10 ここでは話を聞いてくれる
ヘインズ家の馬車は、駅からほど近い通りへ入ったところにあった。
王都の夜は明るい。屋敷のある町なら、夕食時を過ぎれば通りはすぐ静かになる。
けれどここでは、店の灯りがまだあちこちに残っていた。パンを売る店。布を扱う店。夜でも人が出入りする食堂。馬車の車輪が石畳を鳴らすたび、マギーは膝の上の鞄を押さえ直した。
ルーカスの家は、貴族の屋敷とは違っていた。
門から玄関まで長い庭があるわけではない。だが通りに面した大きな扉は磨かれていて、窓には厚い硝子が入っている。
隣の建物には商会の看板が掛かっていた。奥が住まいで、横が事務所なのだろう。
「ただいま戻りました」
ルーカスが扉を開けると、すぐに暖かい匂いがした。
肉と野菜を煮込んだもの。焼いたパン。少しだけ香草。
マギーはそこで、自分が思った以上に空腹だったことを知った。
「まあ、本当に来たのね」
玄関広間に出てきた女性は、ルーカスによく似た目をしていた。髪をきっちりまとめ、エプロンをつけている。けれど使用人ではない。立ち方でわかる。
ルーカスの母だ。
「母上、こちらがマギー嬢。サミュエルの妹君です」
「ルーカスの母です。よくいらっしゃいました」
彼女はそう言って、マギーの手を取った。
貴族の礼ではない。けれど乱暴でもない。冷えた手を包むように握られ、すぐに離された。
「まず食べた方がいいわ。話はその後。サミュエル様も、そんな顔で立っていないで。お嬢さんが緊張するでしょう」
「私はそんな顔をしていましたか」
「していました。兄の顔です」
サミュエルは返事に詰まった。
ルーカスが横で少し笑う。
「母上の前では、だいたい誰でも負ける」
「貴方も外套を脱ぎなさい。玄関で話していると冷えるでしょう」
その調子で、マギーは食堂へ連れていかれた。
食卓には、すでに簡単な食事が並んでいた。スープ、パン、柔らかく煮た肉、林檎の甘煮。豪華ではない。けれど、すぐ食べられるように用意されている。
マギーの席もあった。
それを見た時、胸の辺りが少しつまった。
屋敷の食堂では、マギーの席が空いているはずだ。誰かがその椅子を見たかもしれない。見なかったかもしれない。だがここでは、今来たばかりのマギーのために席がある。
「口に合わなければ残していいのよ。でも一口は食べなさい。お腹に何か入れないと、眠れないこともあるから」
「ありがとうございます」
マギーは匙を取った。
スープは熱かった。けれど、火傷するほどではない。野菜はよく煮えていて、肉も口の中でほろほろとほぐれるぐらいに。
それでも何を話せばいいかわからず、ただ口に運んでいるだけだが、ヘインズ夫人は余計なことを訊かなかった。
ルーカスも、サミュエルも黙って食べていた。
やがてルーカスの父が帰ってきた。背の高い、よく日に焼けた男だった。商会の人間らしく、外套の袖口には少し埃がついている。彼はマギーを見ると、事情は聞いている、とだけ言った。
「今夜はうちに泊まるといい。貴族の礼儀には少し疎いが、鍵のかかる客間と、口の堅い使用人はいる」
「父上、それは安心させる言い方ですか」
「安心するだろう。鍵は大事だ」
ルーカスは肩をすくめる。
マギーはそこで、匙を持ったまま少し止まった。
――鍵。
自室の鍵は、《《かけても誰かが開ける》》。だからかけなかった。
そう思い出して、手元のスープを見る。
ヘインズ氏はそれに気づいたのか、気づかなかったのか、パンを割りながら続けた。
「少なくともこの家では、客間の鍵を開ける時は、内側の人間に声をかける。返事がなければ、よほどのことがない限り開けない。火事とか、天井が落ちたとか」
「天井は落ちませんよ」
夫人は笑いながら言う。
「一昨年直したばかりです」
「そうだった」
マギーは少しだけ口元をゆるめた。
食事が終わる頃には、瞼が重くなっていた。
サミュエルはそれを見て、今日はもう寝ておけ、と言った。
「でも」
「明日の朝に聞くさ。逃げないよ」
「……本当に?」
「本当に。起きて、朝食を食べて、それからだ。順番を飛ばすな」
マギーはうなずいた。
客間へ案内されると、本当に鍵があった。
ヘインズ夫人は、内側からかける鍵を見せてくれた。
「怖ければかけておきなさい。朝、こちらから声をかけるけれど、返事があるまで入らないわ」
「はい」
「着替えは、うちの娘のものを置いておきます。合わなければ遠慮なく言って」
「ありがとうございます」
扉が閉まる。
マギーはしばらく立っていたが、やがて鍵をかけた。
かちり、と音がした。
その音を聞いた途端、膝の力が少し抜けた。
慌てて寝台に座る。鞄を足元に置き、手袋を外し、髪のピンを抜く。髪が肩に落ちた。
誰も入ってこない。
誰も、もう一度話し合いましょうとも、ロズリーを手伝いなさいとも言わない。
マギーは寝台に横になった。布団は少し硬めで、シーツはよく乾いている。慣れない匂いがした。けれど嫌な匂いではなかった。
眠れないと思った。
……だが、次に目を開けた時には朝だった。




