番外編2 オードリー――男爵家は忙しかった
休憩所の客室には、火の入った暖炉があった。
王家の管理する施設らしく、家具は古いが手入れは行き届いている。
寝台の上には灰色の毛布が二枚、机には水差しと杯が一つ。壁際には小さな聖像が掛けられていた。
旅人のため、罪人のためというより、ただ誰かを一晩泊めるための部屋だった。
扉の外に護衛が立つ。鍵の音がした。私は窓辺の椅子に腰を下ろした。
伯爵家なら、この部屋には花を一輪置いただろう。旅の途中なら香草を焚き、寝具の湿り気を確かめさせる。水差しの横には薄い布を置き、夜中に喉が渇いた時のために蜂蜜入りの湯を用意させた。
……ここには水だけがある。それで十分だった。
窓の外はもう暗い。馬車の轍が、庭の泥の上に黒く残っていた。
厩の方で馬が鼻を鳴らす。どこかで、火かき棒が炉の石に当たる音がした。
薬草の匂いが、少しだけする。暖炉の上に吊るされた乾いた束だろう。ありふれたものだ。風邪の時に煎じる葉、腹痛に使う根、眠れない夜に湯へ落とす花。
男爵家の奥の部屋にも、いつもその匂いがあった。
***
最初に気づいたのは、医師だった。
母は椅子に座り、私は寝台にいた。
カーテンは昼でも閉められていたから、部屋の中はいつも同じ明るさだった。
朝なのか午後なのか、廊下の足音で判断する日が続いた。
朝は侍女の靴音が軽く、午後は母の靴音が少し重い。夕方になると、父の書斎の方から来客の声が聞こえる。
医師は私の脈を取り、母へ視線を向けた。
その一瞬で、母の背筋が伸び、顔色が変わった。
「――まさか」
母の口が開いた。
医師は黙って鞄の留め具を閉め、椅子の横へ置く。その動作が丁寧だったので、母は余計に青ざめた。
「……もう少し確かめる必要があります」
「確かめる、ですって?」
母の声が少し高くなった。
私は二人の声を聞きながら、天蓋の裏を見ていた。
淡い黄色の布だった。小さな花模様が織り込まれている。子供の頃、熱を出した時にも同じ天蓋を見た記憶がある。花は規則正しく並んでいて、数え始めるとすぐに途中でわからなくなったものだ。
*
医師は日を改めてまた来た。
その次の日にも来た。
母は廊下で侍女を叱った。声は低かったが、扉の隙間からよく聞こえた。
――薬湯を持ってくる時には蓋をしなさい。
――部屋の前で話し込むのはやめなさい。
――洗濯物は母屋の裏ではなく、古い物干し場を使いなさい。
誰が何を見たか。
誰が何を聞いたか。
誰が何を運んだか。
男爵家の中で、そればかりが改められていった。
*
父は三日目に来た。医師と家令も一緒だった。
母は椅子に座っていたが、父が入ると立った。
父は暖炉の前に立ち、火のない炉の中を一度見た。灰はきれいに掃かれていた。
「子爵家へは……?」
母が言った。
「こちらから言うことではない」
父は短く答えた。
「けれど……」
「証拠がある話ではない」
――証拠?
私はその言葉を初めて聞いた。
医師が少しだけ顔を伏せた。家令は床を見ていた。
母の香水はその日、いつもより濃かった。苦い薬草の匂いに混じって、甘い花の匂いが天蓋の中まで入ってきた。
「この子は……!」
「だからこそだ」
父は母の言葉をそこで切った。
「もしここで我々が騒げば、この子の先が閉じるんだ。子爵家は認めない。こちらだけが傷を負う。……なあ、お前もわかっているだろう?」
大きくため息をつくと、母は椅子の背に寄りかかった。
布張りの椅子だった。指で強く押せば跡が残る。母のドレスの裾が、床の上で小さく鳴った。
私はただ、天蓋の花を数えていた。一つ、二つ、三つ―― 四つ目でわからなくなった。
「相手が悪かったんだ」
父はただ、そう言った。
*
その日から、私の食事は変わった。肉の匂いが強いものは出なくなり、薄いスープと柔らかいパンが増えた。
湯は日に何度も運ばれた。
古い乳母が呼ばれ、母の侍女がさらに一人増えた。
私の部屋の隣にあった小部屋には、畳んだ布と桶と薬瓶が置かれるようになった。
男爵家は、また忙しくなった。
父は出入りの記録を改めた。
母は侍女たちの部屋割りを変えた。
家令は古くからいる下働きへ金を渡し、遠い親戚の屋敷へ移した。
料理長は私の皿を別に作り、洗濯係は血のついた布を暖炉で焼いた。
誰も子爵の名を大きな声で口にしない。
名前を小さく扱うほど、あの男の輪郭は屋敷の中で太くなった。
父の書斎の扉、母の香水、医師の鞄、閉められた雨戸。どこを見ても、子爵の名がそこに染みているようだった。
*
そのうち、腹が少しずつ重くなった。
鏡は部屋から出された。母の指示だった。けれど窓硝子には、夜になると姿が映る。
灯りを背にすると、薄い布越しに腹の丸みが浮いた。
私は窓の方へ向かう時間を減らし、昼間は刺繍枠を持つことが増えた。
針は布を通る。白い布に白い糸。柄はほとんど見えない。
母はそれでいいと言った。目立つものを作る必要はない、と。
――必要。
その言葉も便利だった。
――必要な医師、
――必要な薬、
――必要な嘘、
――必要な沈黙、
――必要な婚家のための体面――
――必要な娘の将来!
ああ、私の腹の中で動くものにも、きっとそのうち、必要という言葉がつけられるのだろう!
*
季節が変わった。
庭の花が終わり、窓の外の木々が葉を落とし、暖炉には火が入るようになった。
母は私の部屋に来るたび、火加減を見た。
乳母は古い歌を小さく口ずさみながら、布を畳んだ。
――父はあまり来なくなった。
*
産婆が来た夜は、雨だった。
屋根を打つ音が強く、廊下を走る足音が何度もそれに紛れた。
母の声、産婆の声、乳母の声。
灯りが増え、部屋の中の影が濃くなる。
薬湯の匂い。熱い湯。古い布。濡れた靴。扉の外で誰かが祈る声。
痛みは波のようなものと聞いていたけど、そんなものではなかった。
波なら引く。
けれどあれは、痛みは、天井から落ちてくる梁のように、次々と身体の上へ乗ってきた。
息を吸う場所を探しても、次の痛みが先に来た。
母が何か言い、産婆が返し、乳母が湯を替える。
雨の音が強くなる。
私はその痛みの間、何度もあの日の父の書斎の燭台を思い出した。
あの台座の重さ。白い蝋。赤い花と青い蔓の絨毯。
――子爵の声。
……やがて産声がした。
高く、細く、部屋の中の誰の声よりもまっすぐな。
「女の子です」
産婆が言った。母が椅子に崩れる音がした。
乳母が何かを言い、すぐ赤子を布で包む。
雨が窓を叩く。灯りが揺れる。
私の身体は寝台の上に沈み、天蓋の花模様がぼやけて見えた。
赤子は、ただ泣いていた。
小さな口が開き、顔を皺だらけにして、必死に空気を吸っていた。
産婆の腕の中で布が動いた。足の指が一度だけ出た。爪があまりに小さかった。
「奥様」
乳母が母を呼んだ。
母は立ち上がり、赤子を見た。白粉の残った顔が、灯りの中で奇妙に白かった。
「すぐ別室へ」
母がそう言うと、産婆は頷いた。
赤子の泣き声が、扉の方へ移る。
雨の音と混ざり、廊下へ出たところで少し遠くなった。
部屋に残ったのはただ、薬草の匂いと、濡れた布の重さと、母の香水だった。
*
父は翌朝になって、初めて赤子を見た。
私は隣の部屋の声を聞いていた。
薄い壁越しに、産婆が「よく飲みます」と言う。乳母が布を替える音。母が小さく息をつく音。
「名は?」
「……まだ」
母の答えには、少し間があった。
「記録に残す名と、呼ぶ名は分ける」
父はそう言った。
……また手続きの話だった。
*
女の子は、小さな寝台に移された。私の部屋ではなく、隣の小部屋だった。
母は私を休ませるためだと言った。医師もそれが良いと言った。
けれど夜になると、赤子の泣き声はよく届いた。
細く始まり、少しずつ大きくなると、乳母が起き、床板が鳴り、湯を温める音がした。
しばらくすると泣き声はやみ、代わりに、乳を飲む小さな音が部屋の隙間から聞こえてくる。
それを聞いていると、腹の中に残っていた痛みが別の形に変わった。
*
乳母は、ある朝、こっそり私に赤子を見せた。
「少しだけです」
そう言って、小さな布包みを寝台のそばへ持ってきた。
母は礼拝室に行っていた。父は書斎にいた。
赤子は眠っていた。髪は薄く、頬は赤く、眉はまだほとんど形がない。鼻筋だけが妙にしっかりしている。
指は布の中に隠れていたが、乳母が少しだけ布を直すと、小さな拳が出た。
――ロズリー。
その名は、乳母が口にした。
「呼び名だけでも、かわいらしくございませんと」
私はその名を聞いた。
――ロズリー。
薔薇の名に似ている。ふと、庭の奥、古い石壁に絡む、棘の多い野薔薇を私は思い浮かべた。
赤子の口元が少し動く。眠ったまま、何かを探すように。
乳母はすぐ布を戻した。
「……奥様に叱られますから」
その時の「奥様」は、母だった。
私は寝台に横たわったまま、乳母が小部屋へ戻る音を聞いた。雨はもう上がっていて、窓の外では庭師が濡れた枝を払っている。
――ロズリー。
名前だけが、部屋の中に残った。
その日、昼のスープはいつもより少し濃かった。
料理長が産後の体に良いと言ったらしい。母は盆の上の皿を確かめ、侍女に下がるよう命じた。
「よく休みなさい」
母はそう言うと、しばらく寝台の横に立っていた。
何かを言いたげな顔をしていたが、結局、カーテンの端を少し直しただけで部屋を出た。廊下で靴音が遠ざかって行く。
その音をうかがっていると、隣の小部屋から、ロズリーの泣き声が聞こえた。
私は天蓋の花を数えた。一つ、二つ、三つ。
四つ目に入る前に、乳母の歌が聞こえた。
短い、でも懐かしい。
昔、私が熱を出した時にも聞いたことがある歌だった。




