番外編7 オードリー――馬車を止める話
その日、子爵が訪ねてきたのは伯爵への挨拶という名目だった。
実際には、ロズリーの縁談について、伯爵家がどの程度口を挟む気でいるかを見に来たのだろう。
私があの子に品を贈っていることも、手紙をやり取りしていることも、子爵家の中ではもう知られているはずだった。
客間には、赤みの強い薔薇を置かせた。
茶は濃いめにし、砂糖壺は子爵の近くへ置く。
子爵は、昔より年を取っていた。
髪は薄くなり、腹が少し出ている。
けれど声は変わっていなかった。
父の書斎で聞いた声と同じ響きが、伯爵家の客間に入ってきた。
「よくおいでくださいました」
「こちらこそ、伯爵閣下にはご無沙汰を」
子爵は礼をして、それから私へ目を向けた。
「伯爵夫人も、ご健勝のご様子で。ラングレー男爵には、しばらくお目にかかっておりませんな」
「父も相変わらずでございます」
「それは何より」
子爵はそこで、口元だけを少し上げた。
客間にいる他の者へ向けたものではなかった。伯爵には見えにくい角度だ。控えている従僕も、盆を持って顔を伏せている。
私だけが、その口元を見ていた。
――知っている。
その笑みは、そう言っていた。
ラングレー男爵家の娘だったことも、あの家の奥の部屋で何が処理されたのかも、ロズリーがどこから子爵家へ移されたのかも。
そして今、その娘が伯爵夫人として、自分の前に茶を出していることも。
子爵は茶へ砂糖を二つ入れた。
匙が茶器の縁に当たり、小さく鳴る。
「ロズリーのことも、ずいぶんお気にかけてくださっているとか」
「縁あるお嬢様ですから」
「ええ。縁はございますな」
また、口元が動いた。
伯爵家の客間には、よく磨かれた茶器と、赤い薔薇と、穏やかな午後の光があった。
窓の外では庭師が植え込みを刈っている。鋏の音が、時々、小さく届く。
その中で、子爵の声だけが、父の書斎から続いているように聞こえた。
「あの子は元気ですよ」
子爵は低い声で言った。
「最初は色々と《《手間》》もかかりましたがね。まあ、《《血は争えん》》というべきか、《《見られる娘》》になりましたよ」
私は子爵の杯を見た。茶は半分ほど減っている。
「それは何よりでございます」
「伯爵夫人にそう言っていただけるなら、あれも喜びましょう」
子爵は笑った。
ロズリーに対して、父親の響きなど少しも混じっていない。
この男は、自分の家へ入れ、教育係をつけ、作法を仕込んだことで値が上がった、商家へ渡す品物として話している。
「こちらとしても、あの娘にはよい行き先を用意してやりたい。商家とはいえ、金はある。若い妻を欲しがっている。あの娘にとっても悪い話ではないでしょう」
伯爵が少し眉を動かした。
「ロズリー嬢は、まだお若いのでは……?」
「若いからこそ、先方も喜ぶのです」
子爵は伯爵へ向き直った。今度の笑みは、男同士の話として差し出されたものだった。
「女は若いうちに行き先を決めるのが一番です。妙に知恵がつくと、扱いにくくなる」
盆の上で、匙が一つ鳴った。若い従僕がすぐ姿勢を整える。
伯爵は茶碗を置き、領地の道路整備の話へ移した。
客間の午後は、形を崩さずに続いた。
子爵は、ロズリーの話をした。
伯爵は、道路の話をした。
私は、茶を注ぎ足した。
客人が帰る頃、玄関広間には夕方の光が差していた。
床石の上に長い赤みが伸びている。子爵は手袋を受け取り、伯爵に礼を述べた。
「伯爵夫人」
彼は馬車に乗る前に、もう一度こちらを見た。
「ロズリーには、あなたからもよく言ってやってください。あれは、まだ自分の値打ちがよくわかっておらん」
「私から、でございますか」
「ええ。あなたなら、あの子も聞くでしょう。何しろ、縁が深い」
子爵は小さく笑う。私に直接向けたものだった。
伯爵にはただの冗談めいた言葉に聞こえただろう。
従僕には意味のわからない話だっただろう。
けれど私は、その「縁」の中身を知っている。子爵も、知っている。
「……折りがありましたら」
子爵は満足そうに頷き、馬車へ乗り込んだ。
黒い馬車だ。紋章の金具は古びているが、よく磨かれている。
扉が閉まり、御者が手綱を取る。馬車は伯爵家の門へ向かって進んだ。
玄関広間には、夕方の光だけが残った。赤い光だった。
ふと、父の書斎の絨毯を思い出した。
赤い花と青い蔓。銀の燭台。白い蝋。
あの夜、燭台は机の上にあった。
――今は、机の上だけを見る必要はない。
*
ミルナーは、右の頬に古い傷がある男だった。
ラングレー男爵家にいた頃から、使いに出されることの多かった。
荷を運び、書類を届け、時には人目につかないものも預かる。
父は彼を便利に使っていたし、母はあまり好まなかった。
痩せていて、声が低く、目立たない場所に立つのがうまい男だった。
私が伯爵家へ嫁いでからも、数度、男爵家からの使いとして姿を見た。
そのたびに、ミルナーは私を「奥様」と呼んだ。
ラングレーのお嬢様ではなく、バーレイ伯爵夫人として。
子爵の訪問からまもなく、私は王都の布屋へ行った。マギーの春の外出着に使う薄い布を見るためだった。
布屋の奥には、古くからの得意客だけが使う小部屋がある。採寸や高価なレースの確認をするための部屋で、外の店員の声が少し遠くなる。
そこで、ミルナーに会った。
布屋の女主人は何も訊かなかった。
ラングレー男爵家とも、バーレイ伯爵家とも取引のある女だった。
品物を見せ、茶を出し、途中で小部屋を離れた。
「奥様」
ミルナーは頭を下げた。
「急に呼んで悪かったわ」
「いえ」
彼は顔を上げた。
傷のある頬が、窓から入る光で少し白く見えた。
「……子爵家のロズリー様の件ですね」
私は少しだけ布に視線を落とした。淡い桃色の薄絹だった。マギーには、少し甘すぎるかもしれない。
「耳が早いのね」
「男爵家にも話は流れております。子爵家の縁談は、あちらこちらで噂になっていますので」
「近く、ロズリーが子爵家の親族の屋敷へ連れて行かれるそうです」
「処遇を決めるため、と聞きました」
処遇、とミルナーは言った。
「……その馬車を止めてほしいの」
小部屋の外では、布を広げる音がした。店員が客へ何か説明している。春の新しい織り、王都で流行の色、どこそこの夫人も同じものを選んだ。そういう声が扉越しに聞こえてくる。
「止める、とは」
ミルナーは少し考えてから私に問いかけた。
「途中で動けなくなればいいのよ。到着できなければ、その日の話は流れるわ。ロズリーを連れていく予定も崩れるでしょう」
「止めるには、あの、馬を驚かせるのは危険です」
「馬ではなく、車輪を」
私は言った。ミルナーの目が細くなった。
「途中、道の悪いところがあります。坂へ入る前で車輪が外れれば、馬車は止まって先へ進めない。人を呼びに行っている間に、話は潰れるでしょう。時間を守ることは何よりもこの類の話では大切よ」
「……車輪が外れれば、馬車は止まりますね」
「ええ」
私は布の端を見た。
「怪我人は出さないようにね」
「承知いたしました」
「それから、ロズリーには外出を避けるよう伝えて」
「何と」
「体調がすぐれないなら、無理をして出る必要はない、と。お母上から、と言えばわかるでしょう」
ミルナーは、その時初めて顔を上げ、私の顔を真っ直ぐに見た。
ロズリーにとって、その言葉がどのように届くか――
彼はたぶん考えた。
――お母上。誰のことか。
――ロズリーがそれをどう受け止めるか。
「奥様」
「ロズリーには、何も知らせないで頂戴」
「馬車の件は」
「もちろんよ」
「では、お母上から、という言葉だけを……」
「ええ」
ミルナーは再び頭を下げた。
「承知いたしました」
ミルナーが去った後、私は布屋の女主人を呼んだ。
マギーには、結局淡い桃色ではなく、少し落ち着いた藤色を選んだ。
女主人はよいお見立てですと言い、帳面へ記した。
その帰り、馬車の中でロケットを開けた。
黄色いリボンのロズリーが、写真の中で椅子に座っている。
子爵家の親族の屋敷へ連れて行かれれば、ロズリーはそこで縁談の話を本決まりにさせられる。
だから。
私はロケットを閉じた。
金具が、小さく鳴った。
*
事故の前日、私はミルナーを呼び、ロズリーの喪服を用意するよう命じた。
ロズリーの寸法は、贈り物のために何度か聞いてあった。完全に合うものは難しいが、急場に着るものなら仕立てられる。
ミルナーは一度だけ眉を動かしたが、問い返しはしなかった。
「子爵家のお嬢様のものでございますね」
「ええ。ご親族に、ご高齢の方がおありでしょう。念のためよ」
――念のため。
その言葉も便利だった。
ミルナーは頷き、すぐに仕立て屋を呼ばせた。
後で聞いたところでは、針子は少し不思議そうな顔をしたらしい。
「子爵家のお嬢様に……でございますか?」
「奥様からのご指示です。念のために、とのことで」
それで針子はそれ以上訊ねなかったという。
黒い布が広げられた。袖丈は少し長く取り、後で直せるよう縫い代を残す。若い娘の喪服だから、飾りは控えめにする。
襟元に小さな白を入れるかと訊かれ、ミルナーは入れないよう答えた。
「急ぎでお願いいたします」
「明日の朝までには」
「いいえ。今夜のうちに」
針子は少し驚いたらしいが、すぐ作業へ移った。
帰宅後、ミルナーは帳面に布の使用分を記させた。
――子爵家、ロズリー嬢用。予備。
夜には、服が出来上がってきた。
私はそこで初めて、その喪服を見た。
ただ袖は少し長い。肩も余るだろう。けれど、急な喪には使える。
私はそれを箱に入れさせ、伯爵家の馬車置き場の隣にある小部屋へ運ばせた。
《《子爵家から急な知らせが来れば》》、すぐ出せる場所だった。
箱が運ばれていくのを見届けてから、私は開けた窓の外を眺めた。
空は重く、雨の匂いが感じられた。
*
その夜、マギーは刺繍をしていた。
淡い緑の糸で、小さな葉を縫っている。私が部屋へ入ると、顔を上げた。
「お義母様、遅くまでお仕事ですか」
「少し衣装部屋を見ていたの」
「春の夜会用ですか」
「ええ」
マギーは刺繍枠へ目を戻した。
「では、また相談に乗ってください。私、黄色はどうしても似合わない気がして」
「あなたには、青か藤色の方が合うわ」
「やっぱり」
マギーは少し笑った。
ロズリーは黄色を好む。マギーは藤色が似合う。
それぞれ、似合う色があるというのに、どうして与えられる場所はいつも一つなんだろう?
*
子爵家の馬車が出た昼過ぎに、ミルナーから短い伝言が入った。ロズリー様は屋敷にお残りです。そう書かれていた。
私はその紙を暖炉に入れた。紙はすぐ黒くなり、端から丸まった。
*
夕方になっても、子爵家からの知らせはなかった。
私は食堂の花を替えさせ、翌朝の馬車の予定を確認し、マギーの外出に使う手袋を選んだ。
伯爵は書斎にいた。ウィリアムは友人からの手紙を読んでいた。サミュエルは王都だった。
伯爵家の夜は、いつも通りに過ぎた。
*
翌朝、事故の知らせが届いた。
差出人は、子爵家の執事だった。封蝋は乱れ、紙には水の跡があった。
――子爵夫妻と嫡男が馬車事故により亡くなったこと。
――ロズリーは体調不良のため外出せず、無事であること。
――屋敷が混乱しているため、助力を願いたいこと。
私はそこまで読んだ。




