして、ラファエラは今ここに居る。
敵兵に襲われ護衛とも離れ、一人森を逃げていたところを、この少年に攫われるように連れて行かれたのだ。
どうしたものかと思って揺られつつ、その人物――少年を観察する。
みすぼらしい、と言うのも生温いほど汚れきった風体。こうして運ばれただけで、上等な仕立ての貴族服は真っ黒に汚れてしまっている。もともと森の中を駆け回ってついた汚れよりもはるかに酷い状態だ。帝都に残して来た使用人たちが見たら悲鳴を上げることは間違いない。
しかし着ている本人はそれを気にした風もない。それよりも、自分を担いで駆ける人物へ話しかけることの方が大事だと言わんばかりの態度で言葉を継ぐ。
「しかしお主、我と変わらない歳であろうに力が強いな。人を背負ってよくそんなに走れるものだ。いや、さっきはもっと速かったかなあ」
あれこれと声を掛けるがやはり返事はない。だが、それでもラファエラは声を掛け続ける。
「そうだ、お主はこの辺りには詳しいのか? この森を安全に抜けてここら一帯を統べるヴィーエン家と接触したいのだが。あと置いて来た家臣たちがどうなったか探りたい。それとどこか休める場所でもあると言うことはないのだが……」
ひたすらにとめどなく。もはやちょっとした意地になっているかのように語り続けるラファエラ。その様子に焦れたのか、少年が速度を落としてちらりと彼女に振り返る。
「む、何か心当たりでもあるのか? おわっ」
どさり、と草生した地面に落とされて目を白黒しているラファエラの正面に、少年がゆらりと立つ。
「……」
「どうかしたのか?」
周囲に厳重に守られながら育ってきた少女には想像もできないだろう。この時の少年には、ラファエラを助けたという認識など欠片もなく、ただ周囲に敵の気配のないところまで獲物を運んできただけのことだということなど。
「ここからは自分で歩けと言うことか? まあそれはそれで構わんが……おっと」
そうして、自らに迫る危険に無自覚なまま立ち上がりかけたラファエラは、しかし疲労か運ばれて平衡感覚が狂っていたか、バランスを崩して尻餅をついた。
その眼前を。
「あ――?」
血錆びた鉈の一閃が鋭く切り裂いた。
●
「!」
外した。
少年はちょっとした驚きを感じて目の前の獲物を見た。
狙って躱したわけではないだろう。たまたま偶然、喉笛を掻き斬る軌道から逃れただけだ。
もう一度、今度は確実に鉈を振るえばこの煩い人間も肉塊となって自分の糧となる。
気を取り直し、獣そのものの無感動で鉈を振りかぶる。
だが、そこで鉈の動きは縛り付けられたように止まった。
「――」
やや開けた頭上の樹の隙間から、太陽の光が降ってくる。
暗がりの森から、ここだけが切り取られたように明るい。
少年と少女は、その空間の中央で向かい合っていた。
そして、光を浴びた少女の銀の髪が月のように輝きを反射する。
朱い金眼が、それ自体が燃えているように意思を込めた眼差しを少年に向ける。
「貴様、いい加減にしておくがいい」
太陰と太陽。
二つの大天星は、即ちこの世の全てを司る、森羅万象の支配者。
「何も答えずに、我の感謝を受け取りもせずにこの仕儀はどうしたことだ? はっきり言ってみるがいい」
王統の姫として、これ以上ない色彩を宿した少女は、汚れた装いを感じさせない堂々たる態度で立ち上がった。
「ぐう……」
「この――愚か者が! いつまで誤魔化しているつもりだ!」
無意識に一歩下がった少年に、少女は森中に響くほどの大喝を叩き付けた。
「――貴様、我の言葉が分かっているのだろうが!」
●
最初から、ラファエラにはそれが分かっていた。
何を話しかけても答えることはなかったが、それは少年が無反応だったことを意味しない。
目線の動きや足運びのリズム。さらにはずっと聞いていた呼吸音。そしてそうしたわずかな変化以上に、相手が自分の話を理解しているかどうかが彼女には直感的にわかるのだ。
それは、一種の帝王学――否、王族技法と呼ぶべきものだろう。
王とは、周囲に影響を与え、人々を動かす存在。そうした立場にあり続けるためには、多くの物が必要となる。
人目を引く高貴な立ち振る舞い。敵意ある者をひれ伏せさせる威厳。聞くものの意識に深く刻まれる声。
そして、人の心理や意識、反応を読み取る感受性。
それらは先天的に持つものばかりではなく、環境、教育、そして帝王としての自覚が作り上げる「技術」である。
『大鷹』の皇家が五百年に渡って磨き上げられてきたその技術は、目の前の少年の本質をラファエラに看破させていた。
「頭で理解しているわけではないのだろうが、意識には届いているはずだ。ただお主は、その声を聞いていないと己で己を誤魔化している!」
そして、彼女はその言霊を直接叩き込む。王が民衆に演説するかのような威を放って。
「ぐ、ぎあぁあ!」
少年の苦しげな呻きが響くが、ラファエラは意に介さず、その獣性の中にある少年の本質へと語りかける。
「お主が何故そうなったのかは知らぬ。ただ、ひどく辛いことがあって心を閉ざしていることくらいは分かる」
ラファエラ自身、何故自分がこの少年にこんなことを語っているのかは判然としない。
初めて会った、碌に会話も交わしていない少年に、声を嗄らすようにしてなにを言っているのかとちらりと思う。
しかし。
「だがな、あえて言わせてもらうぞ。逃げるな!」
この少年が。こんな幼い少年が人としての自分を忘れて野性の領域に逃げているのがどうしようもなく放っておけない。
「辛いのならば、泣くがいい! 叫んで、恨んで、その思いを訴えろ! この、我に!」
皇帝とは、皇族とは、そもそもそのために居るのだから。
か弱い人が、己の力ではどうしようもできない困難や危機に直面した時、その障害を打ち払ってくれる、強く偉大な存在を求めたからこそ、王は生まれた。
――洪水だ。だれか、この大河を治めてくれる賢者はいないのか。
――飢饉だ。だれか、我らに今日を生き抜く糧を与えてくれ。
――侵略だ。だれか、この恐ろしい敵を倒すために我らを率いてくれ。
「そうだ。我らは、お主のような者を助けるからこそ皇族なのだ」
知恵と欲を持った者が、力と富を独占するために人を支配したのではないと、ラファエラはそう信じたいのだ。
幼い頃から、彼女はずっと思っていた。
「あの皇宮には、民など眼にも入らぬものが大勢いた。どこかで誰かが泣いているのに、自分が肥えることしか考えていないものがいた」
何故分からない? この宮殿だけが世界ではないと。
何故聞こえない? 彼らはあんなにも苦しんでいるのに。
王冠に手をかけることのできる自分だからこそ、それが穢れたものだとは思いたくない。
しかし現実には、玉座の周りには穢れたものたちが多すぎて。ついにはそれを手に入れるために殺し合いさえ始めてしまった。
だから彼女は、初めて向き合ったこの少年を見捨てられない。
目の前の少年のような人物に、手を差し伸べることができないのなら――。
「皇帝とは、王とは――、何のために存在するというのだ!」
●
分からない、分からない。
知らない知らない、聞こえない聞こえない聞こえない!
少年、かつてカタナと呼ばれていた彼は、意識を揺さぶる少女の声を跳ね付ける。
耳を塞ぐ。だがそれでも高く響く声音は脳に届く。
そうだ、この声がいけない。人間の叫びなど何度も聞いてきたはずなのに、この声は何かが違う。
武器を持った大人の男たちの低く重い声とは違う、死にに来た老婆の擦れた声とも違う。
この、どこまでも通るような高い声。よく似た声を、聞いたことがある気がする。それは、ずっと前。獣が知らない、どこか遠くの、光に溢れた山の寒村で――。
「――××」
少女の声。
カタナが獣となってから一度も耳にした事の無いその音が、獣の中に眠る記憶を、意識を、存在を呼び覚ます。
父が居た。母が居た。生まれたばかりの弟が居た。
自分は、人から生まれた、人間であったことを思い出した。
最初から、この森で肉を貪って生きていた訳ではなかったことを、自覚した。
そして、好きな人が居た。
同い年の、幼馴染の少女だ。耳に残る、軽やかな声を思い出した。否、覚えていながら意識から追い出していたのだ。
それが、眼前の少女の声で甦った。彼女の声も、顔も、体温のあたたかさも、全て。
それは、欠片のような人間性の目覚め。普通ならば獣の野性に掻き消されてしまうような、弱くて微かな、『カタナ』の本質。
だが、ここにいたのは彼女だった。
「さあ、何か、言ってみるがいい! 我が、貴様の嘆きを、聞いてやるから!」
王の器を持つ、少女が『カタナ』を強く呼び覚ましたから。
「あ、あぁ……」
獣の狂乱を押し退けるように、カタナは数年分の嘆きと怒りを吐き出すように、大声を上げて泣き声を上げた。
「あ、ああああぁぁぁぁぁ――!」
それは、獣の咆哮のようで、まったく違う。人の、全身全霊の泣き声だった。
●
そして、それからしばらく。
「――眠ったのか?」
ラファエラは、自分に縋り付くようにして目を閉じている少年の、泥だらけの顔を撫でた。
息の続く限り泣き、しゃくりあげながら嘆いた少年は、ぷつりと糸が切れた様に静かになった。
少年が泣いている時から、ラファエラはずっとそうしていた。彼の傍に座って、一人ではないと無言で教えるように。
冷静に考えればそんなことをしている暇はない。彼女は一刻も早く進まねばならない。そのために、何人もの人間が命を捨てて戦ったのだ。
「皆、すまない。お父様、お許しください」
だが、今のラファエラには分かっていた。自分の使命とこの少年のどちらが大事か、と言う問題ではないのだ。
「ここで、この者を見捨ててしまえば、我はもう皇族ではなくなってしまうでしょう」
だから、その時も彼女はあくまでも皇族としての威を保ってその者たちを迎えた。
「ラファエラ殿下。我々と来ていただきましょう」
昏い森から、光の射す空間へとにじり出て来たのは、一度は逃れた二人の敵兵。道中獣に襲われたのか。全身に傷を負っているが、眼だけは爛々と精気を放っている。
「断る」
だが、その異様な迫力の男たちにも一歩も退かぬのがラファエラ=イヴ。未だ十二の、しかし真物の皇族の威を持った少女である。
「どうあっても承諾いただけぬのなら、無理にでも引き立てて行くことになりますが?」
「出来るものならやってみるがいい」
間髪入れず叩き返された脅しに、男たちの方が気圧されて黙り込む。
彼らはここまでの追跡行で、この森の恐ろしさは十分承知していた。非協力的な同行者を連れてこの森を脱出することができるかと考えれば、それはかなり不安が残る。
そしてそれ以前に、彼らは目前に捉えた標的たる皇女の意思を曲げることができる気が、何故か全くしないのだった。
「……やむを得んか」
低く呟き、男たちが剣を構える。
「……」
ラファエラは無言で立ち上がる。少年の存在を忘れさせるように、男たちの意識を己に惹きつけて。
「人質にできぬとあらば是非もない。『大鷹』の血脈をここに断ち、『獅子』の統治の礎とさせていただく」
「殿下。下賤の剣で恐縮ですが、ここに貴種を弑し奉る!」
傷付き血のこびり付いた二つの刃が、皇女の身体に突き刺さる。
「――あ」
その、瞬間。
殺意を纏った風が、ラファエラの傍らを吹き抜けた。
●
「ガ、アアアァ――!」
俊足強襲。
跳ね起きた少年が大振りした鉈の一撃が、少女の身を貫く剣を弾き飛ばし。
「――間に合ったか」
一閃鮮血。
森の中から現れた老人の剛剣が、男たちを二人纏めて斬り伏せた。
「――」
「……ふむ」
何が起こったかも理解できずに絶命した二つの死体を挟んで、少年と老人が向かい合う。互いに、眼と手に持った刃を目に写している。
「ぐ、るおぉ……」
少年、カタナが牙を剥く。少女の危機に反応して目覚めた彼は、眼に理性が戻りつつある今も血に刺激されて半ばが獣の様相だ。
半人半獣の異形は、未だ健在。それほどに、彼の闇は深い。
「獣に堕ちた幼子か」
対する老人、カーンは静かに剣先を目線に掲げる。彼にとってもこれほど異様な存在を見た経験は少ないだろうが、動じることなく少年を見据える。
『闘王殺し』カーン=ハイド。未だその腕に衰えはない。
「……見るに堪えん、退治てくれよう」
その小さな声を合図に。
「――ギィイ!」
「ふっ――」
緑と大気を切り裂くように。
兇獣と剣聖が、皇女の眼前でぶつかり合った。




