番外編3 オードリー――あの子は六つだった
ロズリーが男爵家にいたのは三ヶ月だけだった。
同じ屋根の下にいた、というだけだ。私の部屋に運ばれてくることはほとんどなかった。
母は私の体を休ませるためだと言い、医師も頷いた。
乳母は小部屋に寝起きし、夜になると火を細く残して、赤子の寝台のそばに座った。
でも、小部屋の扉は、昼間だけ少し開いていた。
私は寝台から起きられるようになると、廊下を歩く時間を与えられた。医師がそうしろと言ったからだ。
侍女がつき、母のいる時間を避けて、日差しのある廊下を端まで歩く。窓の外では、庭師が早春の土を返していた。
その廊下の途中で、小部屋の扉の隙間から、ロズリーの寝台が見えた。
白い布。小さな枕。乳母の背中。揺れるゆりかご。
乳母は、ときどき私の足音に気づいて、扉の方へ顔を向けた。
私が立っていると、困ったように笑って、それから寝台の布をほんの少しだけ直す。
「よく眠っておいでです」
そう言う日もあれば、
「今日はよく飲みました」
そう言う日もあった。
私は頷き、廊下の続きを歩いた。
*
母は一か月もすると、私の結婚の話をまた始めた。
――今すぐではない。
――もちろん今すぐではないけれど、《《いずれは》》考えなくてはならない。
そういう言い方をした。
父はもっと具体的だった。
――体調を崩した期間が長い娘として扱えば、数年は《《どうにかなる》》。よい家を選ぶには《《時間》》がいる。
父の言う時間は、私のためのものではなかった。
あくまでこの先の手続きから不自然さを薄めるためのものだ。
*
ロズリーは春の終わりに、男爵家から出された。
遠縁にあたる未亡人が、郊外に小さな家を持っていた。
「そこには庭があり、乳母を一人置けるんだ。使用人の出入りも少ないし、町からも遠いぞ。静かに育てられるだろうさ」
父は言った。
――静かに。
母も頷いた。
出て行く日、ロズリーは白い帽子をかぶせられていた。
まだ首も据わりきらない小さな体を、乳母が抱いていた。
外用の布は母が選んだ。生成りの柔らかい毛織で、縁だけに細い刺繍が入っていたけど、男爵家の紋はない。
玄関前には、紋を消した馬車が待っていた。
見送りに立ったのは、乳母と家令と、私だけだった。
「お嬢様、風に当たります」
家令がそう言った。
「すぐ戻ります」
私は玄関の石の上に立った。
乳母が馬車に乗り込む時、ロズリーが小さく声を上げた。
泣き声というほどでもない。喉の奥から出た、短い音だった。
乳母は慣れた調子で布を直し、頬を寄せた。
「大丈夫ですよ、ロズリー様」
――ロズリー様。
その呼び方に、家令が少し眉を動かした。けれどその日は何も言わなかった。
馬車は門を出た。車輪が砂利を踏み、やがて音が遠くなった。
庭師が表の道に水を撒いていたので、轍はしばらく濡れた土に残った。
午後になると、母は私の部屋に来た。
「よい家よ。あの乳母もついているし、あの子にとってもその方がいいの」
母はそう言った。
――あの子。
はい、と私は返事をした。
母は少しほっとした顔をした。
私が取り乱すと思っていたのか、それとも、恨み言でも言うと思っていたか。
――そのどちらも、真っ平だった。
*
ロズリーの育つ家は、町から馬車で半刻ほど離れたところにあった。
小さな家だった。
壁は白く、屋根は古い赤瓦で、庭には古い林檎の木が一本あった。
最初に訪ねたのは、ロズリーが一歳になる少し前だった。
母には、気分転換に修道院へ寄ると言った。実際、途中まではその道だった。
乳母は私を見ると、驚いて、それからすぐ頭を下げた。
「お嬢様……!」
――お嬢様。
私は、その呼び方のまま家に入った。
ロズリーは床に敷いた布の上に座っていた。髪は薄い金に近い茶色で、目は大きかった。
乳母が小さな木の輪を渡すと、両手で握り、すぐ口に持っていく。
「何でも口に入れる頃で」
乳母は笑った。
ロズリーは私を見た。じっと見て、木の輪を握ったまま、乳母の膝へ体を寄せた。
「初めて見る方だからですよ」
「ええ」
私はそう答えた。
――初めて見る方。
その通りだった。
私は菓子と布を置いて帰った。
帰りの馬車の中で、林檎の木の枝が窓の外を過ぎていくのを見た。
花も終わり、葉の緑だけが濃くなっていた。
*
それから私は、年に数度、あの家を訪ねるようになった。
表向きは、修道院への寄付、遠縁への見舞い、療養を兼ねた郊外への外出だった。
母は初めのうち詳しく聞いたが、私が帰るたびに穏やかな顔をしているので、そのうち何も言わなくなった。
父は私の体調が戻って社交の準備ができるなら、それでよいという風だった。
ロズリーは歩くようになり、言葉を覚え、庭の林檎の木の下で転ぶようになった。
二歳の頃には、私のことを「おじょうチャマ」と呼んだ。乳母がそう教えたのだろう。
三歳になると、菓子を受け取った後で必ず膝を折るようになった。
四歳の頃には、私の帽子についている羽を触りたがった。
「さわってもいいデスカ?」
「ええ」
私が屈むと、ロズリーはそっと羽の先をつまんだ。
子供の指は、まだ丸く、爪も小さい。触った後、嬉しそうに乳母を見ぬ。
「ふわふわ」
「そうですね」
乳母は笑った。
私は帽子を戻し、椅子に座った。
小さな客間には、いつも薄い茶が出た。砂糖は少なく、焼き菓子は少し固い。
けれどロズリーはそれを大事に両手で持ち、半分だけ食べて、残りを乳母へ見せた。
「あとで」
乳母は言う。
「あーとーでー」
ロズリーは真似をした。
私は一つ一つ、覚えていった。
――ロズリーは黄色いリボンを好んだ。
――靴の留め具を自分で触りたがった。
――嫌いな野菜を皿の端へ寄せる。
――眠くなると左の頬だけ赤くなる。
――知らない人が来ると乳母のスカートに隠れ、慣れると相手の袖を引く。
私のことには、なかなか慣れなかった。間が空くのだから、当然だ。
次に会う頃には、ロズリーは少し背が伸び、言葉が増え、前に教えた遊びを忘れている。
私はそのたびに、もう一度同じことをした。
小さな布人形を座らせ、木の皿に菓子を一つ置き、リボンの色を選ばせた。
五歳の誕生日には、小さな靴を贈った。柔らかい革で、留め具は銀色だった。
乳母は包みを開けて、少し目を丸くした。
「こんな良いものを」
「子供の靴は、すぐ悪くなるでしょう」
「ええ、でも」
乳母はそこで言葉を切り、靴をロズリーへ見せた。
ロズリーは目を輝かせた。
「わたしの?」
「ええ、あなたの」
そう答えたのは乳母だった。
ロズリーは靴を胸に抱き、それから私の方を見た。
「ありがとうございます、おじょうさま」
その日、ロズリーは何度も新しい靴を履いた。
庭に出て、石畳の上で音を鳴らし、林檎の木のまわりを回る。
乳母が転びますよ、と声をかけると、ロズリーは笑って、少しだけ速度を落とした。
小さな靴音が、庭の石に当たっていた。
その音を、私は長い間覚えていることとなる。
*
六歳の春、男爵家に子爵家から使いが来た。
父は使いと書斎で会った。
私はその時、二階の廊下にいた。母へ頼まれた刺繍糸を選びに、衣装部屋へ向かう途中だった。
使いの声は低く、言葉はよく聞こえなかったが、「子供」「血筋」「こちらで」という単語だけが廊下へ漏れていた。
私は衣装部屋へ行き、刺繍糸を選んだ。白、薄青、銀鼠。母の好きそうな色を三つ取る。
それから部屋へ戻る途中、再び父の書斎の前を通った。
扉は閉まっていたが、中から、父の声が聞こえた。
「今さら」
その言葉だけが、はっきり届いた。
夕方、母が私の部屋へ来た。
香水は、昔より薄くなっていた。けれど同じ花の匂いだった。
母は椅子に座り、しばらく刺繍枠を見ていた。
「ねえ、オードリー、……子爵家が、あの子を引き取りたいそうよ」
私は針を布へ通す。白い布に、銀鼠の糸が少しだけ見えた。
「そうですか」
「血筋のことを、どこかで聞いたらしいの。あちらにも事情があるのでしょう。養女という形にするようだわ」
あちらにも事情。
――子爵家には、正妻との間に子が少なかった。
――あるいは、いても弱かった。
――あるいは、後々の保険が欲しくなった。
父はそう考えたのだろう。
母は、これであの子の立場も悪くはないと言った。
「子爵家で育つなら、少なくとも身分は整うわ」
――身分は整う。
その言葉は、よく磨かれた銀器に似ていた。
表面だけなら、確かに光るだろう。
ロズリーの小さな靴音が、庭の石に当たる音を思い出した。
林檎の木。黄色いリボン。半分残した焼き菓子。乳母のスカートの陰からこちらを見る目。
子爵家の門は、私も何度か見たことがあった。高く、黒く、飾りの多い鉄門だった。
門柱には子爵家の紋が彫られている。
――あの家の書斎にも、きっと重い燭台がある。
「……お前は、もう会いに行かない方がいいわ」
私は刺繍糸を引いた。布の裏で、糸が少し絡んだ。
「わかってちょうだい。今は、あの子のためにも」
――あの子のため。
母はその言葉を、ようやく見つけたという顔で言った。
――あの子のために、母は私を止める。
――あの子のために、父は書類を整える。
――あの子のために、子爵家は門を開く。
私は糸を切り、絡んだ部分を直した。
「わかりました」
母は、ほっと息をついた。
*
翌週、ロズリーは子爵家へ移った。
父が手続きをし、母は礼拝堂へ行き、乳母には十分な礼金が渡された。
郊外の小さな家は閉じられ、庭の林檎の木は次の借り手が管理することになった。
その夜、私は衣装箱の底から、小さな包みを出した。
乳母が昔、こっそり渡してくれたものだった。
ロズリーが赤子の頃に使っていた産着の端切れと、五歳の時に撮らせた小さな写真。
写真の中のロズリーは、椅子に座り、黄色いリボンを結んでいた。靴は、私が贈ったものだった。
私はそれを金の縁の、あまり大きくないロケットに入れた。
嫁入り道具として母が用意していたものの一つで、中に肖像を入れられるようになっていた。
母は将来の夫の絵でも入れなさいと言った。
私はロズリーの写真を入れた。
蓋を閉めると、金具が小さく鳴った。
*
子爵家から最初の手紙が届いたのは、ひと月ほど後だった。
差出人は子爵家の執事だった。
宛先は父だったが、母が私にも見せた。きっと安心させるつもりだったのだろう。
そこには、ロズリーが無事子爵家に慣れつつあること、教育係をつけたこと、子供部屋を整えたことが書かれていた。
丁寧な字だった。
けれど、窓の向きも、寝台の色も、ロズリーが何を好むかも書かれていなかった。黄色いリボンのことも、靴のことも、焼き菓子を半分残す癖のことも。
その手紙の中で、ロズリーは「お嬢様」になっていた。
私はロケットを開け、写真を見た。
黄色いリボンの少女が、椅子の上で少し緊張した顔をしていた。
その時、子爵家の門が、私の頭の中でゆっくりと閉まった。




