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剣闘のカタナ  作者: 某霊
外伝 獣の章
67/113

カタナとラファエラ

 老人は、足元の死体を見下ろしていた。


「う……」

 否、正確には死体未満と呼ぶべきか。『それ』は身体に幾十もの刃を突き立てられてなお、手にした剣を握りしめたまま老人を見上げていたのだから。


「も、申し訳……ありません」

 『それ』……二十半ばの青年であった男は瀕死の身体を無理やり持ち上げるようにして老人を見詰めた。


 対する老人は、長い年月を経て肌が巌と変じたかのような、堅い気配を纏った男であった。

 年齢のもたらす衰えなど微塵もない、ただ硬く、ただ強く。年輪を重ねた不動不惑の佇まいは、剛毅な賢人のように静寂で、古代の神剣のように荘厳だった。


 そんな老人に、臨死の青年は縋る声を振り絞る。

「我ら、総勢二十名。貴方様の元へ、あのお方をお守りすること、叶いませんでした……!」


 周囲には、既に事切れた死体が無数に転がっている。死肉を狙って、気の早い野獣や猛禽がそこかしこにたかり始めていた。


 死体の数は百に届くか。青年の言葉を信じるなら、彼らは自陣の四倍近い数の敵を道連れにしたことになる。


 瞠目すべき奮戦――、そう褒め称えて間違いはないだろう。


 しかし、青年の表情にあるのはひたすらな苦悶と悔恨、そして執念だけだった。

 誇りなど無い。称賛を受けるなどもっての外だと、彼は慙愧を背負って死のうとしていた。


 末摩を断たれ、末期の息を吐きながら。それでも男は老人に己の命よりも重要な言葉を告げる。


「あのお方は、敵の手から逃れて森の奥へ。敵方も生き残りの何人かが追っ手に……」


 光を失いかけている青年の瞳に、血の混じった涙が浮かぶ。


「どうか、お願いします……あの、方、を――」


 それが、青年の最期の言葉だった。己のことは欠片も語らず、ただ一人の誰かのことだけを案じながら、一人の人間がその生を終えた。


「――」

 今や、百の死体が転がるばかりとなった荒れ地の中心で、老人は静かに青年が示した方角を見る。


 そこには、外界を拒むかのように木々の密生した樹海が広がっている。

 老人は、鈍く光を宿す金の眼光を微かに青年の亡骸へ向けて、そのまま樹海へと走り出した。


 老いなど欠片も感じさせないその姿は、まるで平坦な道を駆けるかのように速度を落とさず森へと沈んでいった。


●


「――はっ、はっ、はっ!」


 少女は、ひたすらに駆けていた。


 年のころは十二かそこら。子供の幼さに僅かに大人の気配を注いだような姿の少女だった。

 襟足のところで切り揃えられた、夜に冴え冴えと光る銀月のような銀髪が一歩ごとにはらりと浮かび上がる。

 一心に前を向いて逸らされない瞳は、太陽を熔かし流し込んだような朱い黄金の色を宿している。


 輝きを纏った少女は駆け続ける。

 それは、逃走である。ひたすらに、自分を危うくする悪意から離れようという、命と尊厳を賭けた闘争である。


 その少女は一見して、容貌と同じく装いもその場にそぐわない雰囲気を持つ少女だった。


 彼女の周囲には、薄暗い森林が視界を遮るようにわだかまっている。

 昼日中であっても太陽の光がほとんど届かないほどの樹海である。


 対して、少女が着ているのは、樹海にいる者としては余りに不似合いな服装だ。


 袖や襟元をしっかりと金ボタンで留めた絹仕立ての貴族服に、すらりとした脚に張り付くような栗色の革のスラックス。一見してどこの名家の御曹司かと思うような服装であるが、纏うものの華奢で柔らかな身体つきは、確かに少女のそれだった。


 とは言え、そのような高貴な装いも既に過去のものだ。

 樹海を走る彼女の服は、上下共に泥に汚れ、鋭い枝や硬い草に破られほつれを生じさせている。

 染み一つ無かった純白の手袋は泥濘に足を取られて転びかかった時に手を着いてしまって真っ茶色に染め上げられ、磨き抜かれた鰐革のブーツは粘土質の土埃を被って妙に白けた色に表面が固まっている。


 元の装いを考えれば頭を抱えて嘆くべき惨状であったが、少女にはそんなことに構っている暇は欠片もなかった。


 ――走れ。ひたすらに、前へ!


 彼女の生存本能はただそれだけを叫んでいたし、理性もそれに賛同していた。


「いたぞ!」

「逃がすな。この辺りは地図にも載っていない、見失うわけにはいかん!」


 背後から、複数の男たちの叫び声が少女を打った。


「!」

 はっとして振り返ると、松明を掲げた男が五人、悪路をものともせずに駆け抜けて来る。


 全員軽装な革の防具で身を固め、剣を片手繁茂する草木を薙ぎ払って猛進するその一団は、眼に明確な殺気を宿して少女へと迫りつつあった。


「おのれ……」

 悪態をつく間も惜しんで少女は足を速めるが、歩幅も速度も、大人の男たちの方がはるかに速い。


 発見されてからわずか四半時で、男たちはあと少しで少女の襟首を引っ掴めるところまで距離を詰めた。


「そらっ、捕らえろ!」

 叫ぶが早いか、男の一人が剣を持っていない方の手をぐいと伸ばす。その指呼の距離に追い詰められた気配を感じた瞬間、少女は自分から地面に身を投げた。


「くうっ!」


「うわっ!」

「危ないぞ!」

 捕まる寸前、自分から地面に転がった少女に驚き、男たちが慌ててつんのめり、ある者は膝を付き、ある者はすぐ傍の樹に顔をぶつけかけた。


 少女の行動は咄嗟の機転としては中々のものだったが、それも結局時間稼ぎ以上のものには成り得ない。一瞬の混乱の隙に立ち上がった少女だったが、その時既に彼女の周囲は剣を構えた五人の男に取り囲まれていた。


「まったく。こんなところまで逃げ続けるとは、手間を掛けさせてくれますな。お陰で百の仲間が無駄死にになるところでした」


 樹を背にして男たちを睨む少女の正面、五人の中で最年長らしい四十絡みの男が息を弾ませつつ慇懃に言った。

「しかしここまで。我らに付いて来ていただきましょう、大鷹の姫君」


 その言葉に、男たち以上に呼吸を乱していた少女は、不意にその呼吸を平常へと戻した。


「無礼であるな、獅子に唆された下郎どもが」


 威。


 その声に込められていたものはただその一文字。

 身に寸鉄も帯びていない、無力な幼い少女の声だというのに、それはこの世ならぬ重さを持って樹海に響いた。


「――う」

「むぅ……!」

 何故か。武装した男たちが、その圧倒的な存在感に気圧されたように顔を引きつらせ、何人かは無意識に後退りすらしていた。


「身の程知らずも甚だしい。我に物申したいのであれば、まずその高い頭を地の底に打ち沈めてからにするが良い」


 そして追い詰められていたはずの少女は、無防備なまま傲然と男たちに立ち向かって声を上げる。


「お主ら、我を誰だと心得ておるか!」


 その声は、身に戦う力を持たない少女の、最後に抜き放つ武器であった。


「我が名は――!」


●


 『ここ』は、緑と獣の国だった。


 鬱蒼と光を遮る森の中、少年は何かに気を取られたように首を巡らせた。


「……」


 その少年の風体は、一言で言えば蛮人以下だ。まだ十になるかどうかといった矮躯に纏っている服はボロと呼ぶよりも布の残骸でしかなく、緑がかった黒髪は伸び放題で血や泥濘に塗れたそれ自体が草木の苗床になりかねない。

 裸足のまま山野を踏みしめる少年の脚は爪と言わず肌と言わず真っ黒で、まるで堆積する泥で固めているかのようだ。


 しかし少年は、そんな文明を放り捨てた有様を気に掛ける素振りもなく、野生そのままの態度で周囲を探っている。


 ざわめく木々、澱むように濃い緑の臭気。実りの季節を越えた北の地には、すでに荒涼たる風が忍び込んでいる。

 太陽は中天に。未だ貪欲な大樹たちがその恩恵を余すところなく受け取るために、この空間を秘された異郷として孤立させている。


 少年の足元には、乏しい日光をかき集めて生き延びる卑屈な草花と、陽の祝福などいらぬと傲然たる態度で跋扈する茸や苔類。どれも、彼の糧とは成り得ない諸々だ。


「……にぃ」

 今まで立ち尽くしていた少年が、突如走り出した。その右手には錆が浮いてどす黒く変色した粗末な鉈がある。


 少年の眼は、真昼でも薄暗いこの森でひときわ輝く火の反射光を見逃さなかった。

 遥かに遠いが、赤羆(レッドベア)の双眸よりも派手なその色を見間違える訳がない。


 そして、微かに届くのはばさばさがちゃがちゃと足元を蹴立てるみっともない騒音。

 森に棲む獣の中でも一番愚かで鈍い笛吹き鳩(バードバード)のつがいでさえ、ここまでやかましくすることは滅多にない。


 ――余所者だ。

 ――外からの侵入者だ。


 ――人間(・・)が来たぞ。餌が来た!


 木々のざわめきに混じって。鳥が、虫が、獣が。森の住人たちがめいめいに急を伝える。それは、原初から続く食欲という絶対的な本能が命じる勅令だ。


 人間。奴らは図体はなかなか大きいが、動きは鈍く勘も弱い。

 強力な道具を持つこともあるから危険ではあるが、その豊富な肉の量は非常な御馳走となる。


「ははぁっ!」

 笑声とも呼気ともつかない音で喉を震わせ、少年は駆けてゆく。上等な獲物は頂くと、当然のように獣に混じって森を疾駆する。


 そして彼は、どの獣よりも早く、その獲物の居場所へと辿り着いていた。


「――な」


 愚鈍の極み。こちらに背を向けたまま気付きもしない人間の雄が、少年の錆び朽ちた鉈で延髄を抉られ即死する。


「くはぁっ!」

 やった。大きな獲物が取れた。


 その時少年が思っていたことはただそれだけ。この人間たちが森にいる理由も、人間たちの中に一人だけ毛色の違う者が混じっていることにも、まったく意識していなかった。


●


 森の中に居るどの人間よりも早くこの樹海を踏破しつつ、老人は微かに口を開く。


 無口な彼が独り言などという酔狂を行う気になったのは、結局一言も声を掛けることのなかったあの青年へのせめてもの弔意か。


「大鷹(たいよう)皇家、最終警護――カーン=ハイド。これより役目に復帰する」


 歴史の果てに沈んだはずの『闘王殺し』が、再び帝国の歴史に己の存在を刻むべく刃を抜いていた。


●


 樹海の只中、少女は威風堂々と己が名を謳い上げた。


「我が名はラファエラ=イヴ! 大鷹皇家当主、皇太子アムゼカンド=イヴが第一皇女である!」


 その少女――帝国第一皇女ラファエラの名乗りと同時。


「――な」

 目の前の男が、ぽかんとした表情でその場に崩れ落ち。


「くはぁっ!」

 暴虐の叫びを迸らせて宙を舞う、一匹の異形の獣と、彼女は出会った。


●


『ここ』は、緑と獣の国。


 帝国最北部にそびえるヴィーエン大山脈。

 その、大陸最大の天険の裾野に広がる広大な樹海が少年の生きる世界だった。


 少年の名はカタナ=イサギナ。


 付近の小規模集落の住人からは『獣人』、『獣混じり』と恐れられ、その実在すら疑われている、天涯孤独の半獣半人。

 彼の名を知っているものは、この時この世に、ただの一人もいなかった。


 だから、これが始まり。


 かつて『闘技王』を殺した元剣闘士と、後に帝国皇帝として戴冠することになる少女とに出会ったこの日に。


 歴史にその名を残す剣闘士カタナ=イサギナとなる者が、ここに再び、世界に産声を上げる。


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