永久の放浪者 前編
グイード=フーダニットには、幼い頃の記憶が無い。
「――」
五十年ほど前のある日、夢から覚めたかのようにシュームザオンの大通りに突っ立っている自らを見出した時から、彼の記憶は始まる。
見知らぬ建物の群れ。当時は街という言葉の定義すらも、彼の中では曖昧だった。
大通りに軒を連ねる石造りの帝国式建築の数々。その影に隠れるように建ち並ぶ、貧民たちが作り上げた、木造の安普請を土壁で補強した家々。
人々の纏う服は、ぼやけた色彩で粗い質感と相まってどこか作り物めいていた。
帝国、皇帝、シュームザオン、剣闘都市。
耳に入って来る言葉に、馴染のあるものは一つも無く、なのに意味は正確に理解できていたのが奇妙な感覚だった。
「親は誰だ?」
どこからか声が響き、誰かが訪ねた。もしかしたら、彼自身の声だったのかもしれない。
分からない。彼は答えた。
「生まれはどこだ?」
また声が聞こえる。なのに声の主の姿はどこにもなかった。単に忘れているだけなのかもしれない。
やはり分からない。彼は繰り返す。
「お前は誰だ?」
己は己だ。
そう答えようとして、その『己』が何なのか、さっぱり見当も付かないことに気付いた。
親はいない。故郷も知らぬ。ならば彼の中に、自身の来歴など何一つ残っているはずもないのは道理と言えば道理だ。
「おれ――わたし? ぼくは誰だ?」
それが始まり。己が誰かも分からない少年の、己を求める長い長い日々の始まりだった。
●
「――はん。今さらな夢なことよ」
夢から覚めたグイードは寝台に身を起こし、誰にともなく悪態をついた。
窓の外から染み込むような冷気に、太陽も未だ昇らない早朝であることを察する。
ここはヒューバード剣闘士商会にある彼の自室である。
商会の古株である彼は、二十年近くも前にこの建物ができて以来、自分に割り当てられた部屋に起居し続けている。
全盛期から比べれば人数を大きく減じた現在、望みさえすればより広い部屋に移ることもできた。しかし既に馴染んだこの部屋を引き払う気にもならなかった。
(有望な新人にはいい待遇を用意せねばならぬことでもあるしな)
カタナやリウ、最近商会に所属した『少年』たちの輝くばかりの生気は、若さというものを失って久しいグイードには微笑ましくも眩しいものだ。
「……成程、中てられたか」
グイードは、自分が過去のことを夢に見た理由にも思い当たった。
ここしばらく、めっきり陰鬱な空気に沈んでいた商会の空気。それがリウ、そしてカタナという相次いで訪れた新風によって鮮やかに取り払われたことで、無意識に己の若い頃と引き比べていたのだろう。
グイードが記憶を失ってシュームザオンに現れた頃が、丁度カタナやリウの年頃だ。
無論、自分の年齢も忘れていたから、大体の予測でしかないのだが。
――あと三十年若ければ、もっとマシな働きができたものを、と?
ここ十年ほど、グイードは己の『老い』というものをうんざりするほど自覚させられた。
まず視力が落ちた。
眼前に迫る鋭い剣閃に、僅かに靄がかかったような感覚が付きまとうようになり、遠近感が鈍くなった。
故に今までは負わなかった傷も増え、それが原因で負けに繋がることも度々だ。
そして、次に思い知らされたのは回復力の低下。
一度負った傷が中々塞がらない。そして表面上は治っても、鈍い痛みがじくじくと続く。
さらに、一度息が上がるとあっと言う間に体力が尽きる。今までは精神力で踏みとどまれたところが押し切られ、底力というものが枯渇しつつあるのだと嫌でも理解した。
限界、と自身の中から囁く声がする。戦意を失った剣闘士が闘技場に立つことはできないのだと、その声は冷徹に事実を突きつける。
しかし、グイードはそれに逆らい、戦い続けた。
戦意を失ってなどいない。
まだ、自分は剣を振るえる。戦えるのだ。
そう自らを鼓舞していた最中に起こったのが、ヒューバード商会に訪れた悲劇だった。
商会長を火事で失い、まだ幼いレレットが重荷を背負うことになった。そして、そんな商会を見捨てていく同胞だった剣闘士たち。
グイードは己の無力を嘆いた。自分が剣闘士から身を引き商会を去るのではなく、居場所そのものがなくなってしまうことは耐え難い苦痛だった。
何十年ひとつところに暮らそうとも、故郷の無い己は、結局根付くところを持てない放浪者でしかないと突きつけられたようだった。
生きた証を刻んだ場所が消える。それは記憶を失うよりも恐ろしい。だというのに、自分はろくに勝ちを拾うことすら覚束ない。
老いだけではなく、焦りと恐れが剣を乱していたのだと今では分かる。
結果として、カタナという剣闘士が訪れたことで商会の危機はひとまず回避された。
グイードは安堵したが、同時に情けなく思うのも止められなかった。
孫のような年齢の少年に助けられて、自分は何をやっているのだという慙愧の念だ。
だから思わずにはいられなかった。もう少し若い身体であったなら、と。
我に返り、グイードは独り自嘲する。己に必要なのは若さではなく、そんな風に埒の明かない思考をしなくてすむ円熟した精神だろうと。
無い物ねだりで駄々をこねる老人など、見苦しいだけでなく有害だ。
「そもそもよく考えてみると、あやつらほど頼りになる若者だった訳でもなかろうにの」
グイードは、遠い過去を思い出し、含み笑いを漏らした。
●
あの日、己の名も知らぬ少年は、自分が記憶を失っていることに気付いた後、街の中を闇雲に駆け回り、己の素性につながる手掛かりを探し回っていたものだ。
(――「俺をどこかで見たことはないか?」――)
間の抜けた質問だったが、少年は真剣だった。彼は自身そのものしか、己について何の情報も持っていなかったのだから。
当然、街のあちこちでそんな問いを投げ掛け続ければ、悪目立ちするのも自然な流れだ。
表通りから離れた裏街の一角で、人相風体の悪い男たちに絡まれることになったのも当たり前と言えば当たり前の話だろう。
後はお定まりの大立ち回り。自分の記憶が見つからない不安や鬱憤を晴らすがごとく、少年は男たちへ猛然と躍り掛かった。
振るわれる拳を掻い潜る。がら空きの顎や鳩尾に痛打を浴びせて一人ずつ打ち倒していく。
そして初めて、少年は己の身体が妙に軽いことを自覚した。
才能なのか、覚えていない訓練の成果なのか。数人がかりで掴み掛かって来る男たちを、少年はいともたやすく圧倒した。
泡を食って退散する男たちを眺めながら、しかし少年は途方に暮れていた。
記憶を取り戻す糸口は何もなく、自分は完全な無一文。いくら腕っぷしが強いと分かっても、これでは早晩野垂れ死にしてしまう。
暗い想像を振り払い、とにかくこの場を離れようと歩き始めた少年に。
「そこな小僧、中々筋が良いぞ! ワシの元で剣闘士となれい! なあに、メシはたらふく食わせてやるから心配いらん!」
どこからともなく現れた、体格のいい初老の男が、大音声で呼ばわった。
唐突な男の名はノーフォーク=ヒューバード。
彼こそ、ヒューバード剣闘士商会の創設者にして、後に産まれるレレット=ヒューバードの曽祖父であった。
●
「おお!」
カタナの振るう木剣が、グイードの顔面へと迫る。
「なんの」
左の腕にある鉄製の円形盾が、少年の一撃を軽く受け止める。グイードの手首の辺りに装備されたその盾からは、鉄の棒が一本、肘の先にまで突き出したような特異な形で伸びて彼の左側面を守っている。
コォン、とヒューバード剣闘士商会の中庭訓練場に音が響く。
やけに軽い衝突音は、カタナの剣が気の抜けたものであるからではなく、グイードが衝撃のほとんどを肘のバネで吸収しながら受け止めたことの現れだ。
時刻は昼間。
今日はエインとオーブ、そしてリウは剣闘が入っているため闘技場へ。留守を任された二人は、それぞれ中庭に武器を持ち出し、訓練ついでの手合せとなった。
両者、武器は木剣だが、他の装備は剣闘と同じだ。
グイードの盾が鋼鉄製であるように、カタナも蒼い革鎧姿だ。
グイードの戦法は、左の盾で防御し、右の剣で攻撃するという、基本に忠実なものだ。
盾を持つグイードは防御面で有利だが、速度の利は身軽なカタナにある。
こうした場合、速さで優る攻め手のカタナは守りの薄い右側を狙い、受け手に回ったグイードはさせじと左を前面に出して、両者の足が地に円を描く形の戦いになるのが常道だ。
しかし、模擬戦が始まってからずっと、カタナはあえて盾のある左を攻め続けている。
対するグイードは矢継ぎ早に繰り出される攻撃を冷静に捌き、間隙を突くように、大型の木剣で重い斬撃を打ち出す。
「く!」
カタナは無意識に呻く。
盾自体は掌よりも一回り大きい程度。さほど広くを守っているわけではない。だが扱うグイードの円熟した防御技術が、小さな盾を巨大な城壁に変えていた。
グイードは細かい足運びで間合いを調整し、確実に剣先を盾で捕らえる。
ならばと腕の届かない足元や肩口を狙っても、突き出た鉄棒が斬撃を遮る。実はこれがカタナにとっては最も邪魔な存在だった。
所詮は棒。盾のように身体を覆い隠しているわけではない。実際に打ち込んでみればグイードに傷を与えることはできるかもしれない。
しかし攻撃の威力は確実に軽減される。
強引に押し込んでも痛打は見込めない上に、反撃の剣に大きな隙を晒すと分かるだけに迂闊には踏み込めないのだ。
些細な牽制でしかないはずの一本の棒が、カタナの攻めを大きく制限していた。
「ほうれ、このままでは埒が明かんぞ!」
「……まだまだ!」
グイードの煽るような声に、カタナは鋭く返して回転数を上げていく。
あくまで狙いは左の盾。カタナは敵軍の城壁を攻略する将にも似た緻密さで、執拗な攻撃を繰り返していく。
上下に揺さぶり、右に流れると見せかけてからの突き。さらに剣ではなく足を伸ばして低く払う。それらの攻めを最高速度で矢継ぎ早に放つ。
しかし、届かない。
グイードの防御は、カタナの攻勢を冷静に払い、受け止め、やり過ごす。
「そうら!」
そして腕の一振りでカタナの剣は軌道をずらされ、勢いのままに身体が泳ぐ。
間髪入れず。隙を突いて迫るグイードの剣。カタナは危ういところで跳び退がりこの一撃を回避する。
「儂の防御を崩せないようでは、エインになど通用せんぞ!」
グイードが叫ぶ。しかしカタナは内心で首を振る。
確かにエインの鋭い反応による迎撃は脅威だが、グイードの練達の技術による防御もそれに大きく劣るとは思えない。ただ両者の防御の方向性が違うだけだ。
だからこそ。
「この壁を越えれば、おれの剣はエインさんにも届くってことだ!」
カタナは剣を構えて、グイードの盾に再び挑みかかって行った。




