11 訊かれることにまず驚いた
朝食の後、マギーはヘインズ家の小さな応接室に通された。
昨日の食堂と同じく、そこも実用的な部屋だった。椅子は座りやすく、卓の上には便箋とペンが用意されている。飾りは少ない。けれど窓辺には鉢植えがあり、葉に朝の光が当たっていた。
サミュエルとルーカスは先に来ていた。
ヘインズ氏もいる。夫人は茶を置いた後、同席してもいいかしら、とマギーに訊いた。
訊かれたことに、まず驚いた。
屋敷では、マギーが同席を許すかどうかを訊かれることなどほとんどなかったから。
「はい。お願いします」
マギーが答えると、夫人はうなずいて椅子に座った。
サミュエルが控えを一枚引き寄せる。
「では、順番に聞く。急がなくていい。わからないところは、わからないと言うんだよ」
「はい」
「まず、怪我は本当にないな」
「ありません」
「金は持ってきたか」
「少しだけ」
「無理に見せなくていい。足りないなら言え」
マギーはうなずいた。
サミュエルは次に、ペンを持った。
「家を出た理由は、ロズリー嬢のことか?」
その名前が出た瞬間、マギーの指が膝の布をつかんだ。
サミュエルの目がそこへ落ちる。けれど何も言わず、返事を待った。
「……はい」
「ロズリー嬢が来たのは、子爵家の事故の後だったな」
「はい。春の終わりです」
「事故の内容は?」
「馬車の事故だと聞きました。子爵夫妻と嫡子が亡くなって、ロズリーだけが残ったと」
「彼女はその馬車に乗っていなかった?」
「具合が悪いと言って、外出しなかったそうです」
ルーカスのペンが、卓の上で一度だけ止まる。マギーはそれを見た。
「……何か?」
「いえ。続けてください」
ルーカスはそう言ったが、控えの端に短く何かを書きつけていた。
サミュエルもそれを見ている。二人の間で、何かが通ったようだった。
「それで、伯爵家で預かることになったと」
「はい。お父様は本家筋に近いから、と」
「ふむ」
サミュエルは書き留める。
「ロズリー嬢が来てから、何が変わった?」
マギーはすぐには答えられなかった。
――何が。
全部、と言いたかった。けれど、全部では伝わらない。
「最初は、何も」
そう言うと、サミュエルは顔を上げた。
「何も?」
「はい。最初は、私も気の毒だと思っていました。家の中のことを教えました。お茶の時間や、庭のことや、使用人の名前も」
「それが?」
「だんだん、私に聞かなくなりました。お義母様に聞くようになって、お父様やウィリアム兄様が助けるようになって。そうすると、私が使っていた場所やものが、少しずつロズリーのものになりました」
「具体的に話してくれ」
サミュエルは短く言った。
その声に、マギーは少しだけ助けられた。
具体的に。なら、話せる。
「居間の窓辺の椅子です。もともとは実の母が使っていた場所で、亡くなってからは私がよく使っていました。ロズリーが明るい場所でないと針目が見えにくいと言って、そこに刺繍箱を置くようになりました」
ルーカスが書く。
「ドレスの布地もです。淡い青の布で、母の肖像と似た色だったので、私が選んだものです。けれどロズリーのドレスになりました」
「誰が決めた」
「お義母様です。お父様もウィリアム兄様も、それがいいと言いました」
「マギーは断ったか」
「……断りかけました。でも、ロズリーが、もったいないと言って。それでも手を離さなくて。お父様が、私には他にもあると言いました」
夫人がそこで、茶器に手を伸ばす。音を立てないようにしているのがわかった。
「他にもある、か」
ルーカスが小さく言った。
「商売でもよく聞く言葉です。倉庫にまだあるなら一つ譲ってくれ、という時に」
「ルーカス」
サミュエルがたしなめる。
「失礼しました。でも、その言い方は危ない。相手に在庫があることと、その品を失ってよいかは別です」
マギーはルーカスを見た。その言葉が胸の中のどこかにすとんと落ちる。
「……そうです。そう言えばよかった」
「その場で言えないことは多いです」
ルーカスはペンを置いた。
「特に、周りが全員、相手に譲れという方向を向いている時は」
マギーは返事をしなかった。言葉を出すと、何かがこぼれだしそうだったからだ。
サミュエルは少し待ってから、話を戻した。
「あと、ブローチか?」
「ええ、お母様の形見の」
「それを、ロズリー嬢がつけていたと」
「はい」
「誰が渡した?」
「お義母様です。今日のお茶会にロズリーにはこれが似合うと」
「どこに保管していた?」
「私の部屋の小箱に」
「鍵は?」
「かけていました」
サミュエルのペンが止まった。
ルーカスも顔を上げた。
「……鍵を?」
「はい。でも、お義母様は屋敷の鍵を預かっています。私の小箱を開ける鍵も、たぶん……」
「たぶん?」
「以前、一度なくしたと思ったリボンが、お義母様の手で戻ってきたことがあります。マギーが置き忘れていたわ、と言われました。でも私は、その小箱に入れていたはずでした」
言ってから、マギーは口を閉じた。
――一度ではない。あった。もっとあった。
なくしたと思った本のしおり。母からもらった小さな香水瓶。古い手紙。
戻ってきたものもあれば、戻らなかったものもある。
その時は、自分の記憶違いかと思った。
……思わされた?
「……小箱だけではないかもしれません」
マギーは膝の布から指を離した。
「私の部屋に、誰かが入っていました」
初めて夫人もそこではっきりと眉を寄せた。
「それは、嫌だったでしょう」
ただ、それだけだった。
マギーはその言葉に、すぐ返事ができなかった。
嫌だった。そう言っていいことだったのか。
自分の部屋に入られること。母のものを出されること。知らないうちに、ロズリーのために選ばれること。
「……はい」
ようやく言う。
「嫌でした」
サミュエルはしばらく控えを見て、それから、ゆっくりペンを置いた。
「マギー。お前は家出したのではなく、避難した。少なくとも私はそう扱う」
マギーははっと顔を上げて兄を見る。
「よろしいのですか」
「よろしくないなら、昨日の駅で怒鳴って連れ戻している」
「でもお父様は」
「父上には、私から連絡する」
「何と」
「マギーは私の保護下にあり、ヘインズ家に滞在している。怪我はない。だが疲れているので、すぐには戻さない。詳しい話は後日。そんなところだ」
サミュエルは吐き捨てるように一気に言う。するとヘインズ氏もうなずいた。
「それがいい。所在を知らせれば、誘拐だの失踪だのにはならない。だがすぐ戻さないと明記すれば、向こうも動きにくい」
「父上が来たら?」
マギーは訊いた。
「来るなら来ればいい」
サミュエルは短く答えた。
「話し合いが必要だ。そしてここなら、少なくとも誰もお前の話を遮らせない」
ルーカスが、別の書付を出した。
「それと、確認することがあります」
「確認?」
「まず、ロズリー嬢が伯爵家へ来ることになった経緯です。子爵家の事故、爵位の王家預かり、本家筋としての伯爵家。順番は自然ですが、あまりに都合よくもあります」
「ルーカス」
サミュエルが少し低く言う。
「言い方」
「失礼。ですが、調べた方がいい」
ルーカスはマギーの方を見た。
「不快にさせるつもりはありません。ただ、事故で残された娘が、なぜそこで伯爵家へ来たのか。誰がそれを進めたのか。王家預かりの話は正式にどこから来たのか。そこは確認したい」
「それは、ロズリーが悪いということですか」
「まだ何もわかりません」
ルーカスは首を横に振る。
「ただ、物や部屋を取られる話と、子爵家の事故は、離して考えない方がいいかもしれない。少なくとも、私はそう思います」
ヘインズ氏が、そこで腕を組んだ。
「馬車の事故なら、記録が残るな。修理をした職人、車輪、馬具、御者。商会の知り合いから辿れるかもしれない」
「父上」
ルーカスが言う。
「今朝の段階でそこまで?」
「商売人は、事故と契約不履行には敏感なんだよ」
ヘインズ氏は当然のように答えた。
「人が死んだ馬車事故なら、誰かが損をしている訳だ。葬儀屋、馬車屋、修理職人、保険を扱う者、借金取り。どこかに話は残る」
マギーは手元の便箋を見る。
屋敷では、誰もそんなふうに言わなかった。ロズリーが可哀想だとか、マギーが譲るべきだとか、父が困ったとか、ウィリアムが怒ったとか。そういう話ばかりだった。
けれどここでは、誰が、いつ、何をしたのかを聞かれる。
……そして、誰も途中でマギーを責めない。
「私は」
マギーは口を開いた。
「私は、何をすれば?」
「思い出せ、そして覚えていることを書いておけ」
サミュエルが言った。
「順番は後で直せばいい。思い出した順で構わない」
「順番が違っても?」
「違ってもいい。むしろ無理に揃えてしまわない方がいい。お前が覚えている違和感は、お前にしか出せない」
「違和感……」
「ああ。小箱が開けられていたこと。ロズリー嬢の言葉。お義母様の動き。父上やウィリアムが何と言ったか。小さいことでもいい」
「小さいことでも」
「小さいことの方が正直なことがあります」
ルーカスが続けた。
「大きな話は言い訳で飾れます。でも、誰がどの鍵を持っていたか、どの布がいつ移動したか、誰が駅へ使いに出たか。そういうことは、後からずれが出る」
ヘインズ夫人が、マギーの前に新しい便箋を置いた。
「書けるところからでいいのよ。無理に上手く書こうとしないで」
マギーはペンを取った。
最初に書いたのは、ロズリーが来た日の雨のことだった。玄関広間の濡れた靴跡。父の外套。お義母様がすぐに部屋を用意しましょうと言ったこと。
それから、ロズリーの袖口が少し合っていなかったこと。
細かすぎるかと思った。
けれどルーカスは、その行の横へ小さく印をつけた。
「喪服が急ごしらえだったかもしれませんね」
「そんなことまで?」
「服は嘘をつくのが下手です」
ヘインズ夫人が言った。
「急いで用意した服は、どこか合いません。誰の手で用意したかも、仕立屋を辿ればわかることがあります」
「仕立屋なら、母上の方が早いな」
ルーカスが言う。
「王都の喪服なら、店は限られるもの」
ヘインズ夫人はすぐに立ち上がり、小さな書き物机から帳面を持ってきた。中には、布屋や仕立屋の名が細かく書かれている。
「子爵家のある町なら、この二軒かしら。急ぎで喪服を仕立てるなら、こちら。袖を詰める時間がなかったなら、既製のものを直した可能性もあるわ」
「母上、さすがに早すぎる」
「早い方がいいでしょう」
そう言って、夫人は帳面の一部を写し始める。
マギーはペンを持ったまま、その手元を見ていた。
自分が何となく覚えていた袖口が、誰かの手で書き留められていく。
雨。外套。袖口。どれも、屋敷ではすぐ消えてしまうようなことだった。
*
昼前、サミュエルは父へ送る手紙を書いた。
――マギーは王都におります。
――現在、私の友人ヘインズ家にて保護されています。
――怪我はありません。
――ただし、本人の状態を鑑み、すぐに帰宅させることはいたしません。
――事情を確認した上で、改めてご連絡いたします。
マギーはその文面を読ませてもらった。
「これでは、お父様は怒ると思います」
「怒るだろうな」
サミュエルは封をしながら答えた。
「ウィリアムも怒るさ」
「怒るでしょうか」
「怒る。あいつは昔から、自分が心配している時に、相手が自分の思った通りに動かないと怒るんだ」
その言い方に、マギーは少し驚いた。
「兄様は、ウィリアム兄様のことをそう思っていたのですか」
「ああ、ずっとな」
サミュエルは封蝋を垂らした。
「むしろ、お前は気づいていなかったのか?」
「……頼れる兄だと思っていました」
「頼れるところもある。だが、自分の正しさを疑うのは下手だ」
ルーカスが横で、なるほど、と言った。
「長男らしいですね」
「お前は今、全ての長男を敵に回したぞ」
「私は次男なので」
「私も次男だ」
「では安全です」
サミュエルは呆れたようにルーカスを見た。
マギーは、また少しだけ笑った。
笑ってから、便箋に視線を戻す。
王都へ来てから、まだ一日も経っていない。それなのに、家にいた頃より息がしやすい。
マギーはペン先を置いた。
居間の椅子。青い布。母のブローチ。鍵。
それから、ロズリーが指を離さなかった時のこと。
書いている間、ヘインズ夫人のペンもまた、隣の机でずっと動いていた。




