永久の放浪者 後編
ノーフォーク=ヒューバードとの出会いから五十年。記憶の無い少年は剣を取り、数多の戦いを生き抜いて、地上の誰よりも長く戦った剣闘士となった。
初めての剣闘のことは昨日のことのように思い出せる。
相手も新人、初戦から数えて三戦目の双剣使い。当時の『闘技王』サーザンの影響で、剣を二本使う剣闘士は多くいて、彼もその一人だった。
自分は長剣と盾を持って闘技場に立った。
何千もの衆人環視の中戦おうというのに、不思議とあまり緊張せず、舐めてかかって来た相手を冷静に下した。
恐らく、記憶が無いことで剣闘というものの実感が湧かなかったのだろうと後にノーフォークは言っていた。
――記憶が無いとは知らなんだ。まあ結果良ければ全て良し!
人をいきなり闘技場に送り込んだ後、そう笑い飛ばすあの男は、後の人生を含めて最も破天荒な人間だった。
曾孫のレレットが、突然ノーフォークの血に目覚めてそんなことを言い出したら、多分自分は年甲斐もなく泣き崩れるだろう。
●
以降、少年の身体と記憶に刻まれたのは数多の戦い。
剣と競り合い、槍を掻い潜り、斧と打ち合った。
そして敵を打ち倒した時の興奮は、今でも忘れることはない。
薙刀で切り裂かれ、棍棒で打ち倒され、矢に貫かれた。
一度も剣を届かせることなく敗れた悔しさは、悪夢となって甦る。
剣闘の最中、死を覚悟したことは何度もある。
そして逆に、相手を死に至らしめたこともある。
その数三度。
何千と戦って来た中の三戦。知らぬものなら少ないと言うかもしれないが、彼自身にとってはあまりにも重い三戦だ。
一度目はまだ十代の頃、経験豊かな二つ名持ちを。
二度目は三十路前に、長年しのぎを削った同期を。
三度目は五年前、闘技場に挑んだばかりの新人を。
いずれも本気で全力、正々堂々戦った結果だ。
無論、殺すつもりで剣を振るったことは一度もない。……しかし、彼らを己の剣で殺したという事実に変わりもない。
剣闘で人を殺すことは、基本的には事故として扱われる。互いに真剣。全力で戦えば殺意がなくとも、どうしても起こってしまう事態だと。
しかしその度に彼は、自分は剣闘士を辞めるべきかと考えた。人の生命を奪ってなお、戦い続ける理由があるのかと。
ある。
何故なら彼は探し続けていたからだ。
『己』という誰でも持っているものを失ったがために、彼は戦いの果てに得る生をこそ、生きる実感として求めていた。
彼の名はグイード。その名を付けたのは、少年を拾ったノーフォーク=ヒューバードだ。
そして姓はフーダニット。自分で付けたその言葉に込められた意味こそが、グイードの原点だ。
『其は何者か?』。
あの日から五十年以上。未だ彼はその答えを見出していない。
●
「やはりやるものですな、カタナ様も」
カタナとグイードの模擬戦による訓練。それを中庭への入口に腰掛けて観戦していたレレットは、背後から届いたフェートンの声に、顎を上げるようにして振り仰いだ。
「そう? 今は攻めあぐねてるけど」
最近はすっかり現役時代の執事服でいる時間が長くなった彼は、静かに片膝を着いて湯気を立てる茶をレレットに手渡す。
焙煎して茶色がかった濃い目のそれは、レレットの昔からのお気に入りだ。少し値が張るので、ここ半年ほどは節約のため絶っていたが、最近は余裕が少し生まれ、フェートンが優先して買ってきてくれて少女を喜ばせた。
「グイードの『誘い』に気付いておられるのでしょうな。迂闊に右に踏み込めば『罠』の餌食です――お嬢様もグイードの手管はご存じでしょう?」
フェートンはもう一つ持って来た、訓練中の二人のためのものだろう水差しを傍らに置いて戦いを眺める。
「知ってるけど、『あれ』ってそんなに分からないかな?」
「正直、眼前にすれば前もって分かっていても避けるのは難しいでしょう。初見となればなお至難かと」
中庭の模擬戦は、いつしか攻守が逆転している。グイードの剣がカタナに迫り、カタナは機敏に跳ね飛び凌ぐ。
「でも、カタナが乗らないとこうして押し返される、か」
しかも、現状のままでは先に息切れするのはカタナの方だろう。
先の攻勢から今の回避まで、カタナが持ち前の速さで激しく動いて来たのに対し、グイードは足を最低限にしか動かしていないのだ。
「追い詰められれば、罠と分かっていてもいずれ守りの薄い右を狙うしかなくなる。流石に勝負の動かし方はグイードが上手です」
右側にはグイードの左腕の盾は届かないし、人体の構造上、牽制の鉄棒も用をなさない。一手で勝ちを決めるには、やはり右を攻めるしかないのだ。
「じゃあ、フェートンはグイード爺ちゃんが勝つと思うの?」
レレットの言葉に、フェートンは意外そうに眉を少し動かした。
「お嬢様は違うのですか?」
問われて、レレットも少しだけ首を傾げる。
「多分だけどあの二人、そもそも『勝負』してるつもりがないんじゃないかな」
同時に、カタナが横薙ぎの剣を掻い潜り、グイードの右に踏み込んだ。
●
(さあ、何が来る!)
フェートンの推測通り、カタナはグイードの右に『誘い』の気配を感じていた。
それでもなお踏み込んだのは、単純に追い詰められたからではなく、『機』を作りだしたからだ。
カタナは攻めに転じたグイードを引き付けて、大振りの攻撃を誘ったのだ。
体力が尽きるまでグイードが慎重な攻めを続けていれば、カタナはジリ貧になるしかなかったのだが、グイードは一気に勝負を決めようと僅かに前のめりになった。
(待ってる『罠』が何であれ、右手さえ使えなければ!)
腕を振り切った状態では、次の反応はどうしても遅れるはずだ。一拍でも遅滞があれば、がら空きの脇腹に一撃を叩き込める。
「ぬう!」
グイードが体を入れ替えつつも左腕を伸ばすが、カタナの剣はそれより速い。
貰った。
堅い城壁を回り込み、裏手から城を奇襲し攻め取った。会心の思いのカタナが確信したのと同時。
「それを待っておったのよ」
突如、城壁が移動した。
●
「なっ!」
カタナは驚愕の表情で動きを止める。必勝を期した自身の攻撃が防がれたのが信じられないといった表情だ。
無理もない。左腕に装着してあったはずのグイードの盾が、何故か右から攻めたカタナの剣にまで届いていたのだから。
「まだまだ甘いのう」
そしてグイードはしてやったりと笑う。
この『罠』の種は、言ってしまえば簡単なこと。
単に、盾から伸びる鉄棒を持ち、右側にまで届かせただけだ。
「相手の呆気に取られる顔が見たくての。若い時分、一瞬で盾を腕から外して持ち替えるこの技を覚えるのに丸一年費やしたものよ!」
攻撃を防ぐ円形盾は、今や敵を叩きのめす戦鎚となっている。
牽制のための鉄棒、あくまでも防御用という先入観が敵手の認識に穴を生み、この打撃武器の柄というもう一つの姿を覆い隠すのだ。
まさに老獪というべき、心理戦の妙手。
「……観衆の居る闘技場でやるから、他の剣闘士には種がばれていて効果半減なのですがね。習得に一年かけた技をたった一戦で使い潰すあたり、当時は呆れて物も言えなかったものです」
ぼそっと腐れ縁の声が聞こえた気がしたが、グイードは無視。剣闘士の心意気とはそういう問題を超越するのだ。
「はっはあ、食らうがいい!」
勢いに乗って戦鎚を振り下ろす。対するカタナは――。
「ここだ!」
乾坤一擲。虚を突かれた攻勢に怯むことなく前に出て、グイードの一撃を肌に掠める際どさで躱しざま、木剣を突き上げた。
絶体絶命とも言えるこの瞬間、しかしカタナの眼には一筋の光明が見えていた。
盾が戦鎚へと変わったということは、すなわち城壁を守る兵が門外に打って出たことと同義だ。
グイードの右手には木剣。そして左手は盾であった戦鎚。彼の戦歴に裏打ちされた両手の武器による攻撃力は、無論恐ろしいものがあるのだろうが――。
今なら、グイードの防御は限りなく薄い。
「ほう――?」
カタナの狙いを察したグイードは声を上げつつも、老練の身体は動じることなく木剣を打ち出す連絡技へと移る。
彼は、野戦に移行してから慌てて城に戻って守りに入ろうとしても、追撃を食らって落とされるのが関の山だと分かっていた。
戦鎚を掻い潜ったカタナと、迎え撃つグイード。両者の木剣は宙で交差し、互いの身体に吸い込まれるように届く。
そして。
「――ははっ」
「……まあ、こんなものかの」
両者は、寸前で止められた相手の剣先を見て、『勝負』ではない『訓練』を終えたのだった。
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「まさかあの鉄棒にあんな意味があるとは思わなかった……」
「まあ儂にとっては、最近は誰も彼も知っておって味気なくての、久々に引っかかってくれて愉快なことよ」
グイードの『罠』を見抜けずにいたことを悔しがるカタナ。彼を笑って宥めつつ、グイードは内心冷や汗を禁じ得なかった。
予想以上だ。
実力だけではなく、その伸び代が。
グイードは剣闘を何千戦と繰り返して来た男だ。
いずれも真剣勝負、命を失う危険すらある戦いだ。勝ったこともあれば、惨めに敗れた戦いもある。
しかし、彼の真価は、勝敗ではなくその肉体だ。
五十年間もの長きに渡り戦い続けて、彼はそれでも、手足はおろか指の一本も失ってはいない。
今では呼ぶものも少ないが、全盛期、どんな相手の猛攻をも耐え凌ぐグイードにはある二つ名が贈られていた。
曰く――揺るがざる護りの、『鋼鉄壁』グイード。
それが、衰えたとは言え十代の少年に破られた。しかも初見の奇襲戦法まで凌がれた上でだ。
初めてヒューバード商会を訪れた日のカタナでは、ここまでの対応は不可能だったはずだと、グイードは何人もの新人を見て来た経験から確信していた。
つまり、この十日あまりで、グイードの想像以上にカタナは成長しているのだ。
そして、もしもここが剣闘場。互いの本気であったなら――。
「カタナよ」
グイードは表情を改め、真剣な顔でカタナを見る。
「はい」
カタナもまた緊張した顔で居住まいを正す。
一つ頷き、間を置いたグイードは、その表情を崩さずに。
「肩が凝ったんで揉んでくれんかの」
「……は?」
その瞬間、あんぐりと口を開けたカタナの顔は中々見物であった。
剣の才は抜群だが、やはり人生経験が足りない。
こんな真面目くさった空気で、老人が若者をからかわないわけがなかろうに。
「何じゃ、若い身分でこんな老いぼれに引き分けたんじゃから、あれじゃ。『ぺなるてー』とか言うやつじゃ。ホレ」
どっかと腰を落として、カタナに背を向けて催促する。
「……いつもいつもからかってばっかで、この……」
震え声。
見なくても、今彼がどんな表情をしているのかがグイードには手に取るように分かった。実に愉快だ。
視線の向こうでは、フェートンとレレットの姿が見える。気の利くことに、飲み物を持って来てくれたらしい。
手を上げて彼らを招く。
「おお。お嬢にフェートン。ご苦労ご苦労、わざわざすまんのう。ささ、水をくれんか」
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『己』を持たなかった男は、ひたすらに戦い続けて来て、辿り着いた『今』に思いを馳せる。
人生とは不思議なものだ。
何年生きても明日何が起こるかは分からない。
記憶を失うことも、長年所属した商会に惨禍が襲うことも。そして、この年になって最高の素質を持つ少年の先達となれることもある。
自分には記憶が無い。
だがそれでも、自分は決して不幸ではない。過去はなくとも現在はあり、残り少ないとしても未来もある。
ならば良し。生きている限りは戦うのだ。
グイード=フーダニットは、無自覚ではあったが、確かにそれを『己』に誓っていた。




