番外編8 オードリー――事故と余白
子爵家からの手紙には、事故の場所も書かれていた。
古い橋を越えた先の坂だった。
私はその道を知っている。子爵家から親族の屋敷へ向かう、一番近い道だ。
晴れていれば馬車で半日。
だが雨が来れば、橋の向こうの坂は泥を含む。車輪は深く沈み、馬は焦れ、御者は早く抜けようとする。
私はミルナーに、橋の手前と頼んだつもりだった。
そこで車輪が外れれば、馬車は止まる。人を呼びに戻るか、別の馬車を待つか、どちらにせよ、その日の話し合いは流れる。ロズリーが乗っていなければ、それで足りるはずだった。
ただ、子爵は予定を変えることを嫌う男だった。
雨が来れば、道は悪くなる。
道が悪くなっても、子爵は進ませる。
御者は急ぐ。
馬は坂で足を取られる。
……そこから先は、私が命じることではない。そう考えた。
そして事故は、橋の向こうで起きた。
手紙によれば、馬車は一度、橋の手前で止まっている。
車輪の具合が悪くなり、供の者が確認した。だが子爵は先を急がせた。
雨が強くなる前に親族の屋敷へ着きたいと、そう言ったらしい。
だが橋を越えたところで雨が強くなった。
坂の途中で、片方の車輪が深く沈んだ。御者は馬を立て直そうとし、馬車は大きく傾いた。
濡れた土の端が崩れ、馬ごと崖下へ落ち、子爵夫妻と嫡男は、その場で亡くなった。
それだけで、頭の上の重石が一つ、外れた気がした。
あの男はもう、何処にもいない。
それから私はロズリーが屋敷に残っていたことだけを、問い合わせ、何度も確かめた。
手紙には、ロズリーは体調不良のため外出を控えた、とあった。
ミルナーが伝えた言葉は届いたのだろう。
――お母上から。
その言葉を、ロズリーがどう受け取ったのかはわからない。
子爵夫人を指すものと思ったかもしれない。遠い誰かの気遣いと思ったかもしれない。
あるいは、黄色いリボンを贈った伯爵夫人のことを思ったかもしれない。
どの母でもいい。ロズリーがその馬車に乗らなかったなら。
*
伯爵家の朝食は、いつも通り整えられていた。
焼きたてのパン。温めた牛乳。薄く切った果物。銀器は磨かれ、食卓の花は淡い白だった。
マギーは新聞の小さな記事を読んでいた。伯爵はまだ書斎にいる。
ウィリアムは外へ出ていて、サミュエルは王都だった。
私は家令を呼んだ。
「子爵家へ、弔問の支度を」
「かしこまりました」
「それから、ロズリー様のために用意した黒の服を出して」
家令は一瞬だけ、私を見た。
「もう、用意が」
「念のために作らせておいたものです」
「かしこまりました」
念のため。
黒い服は、馬車置き場の隣にある小部屋へ運ばせてあった。
花は白に替えた。玄関広間の燭台を磨かせ、伯爵家の馬車を一台用意させる。伯爵家としての弔意を示すには、支度が要る。
マギーが食堂の椅子から立った。
「お義母様、子爵家で事故があったのですか」
「ええ、お嬢様以外が……」
「その方は」
「屋敷に残っていらしたそうよ」
マギーは胸元で息を整えた。
「よかった」
その言葉は、まっすぐだった。
私は頷いた。
「あなたは先に朝食を」
「はい」
マギーは椅子へ戻った。新聞は膝の上に置かれたままだった。温めた牛乳の表面に、薄い膜が張りはじめていた。
*
子爵家の門には、黒い布がかかっていた。
高く、飾りの多い鉄門。ロズリーが六つの時にくぐった門。
門柱の紋章には喪布が下がり、玄関前には弔問の馬車が何台も並んでいる。
雨上がりの砂利は重く、車輪の跡が深く残っていた。
伯爵は私の横で帽子を取った。
「ひどい事故だったようだな」
「ええ」
伯爵は、亡くなった者たちへ哀悼を示すために来た。
そして私は、その隣に立つ伯爵夫人として来た。
屋敷の中は、混乱していた。
使用人たちは黒いリボンをつけ、廊下を急いで行き来している。
誰が次の指示を出すのか、まだ決まっていないのだろう。
家令は顔色を悪くしながら客の対応をし、奥向きの女中たちは泣き腫らした目で盆を運んでいた。
その中で、子爵家の執事だけは、背筋を伸ばしていた。
「バーレイ伯爵閣下、伯爵夫人。よくお越しくださいました」
彼は深く頭を下げた。
「ロズリー様は」
私が訊ねると、執事は短く答えた。
「奥においでです」
ロズリーは、小さな客間にいた。
用意させた黒い服は、もう着せられていた。袖はやはり少し長かった。肩も余る。けれど、喪服としては整っていた。
髪はきちんと結われ、顔は白い。十五の少女が、急な死の中に置かれている。
胸元には、黄色いリボンはなかったが、袖口の内側に、小さな黄色が縫いつけられていた。
外からはほとんど見えない。けれど、あの子の腕が少し動けば、布の奥に色が見える。
ロズリーは立ち上がり、私達に礼をした。
「伯爵閣下、伯爵夫人。お越しいただき、ありがとうございます」
声は細いが、作法は整っていた。作法だけは、子爵家があの子に与えたのだろう。
「お悔やみ申し上げます」
伯爵が言った。
「ありがとうございます」
ロズリーはそう言ってこちらを見た。私をまっすぐ見て、それから少し揺れた。
覚えているのかもしれない。
黄色いリボンのことを。林檎の木の下の靴音を。帽子の羽に触れた日のことを。
あるいは、ただ伯爵夫人が何度も品を贈ってきた相手として見ているだけかもしれない。
私はそれを確かめなかった。
「急なことで、お疲れでしょう」
私が言うと、ロズリーは小さく頷いた。
「はい。ですが、皆様の方が大変ですので」
――皆様。
その中に、ロズリー自身は入っていなかった。私は伯爵家の奥様として言った。
「休める時にお休みなさい。喪の支度は、伯爵家からも手を貸します」
ロズリーはまた礼をした。
「ありがとうございます、伯爵夫人」
――伯爵夫人。
それでいい。その呼び方のままなら、ロズリーは守れる。
*
葬儀は、慌ただしく進んだ。
子爵夫妻と嫡男が同時に亡くなったことで、子爵家の中は大きく傾いた。
親族は集まり、書類が運び出され、誰が何を継ぐか、誰が後見に立つか、誰が財産を管理するか、話が次々と出た。
だが子爵位は、すぐには誰のものにもならず、王家の預かりになった。
その知らせが届いた時、子爵家の客間では、親族たちの声が一段低くなった。
爵位の行方が定まらない間、屋敷も財産も、王家の監督を受ける。
残された者たちは、勝手に娘を動かせない。商家との縁談も、そのまま進めるわけにはいかなくなった。
ロズリーは庶子で、若い娘だ。
子爵家の血を引いていることは知られていても、次の子爵として立つには周囲の手が要る。
本人の意思、後見人、王家への説明、親族の同意。いくつもの手続きの言葉が必要だった。
ただ、言葉なら選ぶことができる。子爵家の執事は、その手続きを上手く整えた。
――亡き子爵がロズリーを家に入れた経緯。
――教育にかけた費用。
――家の娘として扱っていた事実。
――生前、将来を考えていたこと。
そこには、いくつもの余白があった。そして余白は、読む者によって形を変えるものだ。




