エインの概ね平穏な生活 前編
今年で二十七歳になるヒューバード剣闘士商会の看板剣闘士、エイン=メノーティには『隼落とし』の二つ名が付けられている。
隼は、小柄な体躯とは裏腹に、大きく翼を広げて獲物を狩る猛禽をも凌ぐ飛翔能力を持つという。
その隼を、難なく斬って落とすほどに精密な剣技を持つと謳われる剣士であるエイン。彼の、いかなる敵の攻撃をもその剣速で迎撃し、狙い澄ました一閃で隙を突く戦いぶりからこの名が定着した。
彼は、帝国西部の穀倉地帯に点在する豊かな農村で、一般家庭の六人兄弟の五男として生まれた。
家には幼少期の生活には困らない程度の蓄えはあった。
しかし子は男ばかりの大家族、下の子である彼に分け与えられる財産は流石にない。そのため、エインは成長すれば家を出て、自分の力で食い扶持を稼ぐ必要があった。
幸いと言うべきか、彼は生まれつき身体能力に恵まれており、兄弟喧嘩や子供同士のチャンバラ遊び、大人に交じって参加した村の祭りの腕比べに至るまで、まともに負けた経験がなかった(そして、周りの子供たちに「どうやっても勝てないので一緒に遊んでもつまらない」と仲間外れにされた)。
そこで十八歳の春、エインは自分にはもしかしたら戦いの才があるのではないだろうか、と恐る恐る周囲に相談してみた。
そして。
「何を今さら」と両親に呆れられ。
「嫌味かそれは」と兄たちに説教され。
「もう無理」と恋人だった幼馴染に愛想を尽かされた。
そんな次第で、エインは剣闘士になるべく泣く泣くシュームザオンへと旅立つことになった。
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本人にとっては深刻だがどこか間の抜けた経緯で剣闘士を志したエイン。だが、シュームザオンを訪れた後、短い野良試合生活を経てヒューバード剣闘士商会所属の剣闘士となった彼はすぐさま頭角を現し潜在能力を開花させていった。
そうした中で、特に名勝負として知られ、エインの存在をシュームザオン剣闘界に知らしめる契機となった戦いがある。
エイン十九歳、彼より一世代上の剣闘士である『射手の兇星』という二つ名の弓使いを相手に行われた一戦である。
剣闘の歴史において、弓矢を始めとする遠距離武器を獲物とする剣闘士は、少ないながらも常に存在していた。
古くは帝国初期、投石器使いの奴隷戦士イ・イシューが当時の『闘技王』に当たる立場の剣奴を射ち殺した例があるし、近年では短弓と短剣を自在に使い分け、『空間使い』の二つ名で知られた女剣闘士イエナ=ノウンが有名だ。
エインと対戦した『射手の兇星』は、背中と両腰に備えた矢筒に特注品の矢を満載し、遠距離から徹底的に射込める戦法を得意としていた。
近距離戦用の武器を一切持たず遠距離戦に専心する戦い方は多くの金星を挙げ、いずれ史上初の遠距離武器使いの『闘技王』となるのではないかと噂されていたほどの剣闘士だった。
狙撃の乱射。
そう恐れられる彼の技は、三本の矢を一度に番え、それぞれの矢を一本ずつ撃つのと変わらない精度で敵へと撃ち放つという反則的なもので、その彼を相手にしては、有望ではあっても若手の域を出ていない当時のエインに勝ち目があるとは思われていなかった。
だが、そんな周囲の予想は大きく覆されることになる。
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剣闘開始直後、『射手の兇星』は素晴らしい速度で矢を抜き打ちつつエインと距離を開け、剣闘場の壁を背負うほどに後退した。
距離を確保し相手に何もさせずに封殺するのが彼の常套戦術であり常勝戦術。
剣士が『射手の兇星』に勝機を見出すには、矢を受けても怯まずに距離を開けずに食らいつき、近距離戦に持ち込むしかないというのが、当時の共通認識だった。
それに失敗した以上、エインは開始早々、乏しい勝ち目を完全に失ったと誰もが思った。
しかし数秒後、観衆が見たものは彼らの全員が想像だにしていなかった光景だった。
エインは剣闘開始から一歩も動かず、流星雨の如く迫る矢の群れの尽くを斬り払っていたのだ。
刃が鋭く閃く度に、飛来する三本の矢がまとめて弾かれ、撃ち落とされる。
観客席にいたものは皆が息を呑み呆然とエインの迎撃を見ていたが、誰よりも驚愕したのは他ならぬ『射手の兇星』自身であっただろう。
「有り得ない!」
彼は思わずそう呻いたとも伝えられているが、無理もない。
一本や二本ならばともかく、三本同時。しかも間断なく飛来する矢は、物理的に人間の腕の動きよりも早い。
つまり飛来する矢を見切って叩き落とし続けることなど本来不可能のはずだった。
だから、エインは矢ではなく『射手の兇星』本人をこそ観察していた。
敵の目線や手の動き、表情の変化までをも見て取って、飛来する矢の軌道、速度、拍子を読み切り、射線を遮るように剣を置いて、数多の剣闘士を撃ち抜いた『射手の兇星』の連続狙撃を迎撃した。
と、理屈で説明するならばこうなるのだろうが、実際のところエインはそこまで確かな考えを持ってそれを行っていたわけではない。
エインに言わせれば、この戦いに限らず彼が相手の攻撃を防ぐために行っていることはただ一つ。
「現在を見るのではなく、一瞬先に来る攻撃を感じること」
エインは放たれた攻撃を見切るのではなく、攻撃それ自体を事前に察知することができた。
これは誰に習ったものでもなく、エインが生まれながらに持っていた特有の感覚がもたらしたものだ。
彼の眼は剣の閃きを見切り、鼻が槍のしなりを嗅ぎ取り、耳に弓弦のいななきを聞き拾う。
それが、エインの才能の本質だ。
後にリウの攻撃をことごとく防いで見せたのも当然だろう。
彼の異才は、奇襲や遠距離攻撃に対しては正に天敵。虚を突く動きを事前に察し、矢を放つ前から軌道を悟られていては、どんな攻撃も防がれるのは自明の理だ。
無論、『射手の兇星』とてただ漫然と撃ち続ける技だけで『闘技王』候補に名が挙がったわけではない。
射つ本数を五本に増やし、あるいは山なりの軌道で頭上から狙い、細かく距離と立ち位置をずらしてエインの迎撃を乱しにかかった。
しかしエインには通じなかった。狙撃をすべて察知して、剣の柄まで使って増えた矢を払い、己目掛けて落下してくるものはすり抜けるように半身に躱した。
この時のエインの精神状態は正に完璧。
心身ともに充実し、強大な剣闘士に挑む気概に満ちて躍動していた。
今や、戦いを見た誰にも疑いようもない形でエインという剣闘士の真価――尋常ならざる防御の才が明らかになっていた。
前もってこれに気付いていたのは、同期の剣闘士であり、後の『闘技王』となるアダム=サーヴァなどの一部の例外を除けば、ヒューバード剣闘士商会で共に訓練をしていた所属剣闘士たちだけである。
特に、かつて『鋼鉄壁』の二つ名で難攻不落の防御を誇った老剣闘士グイードは、エインと初めて剣を交わした日の夜、親しい仲間にこう語ったという。
「仮に全盛期であったとしても儂の守りなぞ、エインの才に比べては話になるまい――いや、儂が今まで見たどの剣闘士よりも優れているやもしれぬ」
彼の言葉を証明するかのように、エインは手にした剣一本で矢の嵐を切り抜けた。
この剣闘に臨み『射手の兇星』が用意していた矢の数は二百五十本。その尽くを防ぎ切ったエインは、肩を大きく上下させて息を乱しつつも、一矢たりとも掠らせもしない無傷の姿を衆目に見せつけていたのだ。
そして、矢筒を全て空にした『射手の兇星』の手元に残った最後の一矢を決然と弓に番えた瞬間、勝負は決着へ向けて大きく動く。
剣闘開始から今まで、不動の迎撃態勢を取っていたエインが前に出たのだ。
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疾走。
静から動へ。一瞬の内に行われたその動きは、闘技場の観客席から俯瞰していた観衆の眼からさえ、エインの姿を見失わせた。
本来なら、これは悪手と言うべき行動だ。
エインが『射手の兇星』の矢を斬り落とすことができるならば、最後の一矢まで撃ち尽くさせてからじっくりと勝負を決めればいいことなのだ。
それでも敢えてエインが前進を選んだのは、敵の弾切れなどという決着を不満とした若さか、はたまた歴戦の弓使いの『最後の一矢』というものに何かの不穏を感じ取ったのか。
答えは、エイン本人にしかわからない。
ただ確かなのは、『射手の兇星』は突進するエインを目の当たりにし、驚くことも惑わされることもなく、迫り来る若き剣闘士へと正確に照準を合わせ、愛弓の弦を強く引き絞ったということだけだ。
両者の距離が縮むほど、矢の軌道を見切る難度は跳ね上がる。近づき過ぎれば、如何にエインでも反応できない恐れがある。
しかし、挑みかかるエインの眼に恐れはない。ただ己の勝利を見据えて邁進していた。
そして、最後の矢を外せば敗北が確定するからこそ、迎え撃つ『射手の兇星』の眼は必中を期してエインを射抜くべく矢を放つ誘惑に耐えた。
いかに距離を開けていても、剣闘士の全力疾走にかかれば無いも同然。遮る弾幕の無い彼我の距離は瞬く間に踏破され、両者は急速に接近。
そして、エインの剣の間合いに入ろうかという寸前、わずか三メートルにまで引き付けて、『射手の兇星』は矢を解き放った。
これほどの近間まで待ったということからも、『射手の兇星』がどれだけエインの実力を認め、また同時に警戒していたかということが窺える。
彼の剣闘人生の中でも、手持ちの矢をすべて撃ち尽くすことなど初めてのこと。過去最大の危機をもたらした目の前の若者を侮るなど有り得ない。
羽撃くように矢が貫き、劈くように剣先が飛んだ。
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宙で斬り飛ばされ、二つに分かれて散って行く矢を見上げ、『射手の兇星』は剣闘の間ずっと伸ばし続けていた腕をゆっくりと下げた。もう打つ矢がない以上、彼にできることはない。
最後の一矢は、間違いなくエインの察知速度を上回ったはずだ。しかし、こうして防がれたということは。
「とうとう本当に見切られた、か……」
剣を振り切った体勢で残心し、静かにこちらを見るエインを無防備に見返し、『射手の兇星』は苦く笑い、弓を捨てた。
エインは天与の才に頼って悟ったのではなく、今日の戦いの中での技を分析し正真正銘の実力で破った。『射手の兇星』は悔しげに、しかし堂々と事実を認め、胸を張って声を上げる。
「参った! お前の勝ちだ!」
この宣言によって決着した戦いは、双方一滴の血も流れず、それどころか互いに一度も攻撃を当てることなく終了した稀有な剣闘として、長く語り継がれるものとなった。
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「これが八年前、わたしが八歳で、初めて闘技場に連れて行ってもらった日に見た剣闘の話」
そしてここでもまた、その一戦を見ることのできた幸運なものが、その機会を得られなかったものに己の経験を開陳していた。
「なるほどね。昔っから大した剣闘士だったんだな、エインさん」
ヒューバード剣闘士商会のカタナの私室で、カタナはレレットからエインの武勇伝を聞いていた。
最近のレレットは、忙しい商会長の業務(と家事)が一段落する宵の口頃に、しばしばカタナの部屋を訪れる。
カタナの方も昼間は連日訓練か剣闘に出かけるかの日々を過ごしており暇は少ない。
その内に、二人とも身体の空くこの時間に、いつしか互いに会って近況についてや日々の生活で気になった諸々など、他愛もない話を過ごすようになっていた。
「うん、多分わたし、初めて見たのがあの剣闘じゃなかったら、こんなに剣闘にどっぷり浸かった人生にはなってなかった気がする……それくらい、どっちも強くてすごい戦いだった」
時折彼らの会話する音を聞きつけたリウなどが参加することもあるが、大体の場合は二人きりで過ごせる今の時間は、レレットにとっては貴重なものだった。
「でもどうしたの、カタナ。エインさんの、昔の話が聞きたいって」
「いや、最近エインさんも訓練の相手をしてくれるようになったんだけど、中々勝てなくてさ。何か戦う手掛かりみたいなものが無いかと思って……」
椅子が無いので寝台を代わりにして、並んで腰掛けた状態で小首を傾げるレレットに、カタナは照れたように目を逸らしつつ、それでも律儀に返答した。
出会った当初はレレットという「女の子」に意地を張り、格好の悪いところを見せまいとする面もあったカタナだが、今は見方によっては弱音とも取れる言葉も言えるようになった。これは、共に生活するうちにお互いに馴染んできたことの表れだろう。
「ふふ。がんばるねえ、カタナ」
少年の変化に気付いているのかいないのか、レレットはゆったりと碧眼を細めてカタナを見ている。
「普通の剣闘で、同じ商会の剣闘士が戦うことはまずないから、あんまり、気にしなくてもいいと思うけど……剣闘士って、みんな負けず嫌いだもんね」
「まあ、弱点の一つでも見つけて、それこそ一矢報いてやるさ」
暗に負けず嫌いという指摘を肯定するカタナの発言に、しかしレレットの顔は決まり悪げに少し引きつった。
「あー、うん、弱点、かあ……」
「何だ、変なこと言ったか?」
訝しげに突っ込まれて、レレットは形のいい眉の端を困ったように下げてぽつりと言う。
「エインさんの弱点って……アレがあるから……」
気まずげな言葉とほぼ同時。
「ねー! エインさんが廊下で行き倒れてるんだけどー!」
廊下から、リウが裏返った声で妙な事を叫んでいるのが聞こえて来た。
「ああ、まさか、また……?」
リウの声を聞き、頭を抱えてカタナの寝台に突っ伏すレレット。
一方カタナは、最初に会った日のエインという剣闘士の印象――枯れ木のように魂が抜けていた身体と、生気の無い表情――を思い出して。
「まさか、またあの状態になったのか?」
唖然と宙を仰いだのだった。
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エイン=メノーティ。
『隼落とし』の二つ名を持つ一流剣闘士にして、ヒューバード剣闘士商会の最強剣士。
彼は高い実力と多くの武勇伝を持ち、剣闘都市シュームザオンでも広く知られる人物である。
そして同時に。
「……故郷から、幼馴染が……結婚したと便りがあった……」
事あるごとに絶不調に陥り、格下相手にも当たり前のように連敗する困った男としても知られていた。




