9 守るというのは都合のいい言葉だ
夕食は静かに終わったが、マギーの席は最後まで空いたままだった。
食後、伯爵は書斎へ戻った。ウィリアムも少し遅れてついていく。
それに気づいて、伯爵は扉の前で足を止めた。
「まだ何かあるのか」
「お話があります」
「マギーのことなら、明日だ」
「ロズリーのことです」
少しだけ面倒そうにしたが、結局書斎へ入った。ウィリアムも続く。
灯りを一つ増やすと、部屋の中が少し明るくなった。伯爵は机の向こうに座らず、暖炉の前の椅子に腰を下ろした。長くなる話だと思ったのかもしれない。
「それで」
「ロズリーを、この家に正式に迎えることはできませんか」
返事はない。
「養女という形でも、縁組でも」
「簡単に言うな」
「簡単ではないことは承知しています」
「いや、わかっていない」
そこで初めて、伯爵は少し厳しい声を出した。
「ロズリーは子爵家の庶子だ。しかも今、その子爵家の爵位は王家預かりになっている。こちらの都合で勝手に動かせる娘ではない」
「では、婚姻なら」
父の目がウィリアムへ向く。ウィリアムは一度だけ息を吸った。
「私とロズリーの婚約を、考えていただけませんか」
書斎の中で、暖炉の薪が小さく鳴る。伯爵はすぐには口を開かなかった。
「本気で言っているのか」
「はい」
「いつからだ」
「……はっきりと考えたのは、今日です」
「今日」
父は頭を押さえる。
「マギーが家を出た日に、お前はその話をするのか」
「だからこそです」
「どういう意味だ」
「このままでは、ロズリーの立場が悪すぎます」
顔を上げる。ウィリアムは続けた。
「屋敷の中でも、客人の前でも、ロズリーはどうしても遠慮します。マギーはそれを面白く思わない。今回のようなことがまた起きます。なら、ロズリーを正式にこの家の者にすればいい」
「それで、マギーが納得すると?」
「少なくとも、ロズリーを余所者扱いはできなくなります」
「マギーのためか、ロズリーのためか」
ウィリアムは答えに詰まった。
それを見て、伯爵は少し深く息を吐いた。
「お前は長男だ。結婚は家の問題でもある」
「わかっています」
「本当にわかっているなら、今日の勢いだけでそんなことは言わない」
「勢いではありません」
ウィリアムはすぐに言った。
だが、言ったあとで、自分でも少しわからなくなった。
勢いではない―― そう思いたい。ロズリーを守りたい気持ちは確かにある。
あの細い肩で、申し訳なさそうに頭を下げる姿を見ると、何とかしてやりたいと思う。
今日の茶会で夫人たちに囲まれて、それでも健気に礼をしていた。あの姿を見て、この娘を一人にしてはいけないと思った。
それは下心なのか。
ウィリアムはそこを考えないようにした。
「私はロズリーを守りたいのです」
「守る」
繰り返した。
「ロズリーは、誰から守られなければならない?」
ウィリアムは少し黙った。
その沈黙の中で、答えはほとんど形になっている。マギーから。
そう言えば、父は怒るかもしれない。いや、怒らないかもしれない。けれど今の父もまた、そこまでマギーを悪者にする気にはなっていない。
だからウィリアムは、言い方を変えた。
「世間からです。子爵家のこともあります。庶子という立場もあります。このままでは、どこへ行っても哀れまれるだけです」
「哀れまれるだけなら、まだましだ」
「父上」
「結婚すれば、今度は別の目で見られる」
父は椅子の肘に指を置いた。
「子爵家の事故の後、本家筋の伯爵家へ引き取られ、その長男と結婚する。人はどう見ると思う」
「……それは」
「運がいい娘だと思う者もいる。お前をたらし込んだと思う者もいる。オードリーが何か考えていたのではないかと思う者もいる」
ウィリアムはそこで眉を寄せた。
「義母上は関係ありません」
「関係ないと言って済むほど、世間は親切ではない」
「ですが」
「それに、マギーはどうなる」
ウィリアムは止まった。父はゆっくり言った。
「マギーが出ていった日に、お前とロズリーの婚約話が出る。世間はどう見る」
「……マギーが戻ってから話せば」
「戻ったマギーはどう思う」
ウィリアムは答えられなかった。考えたくなかった。
マギーは怒るだろう。泣くかもしれない。いや、最近のマギーなら黙るかもしれない。黙って、こちらを見ないまま、勝手になさってくださいと言うかもしれない。
その姿を思い浮かべると、少し胸がざわつく。
けれどすぐに、ロズリーの声が思い出される。
――私のせいでしょうか。
それでまた、気持ちは戻った。
「マギーにも、いつかわかります」
ウィリアムは言った。父は目を伏せる。
「その言い方は、やめなさい」
「ですが」
「今のマギーに一番言ってはいけない言葉だ」
ウィリアムは不満そうに口を閉じた。
疲れたように伯爵は背を預ける。
「急ぐ話ではない」
「ロズリーの立場は、日ごとに不安定になります」
「それでも急ぐ話ではない」
「では、考えてはいただけるのですね」
父は返事に迷った。迷ってしまった。
ロズリーは確かに可哀想な娘だった。この家で守ってやるべきだという気持ちもある。
ウィリアムが本気なら、家同士の不釣り合いもそこまで大きくはない。庶子とはいえ子爵家の血はある。後ろ盾の問題も、この家が受ければ何とかなる。
だが、今日ではない。
今日、考えてはいけない。
そう思うのに、ウィリアムは父の答えを待っている。
「……考えるだけだ」
父はようやく言った。
「今はそれ以上のことは言えない」
「ありがとうございます」
「礼を言う話ではない。ロズリーにも、オードリーにも、まだ言うな」
「はい」
ウィリアムはそう答えた。
*
その夜遅く。
書斎から戻る途中で、彼は廊下の角に立っていたロズリーを見つけた。
ロズリーは薄い肩掛けを羽織り、手燭を持っていた。
「ウィリアム様」
「どうした。眠れないのか」
「はい。マギー様のことが気になって」
ウィリアムは足を止めた。
ロズリーは手燭の火を見ていた。揺れる明かりが、頬を薄く照らしている。
「私、ここにいていいのでしょうか」
「何を言う」
「だって、私が来てから、マギー様は」
「君のせいではない」
今日、何度も言った言葉だった。
けれど何度でも言うべきだと思った。
「でも」
「ロズリー」
ウィリアムは一歩近づいた。
「君を、必ずこの家で守る」
ロズリーは顔を上げる。手燭の火が小さく揺れた。
「本当ですか?」
「ああ」
ウィリアムは、そこで言ってはいけないことを少しだけ言った。
「父上にも話した」
「……何を」
「君のことを、正式にこの家へ迎えられないかと」
ロズリーの指が、燭台の持ち手を強く握った。
「そんな。私などが」
「君だからだ」
「でも、マギー様が」
「マギーにも、いずれわかる」
父に止められたばかりの言葉だった。
だがロズリーには効いた。彼女は目を伏せ、少しだけ首を横に振った。
「ウィリアム様は、お優しすぎます」
「優しくなどない」
「いいえ」
ロズリーは小さく言った。
「私には、そう見えます」
ウィリアムは何も返せなかった。その必要もないと思った。
その時、廊下の向こうで、誰かの足音がした。ロズリーはすぐに一歩下がる。
「おやすみなさいませ、ウィリアム様」
「ああ。よく休みなさい」
ロズリーは礼をして、自室の方へ戻っていった。
その背を見送りながら、ウィリアムは思った。
――やはり、守らなければならない。
――たとえマギーが怒っても。たとえ父が迷っても。
――自分だけは、ロズリーの味方でいる。
その考えがどれほどロズリーに都合よく作られているか、彼はまだ気づかなかった。




