番外編9 オードリー――悔いの言葉はいらない
私は、伯爵家へ戻ってから伯爵に話した。
「ロズリー嬢の件で、子爵家から相談がございます」
「ロズリー嬢?」
伯爵は少し考えた。
その名を、彼はまだ何度も口にしたことがない。
弔問の席で会った、若い子爵家の娘。事故に遭わず屋敷に残っていた庶子。
私が以前から少し気にかけていたらしい令嬢。
伯爵にとっては、そのくらいだった。
「子爵位が王家預かりとなる間、あの方の身の振り方が難しくなります」
「親族が見るのではないのか」
「親族の方々は、それぞれ利害がございます。商家との縁談も一度止まっておりますが、また持ち出されるでしょう。若い娘を、喪中の混乱した家に置くより、しばらく外へ出した方がよいという話になっています」
「外へ、とは」
「亡き子爵家と縁のある家へ、一時的に」
私はそこで言葉を置いた。
「バーレイ家へ、という話です」
伯爵は驚いた顔をした。
「我が家へ?」
「はい」
「我が家と子爵家に、それほど近い縁があったか」
「古い社交上の縁がございます。私も、ロズリー様へ季節の品を何度か贈っておりました。伯爵家ならば、若い令嬢を置くにふさわしい女手もございます。マギーとも年が近いし」
伯爵は椅子の背にもたれた。
急な話だ。それはそうだ。
伯爵家にとって、ロズリーは突然降ってきた縁者だった。
けれど貴族の家には、そういう縁がいくつもある。
遠い親戚、社交上の義理、後見の名目、喪中の一時滞在――
伯爵はその可能性を、どれも知っている。
「マギーには負担ではないか」
「部屋は別に用意します。世話も私が見ます」
「そうか」
伯爵は少し考え、それから頷いた。
「若い娘が、事故の後の家で落ち着けるとも思えない。しばらくなら、我が家で預かるのもよいだろう」
――よいだろう。
その一言で、扉は開いた。
*
次にウィリアムへ話が行った。
彼は最初から、妙に顔を引き締めていた。
弔問の時にロズリーを見たのだろう。黒い服を着た、白い顔の少女。
急な死の中で礼を崩さず、細い声で礼を言った娘。
ウィリアムは、そういうものに弱い。
「気の毒な方ですね」
彼は言った。
「ええ」
「子爵家の親族が、あの方をまた商家へやろうとするなら、誰かが止めるべきです」
――誰か。
彼のその言葉は、いつも自分を含んでいる。
ウィリアムは父に似て善良だった。
けれど父ほど現実を見ていない。
誰かを守るという言葉が好きで、その誰かの隣にいる者が削られるところまでは見ない。
マギーが少し困った顔をしても、妹ならわかってくれると考える。
ロズリーがうつむけば、怯えていると思うし、礼を言えば、健気だと思うだろう。
扱いやすい青年だった。
「ウィリアムがそう言ってくれるなら、心強いわ」
私が言うと、彼は少し照れた顔をした。
「当然のことです。弱い立場の方を守るのは、家の務めでしょう」
――当然。
――務め。
ウィリアムはその二つを胸に置くと、他のものが見えにくくなる。
*
サミュエルには、王都へ手紙を送った。
彼からの返事は少し遅れたが、情報は多かった。
子爵家の親族関係、商家との話がどこまで進んでいたか、王家預かりとなった爵位についての噂。
手紙の最後には、いつもの字でこうあった。
――義母上のご判断に従います。
――ただ、マギーが急な変化に戸惑わぬよう、父上と兄上に先に話を通してください。
――兄上は、気の毒な方を見ると少々前のめりになります。
サミュエルは遠くにいる分、兄のことがよく見える。その距離が今は役に立った。
あの子が近くにいると、上手くいかないだろう。
*
マギーに話したのは、一番最後だった。
あの子は驚いた。
「子爵家のロズリー様が、こちらへ?」
「ええ。しばらくの間よ。子爵家が落ち着くまで」
「そう、ですか」
マギーは少し考え、それから顔を上げた。
「私でお手伝いできることはありますか」
よくできた娘だ。本当に、よくできた娘だった。
「最初は不安でしょうから、あなたが案内してくれると助かるわ」
「はい」
「同じ年頃の娘がいる方が、ロズリー様も落ち着くでしょう」
「ええ」
マギーは頷いた。
*
その時のマギーは、まだロズリーを知らなかった。
子爵家で何があったかも、私とロズリーの間に何があるかも、黄色いリボンのことも、橋の手前のことも、何も知らない。
彼女はただ、突然来る気の毒な縁者を、迎えるつもりでいた。
私はその善良さも使った。
ロズリーを伯爵家へ入れる書面には、こう書かれた。
――亡き子爵家と縁のあるバーレイ伯爵家にて、ロズリー嬢の一時滞在を願う。
《《縁》》。
血とは書かれない。母とは書かれない。
男爵家の奥の部屋も、父の書斎も、子爵の笑みも、ミルナーの名も、橋の手前も、雨の坂も、どこにもない。
ただ、縁。
その曖昧な言葉が、ロズリーを伯爵家へ運んだ。
*
ロズリーが伯爵家へ来た日、マギーは玄関広間で出迎えた。
私は隣に立っていた。
伯爵もいる。
ウィリアムは少し後ろ、サミュエルは王都から戻っていた。
ロズリーは黒い喪服を着ていた。
急ぎで直したのだろう、袖口だけが少し長かった。
黄色いリボンは袖口の内側に小さく縫いつけたままだった。
「お世話になります」
ロズリーは礼をした。
マギーが一歩前へ出た。
「こちらこそ。ロズリー様、お疲れでしょう。お部屋へご案内します」
ウィリアムがその横で、少し満足そうな顔をした。
妹が優しく迎えている。気の毒な令嬢が安心している。自分たちは正しいことをしている。彼の中では、その形がすぐに美しい形で揃ったのだろう。
ロズリーはマギーを見た。
伯爵家の娘。淡い青のドレス。亡き母の真珠。父と兄たちに大切にされ、部屋には天蓋があり、朝には温めた牛乳が届く娘。
二人が、玄関広間で向かい合っていた。
私は家令へ、ロズリーの部屋の鍵を渡した。
用意した部屋は、マギーの部屋より少し小さい。
けれど日当たりはよく、暖炉もある。
寝台の天蓋は淡い黄色にした。
衣装棚には、年頃に合う服を入れた。
刺繍糸も、リボンも、靴も用意した。
ロズリーに、与えられてよかったはずのものを、伯爵家の奥様として整えた。
マギーはロズリーを案内した。
廊下の向こうから、二人の声が少し聞こえた。
ロズリーの声は細く、マギーの声は明るすぎない程度に柔らかかった。
伯爵が私の横に立った。
「大丈夫だろうか」
「時間はかかるでしょう」
「マギーは、うまくやると思う」
「ええ」
マギーは、うまくやる。そうできる子だ。
だからこそ、私はその位置を少しずつ、少しずつ、動かしていった。
ロズリーに家庭教師をつける。
マギーと同じ茶会に出す。
マギーの古い髪飾りを、ロズリーに合うよう直させる。
伯爵家の馬車に同乗させる。
客には、子爵家のロズリー様として紹介する。
最初は、ロズリーが伯爵家で困らぬように。
次には、ロズリーが伯爵家の中で見劣りしないように。
その次には、ロズリーがマギーと並んで立てるように。
そして、やがて。
あわよくば。
その言葉は、私の中にあった。
ロズリーがこの家に慣れ、伯爵があの子を気にかけ、ウィリアムが庇い、マギーが譲る。
その度に、少しずつ場所が動く。
伯爵家のあたたかさが、ロズリーの方へ流れる。
マギーはよくできた娘だった。だから、譲れてしまう。
ウィリアムはまっすぐな青年だった。だから、ロズリーの涙に弱い。
ロズリーは、自分がどれだけのものを受け取っているか、まだよくわかっていなかった。
けれど、欲しいものへ顔を向けることは覚えていった。
黄色いリボンを大事にした子が、伯爵家の暖炉と菓子と兄たちの声を知る。
その変化を、私はあえて止めなかった。
マギーの母の形見を、ロズリーにつけさせた朝のことも、私は覚えている。
真珠の小さなブローチ。
派手ではなく、けれどマギーにとっては大事なもの。私はそれをロズリーの胸元に留めた。
「今日のお茶会には、これが似合うわ」
ロズリーは戸惑い、けれど嬉しそうにした。
その時私は気付いた。ロズリーの笑みの中には、あの頃の私がいた。
あの日、子爵がそうしなかったら。
私は明るい服を身にまとい、お茶会に出、若い娘としての社交をし。
もしかしたら年相応の出会いもあったかもしれない。同じ年頃の友もできたかもしれない。
あの頃の私の可能性が、目の前のロズリーの中にあった。
過去は戻らない。それは知っている。
なら、この目の前の私の娘に、それが与えられてもいいのではないか?
この家から出す娘、私の娘。もう一人の私。こうあるべきだった私。
マギーが朝食の席でこの家の異常に気づくことも、ウィリアムがそれでもロズリーを庇うことも、伯爵が譲れと言うことも、私はわかっていた。
わかっていて、茶器の横に砂糖壺を置き直した。
あの時のマギーの顔は、それからもずっと思い出せた。
何度も同じ場所から少しずつ削られてきた疲れがそこにはあった。
私はその顔を見て、ロズリーの黄色いリボンを思い出した。
でもやはり私はこう思った。こうとしか思えなかった。
――ロズリーにはそれしかなかった。私にはそれすらなかった。
――だったら足りているあなたが、少しくらい差し出してもいいではないか。
結果、マギーは家を出て――すべてが、表へ出た。
私の誤算は、ロズリーをマギーの位置に置き換えようとしたこと、そして彼女の実母への思いだった。
私自身が母への不信があった。だからそこまでマギーが実母のものへ執着があると、想像ができなくなっていた。
マギーの、この家での席をそのままにすれば問題は起きなかった。ロズリーに、もう一つ椅子を持ってくればよかっただけの話だ。
だがそうできなかった。昔の私が、ただそこにいて、幸せなマギーを許せなかったのだ。
それだけ、少女の私がずっともがき叫んでいたこと。
そしてそんな自分に気付けなかったこと。
全ての敗因は、そこだったのだ。
***
修道院の門は、朝の光の中で白く見えた。
王家の護送馬車は、その前で止まった。
護衛が先に降り、書状を持って門の横へ向かう。私は馬車の中で、石壁に絡んだ冬枯れの蔦を見ていた。
この先、私はここで暮らす。
王家の裁定は、処刑ではなく、終生の修道院入りだった。
伯爵家からは離される。名も地位も戻らない。
社交の場へ出ることも、家政を預かることも、手紙を自由に出すことも終わる。
ロケットだけは、取り上げられなかった。
調べた役人は、中の写真を見たはずだ。黄色いリボンの子供。伯爵夫人が持つには少し奇妙な写真。
だが、すでにすべてが奇妙な女の持ち物として扱われた。
馬車の扉が開いた。
冷たい空気が入ってくる。私は降りた。
足元の石はよく磨かれていた。昔、母と寄付を届けに来た修道院の床に似ている。
白い壁、乾いた薬草の匂い、遠くで誰かが祈る声。
修道女が私の前に立った。
「オードリー・ラングレー様」
「はい」
「ここから先は、修道院の規則に従っていただきます」
「承知しております」
修道女は頷いた。
護送の役人が書面を開いた。形式通りの確認だった。
名、出自、裁定、持ち物、外部との通信制限。
言葉は乾いていた。よく乾いた紙の上に、よく乾いた声で読み上げられていく。
最後に、役人がこちらを見た。
「何か申し残すことは」
門の内側で、鐘が鳴り始めた。
――一つ目。
言えることは、いくらでもあった。
子爵のこと。男爵家のこと。父の書斎。
母の香水。ロズリーの産声。
郊外の林檎の木。黄色いリボン。
ミルナー。橋の手前。雨の坂。
伯爵家の鍵。マギーの真珠のブローチ。
――二つ目。
そのどれか一つを口にすれば、次の一つが出てくる。
次を出せば、その次が出る。
そうして最後には、ロズリーの名が、私の言葉の中に落ちる。
――三つ目。
言外に、悔いの言葉を求めているのかもしれない。
子爵家の馬車が崖下へ落ちたこと。
子爵夫人と嫡男が死んだこと。
マギーの居場所を削ったこと。
伯爵家の食卓を、ロズリーのための場所へ少しずつ変えたこと。
それらを私は罪だと知っている。けれど、そうしたことに悔いはない。
私はそうしたいと思い、そしてしたのだ。
そこに悔いはない。その言葉もない。
――四つ目。
私は修道女の向こうにある中庭を見た。
冬の花壇は土だけで、中央に井戸がある。井戸の縁には薄く苔がついていた。
「ございません」
役人は書面に目を落とした。修道女が横へ退く。
私は門をくぐった。
背後で、木の扉が閉まり始める。外の空が細くなり、蹄の音が遠ざかる。蝶番が低く鳴った。
最後に、鍵が回った。
END




